【出会い】
ここ数日間振り続ける雨は、雨風を防ぐためにいる洞窟にも悪影響を与えていた。チロチロと小さな流れになって雨水が洞窟の中に入り込んでいる。
洞窟の中で外の様子を陰鬱とした表情で見つめる一人の男がいた。ただでさえじとっとしている洞窟の中、男は雲間から覗く太陽の光とからりとした風を待ち望んでいた。今は夜中であるため、たまに雲の切れ間から月明かりが漏れる程度で、それでも月を拝むことはできないでいた。
男は非常に奇異な格好をしていた。
体中を包帯に身をつつみ、その上からところどころ敗れた着物を羽織っている。素肌が出ているのは手の先と、口と鼻と右目のみ。包帯は何度も洗っているためかよれよれになっており、着物もその役割を果していない。それでも軟膏を塗り包帯で保護するだけでも、状態はいくらか良いと男には思えた。
洞窟内はじめじめと湿気り、男の身体に巻いた包帯もじっとりとしている。こんな湿気の高い日は、小まめに身を清めようが腐臭があたりを覆い、また体に包帯を巻く原因となった症状による痛みはないが、代わりに皮膚は軟膏をいくら塗ろうとも、じくじくと肌が膿むようだった。
雨が小降りになってきた。
暗闇に紛れ、いくつもの気配が近づいてきている。その数は数十ほど。男はほぼ正確に気配を察知していた。
隠そうともしない気配は、こちらに逃げ場がないのを知っているからか。それとも甚振るつもりなのか。
そろり、と懐に手をいれる。
迫りくる黒い群れ。
男の手が冷たい塊に触れた。
――その、刹那。
キィン。
澄んだ高音とともに、銀色の光芒が走った。
一瞬の出来事だった。
気がつくと厚く月明かりを遮っていた雲は薄くなり、僅かだが光を通していた。
その光の跡には黒い物体がいくつも横たわっている。
男は誰何の声を聴いた。ここからではよく見えないが、思いもよらない相手からの反撃にあったのだろう。
サアア…と雲が引いていくにつれ、月明かりに当たりが照らされた。その場の状況が露わになる。蹲る黒い影は十といくつかあったであろうか。それが一瞬の光芒によってなされたことに、男は驚きを禁じ得なかった。
黒い影の中に、一人の少女が佇んでいる。
銀色。
一目見て感じたのは、その髪のこと。つややかに腰まで伸びる髪が、銀盤から発せられる光を照り返し輝いている。
銀色の光芒と感じたのは、この少女の髪色だったのか。
黒い影が怒鳴り声を上げる。自分に向けられたことのない感情の爆発。男にはいつも冷たく無言で刺さる殺気を向けられていたから、その感情の発露は珍しく感じた。
シッッ
少女は鋭い気合の息を吐いて、殺気を向けてくる黒い影に刃を走らせる。
斬ッ斬ッ斬ッ! 斬ッ斬ッ斬ッ!
律動的な音と共に少女の片腕の長さよりも長い刃を振るえば、影が切り伏せられる。
男がその無駄のない動きに見惚れ、ハッとした時には、男たちに迫っていた黒い影は全て地べたに横たわっていた。
銀髪黒眼。―――雲一つない澄んだ夜空に輝く月光。
その情景を体現しているかのような姿をしているのは、成人もしていないような少女だった。その手足は痛ましいほど細い。にも関わらず息切れのひとつもしていない。先ほどの蹂躙が見間違いだったのではないかと思った。
その瞳には意思の力はなく、ぼんやりとしていた。何も映さず漆黒の深淵を覗かせるのみ。声をかけて肩を揺するが、その腕は糸が切れた操り人形のようにだらりとしている。どれだけ声をかけようが気が付く様子もなく座り込んでいた。あんな一撃で十数人を倒していた面影は一つもない。
累々と横たわる屍に、自失している少女。
とんでもなく面倒なものを抱え込んだようで、―――男は渋面となった。
数日後。相変わらず少女はぼんやりしていた。
あれから少女を洞窟へ運び込み、大雑把に少女の身体の汚れを拭った後、黒い影から剥ぎ取れるものは取ってしまい、残った身体のほうは少し離れたところにある森の中に埋めた。その行為は余程慣れたことなのか、手際が良いものだった。
結局少女の面倒をみることとなった。だがそれは結果論で、みたくてみているわけではないし、面倒をみる、といっても少女は奇妙なほど手がかからなかった。いや、この言い方は語弊がある。『最初は』手をかけたが、手がかからないことに気がついたと言うべきか。
仕方がないと、黒い影の身体を埋めた翌朝、森から採ってきた果物を少女の口に入れようとした。しかし口を開けない。無理やりこじ開けて捻じ込んだ。次に、口に水を流し込んでやろうとすると、またもや口を開けない。チッ、と舌打ちし、無理やり口をこじ開けると、咀嚼していない唾液まみれの果物がころん、と転がった。
―――この野郎……っ
もう知らん、と放っておくことにした。お腹が空けば手を出すだろうと、転がった果物と水が入った器をそのままに、男は棲み処である洞窟を出て森へと向かった。
獲物となる小動物を数体しとめて戻ってくると、そこはそのままだった。果物にも水にも手をつけた様子はない。そもそも、少女の様子が変わってなかった。目はぼんやりと中空を見、腕はだらりと垂れ下がったまま。男がでていってから何も。ただ、果物が転がり出た時についた顎の涎だけは乾いてうっすらと白くなっていた。
あの手足の細さからいって、お腹は空かせているはずだ。少なくとも昨日から何も食べてはいないだろうと当たりをつけていた。それなのに手を伸ばしていない。そして男は思い出す。この茫然自失としたままの様子は昨夜から続いているということに。
少女は睡眠も食事摂取もしていないのだ。睡眠欲も食欲もないとは。排泄欲については言わずもがなだ。つまり、人間が本能的に必要とするこういった生理的欲求を求めないのだ。
数日前のあのことについて、男は考えをめぐらす。敵を倒すことを頼んだわけもなく、完全に彼女の勝手であり、何故あそこで初対面である男を彼女が助けようとしたのかもわからない。男には少女の面倒を見る義務もない。ただ、あんな人間離れした達人技を見せつけられると興味がわいた。
興味の対象は、未だに手に握る力を緩めないその刀剣にも向けられる。
あれから何度も手から放そうとしたが、固まったように刀剣を握る手指は動かなかった。その剣は装飾品かと思われるほど柄の部分が石で埋まっていたが、刃の部分は研ぎ澄まされた妖しい光を反射していた。
ここで男は思い至る。
特殊な生態と、突出した存在感を醸す刀剣。今では見かけたという噂すら聞かれなくなった、古代人の末裔かと……。
―――興味の観察など、そんな生ぬるいことをしている暇などない。
自嘲の笑みに口端を歪める。
男の故郷では月の満ち欠けで月日を決めており、次の新月まではあと四分の一ほどあった。
あと数日。それが期限だろう。それまでに少女を追い出さなければならない。
でなければ、男は―――。
ぞわり。
―――まさか。
自らの身体の中をおぞましい物が浸食してくるような感覚に男は青ざめた。何度も味わったはずのその感覚には今でも慣れない。
―――冗談じゃない。次の新月まではまだまだあるはず。
身体が灼熱の炎に炙られたように熱くなる。ぐぁあ、と押し潰した声を上げて身を焼く痛みを堪えようとする。
それとは逆に体の芯は雪吹きすさぶ北国に裸で放り込まれたように冷えていく。
動悸が激しくなり、右手で心臓を抑える。左手で震えだした身を支えるように左肩を掴んだ。
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少女は夢を見ていた。ずっとずっと。幾年月もの間。
少女の生まれ育った場所での暮らし。それは決して甘いものではなかった。血の滲む努力をしても結果が出ず、周りには白い目で見られ虚しさとやるせなさが募った。
そこから出るきっかけになった出来事。血の涙を流す思いとは、こういうことかと思った。
初めての”外”、”外”との関わり。自分が必要とされる、満たされた思いを感じることができた。
”外”から逃れるように出てきたこと。自分を満たしていたものは、しかし思い上がりであると思い知らされた。
そこまで見ると、また最初に戻って少女が生まれ育った場所へとまた場面が戻る。
ひたすら繰り返されるそれを、少女は甘受していた。
―――それは自分が受ける罰、だから。
少女は永遠に続くかと思われたその夢の中で揺蕩っていたが。
―――不穏な気配がする。
ぞっとするような感覚。それは、神にも代わると言われたあの一族の棲家でも滅多に感じたことのないもので、少女の警戒心を呼び起こす。
少女はぱちりと目を開けた。どこだろう、とふと疑問に思ったがどうでもよいことのように思えた。
不穏な気配の元を確かめるため周りを見回す。月明かりも差し込まないここは真っ暗だ。しかし少女の眼はそれを捉える。声の主だけではない。
暗闇よりも昏い何かが、男からあふれ出ていた。
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