ひとつのさよなら
学生時代から5年住んだアパートを引き払うことに決めて、部屋の整理をしていた。
随分と長く住んだ家のように思えるけど不思議なほど愛着はなくて、今の職場に程近いいい部屋を見つけたからすっぱりと決めてしまった引っ越しだけど、積み重なった思い出の量は愛着の量とは比例しないらしく、場所じゃなくてここで過ごしていた時間が無性に愛しくなった。
過去には戻れない、それは確かなことだけど、その過去が「いま」としてあった場所から離れてしまうことでそれが余計に解らされてしまう気がして、なんだかつらくなったりしていた。
だけどまあ日々の喧騒の中でそれは比較的よくあるセンチメンタリズムでしかなくて、押し入れから出てくる古い雑誌やよれたTシャツを懐かしみながらも色々なものを段ボールやゴミ袋につめていく手はかってに動いた。
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そういえば、というのは強がりすぎだろうが、ここはきみと過ごした場所でもあった。ふたりで住むには狭すぎるから住んでいたわけじゃなかったが「遊びに来る」には長すぎる時間を僕らはともにここで過ごした。床やシンクやレシピを汚しながらふたりで料理をして、結局作り過ぎて残した。バカ殿をふたりで見てそれこそバカみたいに笑って、僕はタンスの角に小指じゃなくて頭をぶつけた。経済のレポートを書いていたはずなのにいつの間にか人を好きになるメカニズムについてふたりで語ったりもしていた。
そしてそんな日々のあれこれが一段落すると、僕らは深く長いキスをして「ひとつ」になった。ココロもカラダもふたつだったし、ぴったりくっついてみたってきみの考えていることなんてちっとも伝わっては来なかったけど別に僕はそれでもよくて、キスもたまにポン酢やシチューの味がしたりもしたけど、やっぱりそれでもよかった。
きみのすべてが、ただ愛しかった。
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だけどある日突然、きみはこの部屋に来なくなった。部屋の外できみに会うこともなくなって、そうなるときみの部屋を訪ねることもなくなってしまった。
それは本当に突然のことで、細かいいきさつはもう覚えてないけどうつむいて頬を膨らませていたきみの横顔はなぜかはっきりと覚えているし、僕はというとしきりに謝るタイミングを窺っていた気がする。だから多分僕がまずいことを言ったりしてしまったんだろうけど、そんな大事なことさえもうよく思い出せないのは果たして時の流れだけのせいだろうか。
結局すぐにきみへの連絡さえつかなくなって、きみを信じていたつもりだった僕は裏切られたと思っていたけど、もしかしたらそれは自分に甘えていただけのことだったのかも知れない。
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もともと「ふたつ」だった僕は、もっともっとふたつになって、もうお互いを雑踏の中で見失ってしまったまま坂道を転がるように今日まで辿り着いた。
そんなわけでいま僕は、「ひとつ」だ。例えばこれから誰かと出会ってまた「ふたつ」になったとしても、僕はきっと「ひとつ」のままだろう。
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きみはこの部屋に何かしら自分のものを置こうとはあまりしなかったし、きみが出ていって半年もしたころにはその少ないきみの品物も捨ててしまった。
ついでに僕は写真はを撮るのも撮られるのも嫌いだったから、この部屋にきみの足跡は多分もうない、と昨日まで思っていた。
……はずだったんだけど、プラスチックの衣装ケースの下に入り込んだいつのものだかも解らないきみの可愛い、だけどしっかり調った文字で書かれた書き置きが出て来た。
どうやってこんな所に入り込んだのか少し不思議に思いながら、短い文面を目で追う。
『バイトがあるから先に帰ります。荷物は置いておくけど、夕方の5時ごろにまた来るね。』
小さな手紙に小さな涙の雫がひとつだけ不意に零れて、それを合図にそういえばきみが選んでくれたもののような気がする殺風景な僕の部屋には似合わないキャラクターの時計が5つチャイムを鳴らした。
それから程なくして最近はめっきり聞くことも少なくなってしまった、でもやっぱり聞き慣れたいくぶん間抜けな音で明後日までの「我が家」のチャイムが鳴って、引っ越し屋が追加の段ボールを持ってきた。
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受け取ったぺちゃんこの段ボールの束を床に放り出して、西日の窓を全開にして外を見た。
短い11月の夕焼け空に真っ赤な太陽が急いで沈んでいっていて、だけど僕の周りを流れる時間は少しだけ、ゆっくり流れていくように思えた。
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ゆっくり転がっていく僕はやっぱり「ひとつ」で、そんでもってやっぱりきみのことが好きだった僕はここにいたんだなあって、オレンジ色の空の上半分が黒くなるぐらいまでゆっくり、しみじみ思った。
そして新品のガムテープの包みを開け、とりあえずふたつ、段ボールを組み立てて荷造りを再開した。
出来上がった空っぽの段ボールだけは、大口を開けてしきりに明後日に向けて僕を急かしていた。
<了>




