お願い
それは九月の終わりの事だった。
「亮ちゃん、お願いがあるんやけど……」
と冴子が話を切り出した。
いつものように昼休み、僕は音楽室でピアノを弾いていた。そこに冴子がやってきてしばらく黙って僕の演奏を聞いていた。
部活の事でも相談したいことがあるのか、ただ単に暇つぶしに来ただけなのか僕は判断しかねていたが、冴子が何も言ってこないので僕はいつも通りピアノを弾いていた。
そして僕が曲を弾き終わったタイミングで冴子は
「やっぱりこの音は外せんなぁ……」
と自分自身に言い聞かせるようにひとりごとを呟いたかと思うと、さっきの『お願い』を口にした。
「お願い?」
と振り返ると冴子の表情がいつもと違って、あまり見たことが無い真剣な表情だったので少し違和感を感じた。
そう、いつものような上から目線でもなく、まだ何かを考えあぐねているような表情だった。
あえて表現するなら、声を掛けたのは良いが話を直ぐに切り出せずにまだ迷っているように僕には見えていた。
「あのね……本選でのピアノ伴奏、お願いしたいの」
唐突だった。
「はぁ?」
それは予想外のお願いだった。一瞬何を言っているのか理解できなかった。
暫く瞬きを繰り返してから
「本選って……コンクールの事か?」
と僕は聞き返した。
「うん。そう」
と冴子は表情も変えずに真顔で答えた。
今年、冴子は昨年僕たちがピアノで参加したコンクールに、『改めてヴァイオリンで挑戦する』と宣言していたのは知っていたが、まさかその伴奏者に僕を選ぶとは思ってもいなかった。まさに青天の霹靂である。
「本気か?」
当然の如く、僕は聞き返した。できれば僕の聞き間違いであって欲しいと願いながら。
「本気」
表情も変えずに冴子は即答した。どうやら僕の聞き間違いでも空耳でもなかった。
「予選はどないしたんや?」
「課題曲が無伴奏やから一人やった」
――確かに無伴奏には伴奏は要らんな――
「あ、そっかぁ……」
一応僕もヴァイオリンは弾くが、コンクールには全く興味が無かったので詳しい内容までは知らなかった。
ついでに言うと冴子の挑戦に全く興味も関心もなかった訳ではなかったのだが、僕としてはコンクールの結果だけが分かればそれでよいと軽く考えていた事実は否めなかった。
要するに冴子が予選で終わるとは全く考えていなかったし、全国にコマを進めても、それは『当たり前だろう』と当然のように受け入れていたと思う。
しかし冴子に『僕がこの冴子の挑戦に全くの無関心だった』と、思われたのではないかと少し不安になっていた。
そんな焦りを悟られないように
「地区大会の本選はピアノ伴奏が必要なんや?」
と平静を装いながら僕は聞いた。
「うん」
と冴子は素直に答えた。冴子は何も気にしてはいないようだった。どうやらそれは僕の杞憂だったようだ。
なので僕は改めて気を取り直して
「それで伴奏を俺にやらそうと思っとぉ訳やな」
と聞いた。
「……やらそうなんては思ってないけど……」
何も気にしていないどころか、日頃のタカびーな冴子の姿さえここにはなかった。
それは僕に伴奏をしてもらいたいがために下手に出ているというよりは、冴子なりの公私のけじめのようなものを感じた。
冴子は日頃から自信満々でタカびーな女に見られがちだが、それは彼女の本当の姿ではない。
こと楽器の演奏に関しては、どちらかと言えば真摯な姿勢で接することが多い。ただそれが僕に対してだけは、それほど態度として表れていないという事実もある。なので油断は禁物である。




