MARIA IN THE CAGE
短編ですが22000文字くらいあります。
~前編~
「……ア」
声が聞こえる。
「……リア」
どうやら、私の名前を呼んでいるみたいだ。
「……マリア」
優しい声のトーンに導かれ、私はゆっくりと目を開けた。
「やあ、マリア。目が覚めたみたいだね」
透明な強化ガラスの向こう側に、良く知っている、その人が立っていた。白衣を着た、この男の人は──。
「具合はどうだい? 今日は君の大好きなケーキを買ってきたよ。あとで一緒に食べよう」
この人は私の父親だ。誰が決めたか知らない。でも、私のお父さん。
「もうすぐ君の誕生日だね。誕生日には……」
彼の口から発せられる言葉、暖かい眼差し、惜しみの無い愛情。全てが私に向けられている。本当の親子というのがどういうものかよくわからないけど、多分父親が娘に話しかける時はこんな感じなのだろう。
……私は、この人が本当の父親でないことを知っているはずなのに。
今、私は難しい名前の液体で満たされた、ガラスケースの筒の中にいる。
何か問題が起こると、私はこの中に入れられるのだ。
……いや、違う。何も問題が起きなくても、定期的に入れられている。この中にいると心が落ち着いて、いつの間にか寝てしまう。そして目覚めても、自分がどれだけ眠ったのか、すぐにはわからない。……今回もそうだ。
──今、何時だろう?
まあ、そんなことはどうでもいいや。お父さんがいるということは、すぐにここを出してもらえるということだ。そうしたら私の大好きなケーキも食べれるし、みんなと話もできる。みんな優しいし、欲しいものは大体用意してもらえる。
だから私はここにいる。
それが全てだと思っていた。
それが当たり前だと信じてきた。
ゆっくりと水の抜けていく音がする。お風呂の栓が抜けて、バスタブから水が無くなっていく、あの感じ。
──あれ? 私、何でこの『水槽』の中に入れられたんだっけ?
どんなに頑張っても、それは全く思い出せない。そこだけが、その記憶だけが、まるで空白なのだ。
間も無く、私の体を水槽に固定していたバンドが外されて、自由に動けるようになった。全身の感覚が重く鈍い気がするが、こうやって自分で呼吸している感覚は悪くないものだ。
それからすぐ、水槽から出たばかりの私の元に誰かがやってきた。……お父さんだ。彼は手に大きなタオルを持っていて、それを私にかけてくれた。
「気分はどうだい? マリア」
「……悪くないと思う」
お父さんは嬉しそうに微笑んだ。何がそんなに嬉しいのだろう……。
それにその名前。
私はマリアという名前らしく、みんながそう呼ぶんだけど。
でも、私は……。
あんまり好きではない。
「さぁ、部屋に行こう。身体も乾かさないと」
やはり、少し足の感覚が弱い気がする。それに何だか重い。水槽から出て、今ではもう身体のほとんどが軽く感じられるのに、足だけがうまく言うことを利かないなんて、とても不思議だ。もしかしたら、私はものすごく長い間、あの中にいたのかもしれない。思い通りに動いてくれない足を引きずるようにしながら、お父さんの後に続いて歩き出した。
ふと見ると、ガラスの向うの研究室に、知っている人達の姿があることに気が付いた。ほとんどのみんなが白衣を着ている。少し遠くだったけど、小さく手を振りながら微笑んでいる女の人が居る。この人はリカさんと言う名前で、とても優しくて綺麗な人だ。私は笑顔を作るのが苦手なので、とにかく手だけ振っておいた。
水槽の外はもう一つ別の部屋に繋がっていて、それは身体を乾かすことのできる小さな部屋になっている。それと同時に、そこは私専用の通路で、この水槽部屋の出入り口にもなっていた。逆に、ガラスの向う側の研究室には、私は入ってはいけないと言われている。
乾燥室で充分身体を乾かしてから、いつもの緑色の服に着替え、それから先は、お父さんと一緒に部屋へ向かう。これは何の変哲も無い、いつものことである。
しばらくは無機質でただ長いだけの廊下を歩いて、頑丈な扉を何回か通る。ドアごとに色々な方法で通り抜ける。それは、ただの簡単な鍵の場合もあれば、開けるのにカードが必要な厳重なロックだったりもする。何と言っても、私の部屋は研究所の中でも、もの凄く奥の方にあるのだ。それは決して楽な道のりではない。
──そして、最後に現れる扉。これは特に頑丈なもので、みんなからはネメシス・ゲートと呼ばれている。ネメシスとは、どこかの国の神話に出てくる女神の名前だったと思う。
私の知る限りでは、ここは特にセキュリティの厳しい場所だ。研究所の中はだいたいが機械任せだけど、ここにはちゃんと見張り番がいて、通過する人間をしっかりとチェックしている。
「久賀だ。通行許可を」
お父さんが、当番の人間にそう言った。前に、「私なら顔パスなのだが」と言っていたのを思い出す。顔パスとは、必要な手順とか特別な許可がなくてもここを通れるということらしい。お父さんは、ここでは一番偉い人なんだそうだ。
そしてお父さんは私を守るために、こうやって厳重なセキュリティを設けているのだと言う。何から守ってくれているのかまでは、教えてもらえないのだけれど……。
その時、番人の男の人が私のことをちらりと見た。この人……下品そうな人で、私は好きになれない。それに私を見る目つきが少し変な気がする。
通行許可はすぐに出た。部屋に向かって、私達は再び歩き出す。
私の部屋の手前には物々しい鉄格子が張られている。そして、部屋の入り口にはこれまた頑丈なドア。しかも、部屋の四方は分厚い壁に囲まれている。
こういうのを檻とか牢獄とかいうんじゃなかったっけ? ──じゃあ、私は囚人なのだろうか。
だけど、部屋の中には大き目のベッド。それに、テレビもある。あまり着る機会はないけど、クローゼットには可愛い洋服もいっぱいあるし、雑誌に載っているような物はたいがい買ってもらえる。
部屋の中で、お父さんと一緒にケーキを食べた。……私の好きないちごのショートケーキだ。とてもおいしい。とても幸せ。リカさんにも食べてもらいたいけど、私は一人ではこの部屋を出ることすら許されていない。彼女に食べてもらうには、お父さんに頼むしか方法がない。
でも、どうして? どうして、私はこの研究所の外に出られないのだろう。私くらいの年齢なら、友達とショッピングしたりお茶したりするものじゃないのかな。同年代の子に会ったことなど、ここに来てからは一度も無い。
「お父さん」
「なんだいマリア」
「私はどうしてあの水槽に入れられたの?」
「特別な理由なんてないよ。定期的に入っているじゃないか。今日はその日だよ」
……そんなの、嘘だ。日程的に今日であるはずがない。きっと、私に何かあったのだろう。
お父さんはいつもそうだ。私が何を聞いてもはっきりと答えないし、嘘だって平気でつく。でも、私だってバカじゃない。自分が普通の人間と違うことくらいわかっている。それなのに──。
私は一度だって、この研究所を出たことが無い。お父さんは決まって、こう言う。「大人になったら出られる」、って。君はみんなの希望なんだって。だから、大切に育てているんだと。
確かに、私は何一つ不自由な思いをしていない。だけど、本当のことを何も教えてもらえないまま、ここで一生を終える。そんな気がする。
……私は、本当のことが知りたい。それが、このところ感じている私の思いだ。
今日も私は父さんに色々な質問をした。だが、彼は肝心な質問にはひとつも答えてくれはしない。それどころか、鬱陶しそうに部屋を出て行ってしまった。
──その日の夜。
私は思っていたことを実行に移そうと決心した。
つまり、──私が何者で、なぜこんな風に生かされているのか──。
この研究所を調べて、その真相を知るのだ。
例えそれが無理だとしても、せめて一度くらいは外に出てやろうと思っている。
外側からロックされた部屋のドアはとても頑丈にできていて、普通の人間ではどうすることもできない。
でも、言ったように、私は『普通』ではないのだ。
目の前にある扉に意識を集中し、見えない力を撃ち放つと、うめき声のような音を立ててドアがひしゃげ、私が通るのに十分な穴が開いた。
これは、超能力とでも言うのだろうか。私が子供の頃から持っている能力だ。物体に意識を集中させると、それを壊したり吹き飛ばしたりできる。
この力はあまり人に見せたりしないから、みんなはきっとこのドアなら大丈夫だと思っていたのだろう。でも、それは計算ミスでしかない。この程度は造作もないことだった。──そう、この程度の扉を壊すことなど、私にはたやすい。
そして今この瞬間に、はっきりと思い出したことがある。
今日、私があの水槽に入れられていたのは、今みたいに力を使ったせいだ。あのときは気が遠くなって、気が付いたら水槽の中に入れられていた。おかげでメンテナンスを受けたばかりだから、体調はすごくいい。今日の私を止めることなんて、誰もできやしない。
私ノ、邪魔ハ、許サナイ。
研究所の中は自由に歩きまわれるほど詳しくはないけど、水槽があるメインルームまで行けば、そこから色々なところに繋がっているはずだ。
私は部屋から出ることに成功した。でもきっと、このことはもう研究所内に知れ渡っているだろう。
でも、今は真夜中。私は常に監視されているけれども、今なら日中よりはその監視も緩いはずだ。 『お父さん(仮)』はここで寝泊りしていないらしいから、すぐには来れないだろう。
最初のゲートまでは、特に手こずるような障害はない。……通路を歩きながらそう考えていたのだが、勢い良くシャッターが閉じて、目の前の通路を塞いだ。振り向くと、すでに後ろのシャッターも閉じていた。これは、緊急用のシャッター? やはり、私をこれ以上外に出すというのを、是が非でも避けたいらしい。
だが、そんなの知ったことではない。私は、いとも簡単に目の前のシャッターに風穴を開けてやった。ゆうゆうと穴をくぐると、また目の前にシャッター。馬鹿馬鹿しかったが、次々に現れるシャッターを破壊しながら前に進んだ。こんなもので、私を閉じ込めたと思っているのだろうか。
コンナモノデ、私ヲ、トメラレルト、思ッテイルノカ──。
無駄に時間を費やしたが、ようやく例のネメシス・ゲートにたどり着いた。これはさすがに他とは比べられないほど頑丈な扉だったが、四、五回ほど力を叩きつけたら穴が開いた。その先は例の、門番がいる監視ルームのある部屋だ。ここに来て、急に間取りが広くなった。
目の前に例の守衛の男が現れた。今の私を前にして怯えている様子も無く、何か企んでいるに違いないことはすぐに知れた。
「お嬢さん、おとなしくしてくれないかい? みんなを困らせることはやめにして」
そう言いながらも、一歩一歩ゆっくりと私に近づいてくる。
「君のお父さん……博士だって、悲しむはずだよ。こんなことは……」
こいつはいつも私のことをいやらしい目で見ていた、気持ち悪い男だ。今も、どこかニヤついているように見える。そんな男が、ジリジリと私に近づいてくる。
恐らく彼は後ろ手に何か武器のようなものを隠しているのだろう。一歩一歩、間合いを詰めてくる。
距離にして2メートル位になった。男が動きを見せる。一気に迫ってこようとした。
だが、次の瞬間には、彼の首から上は跡形も無く消えていた。私が、じっと溜めた力を彼の頭にぶつけてやったからだ。返り血と、彼の内容物が私に降り注ぐ。生暖かくて臭くて気持ち悪かったが、あの顔がなくなっただけましだ。頭を失った無残な胴体はドサッという音を立てて、その場に転がった。殺すつもりはなかったけど、結果的にそうなってしまった。右手にはスタンガンとかいうものだろう。それを握っていた。
あたりにけたたましいサイレンの音が鳴り響いている。どうやらこの守衛が警報を鳴らしたらしい。まぁ、たいしたことではないが。私は先に進んだ。
ここから先には頑丈な扉がいくつかある。頑丈と言っても、ネメシス・ゲートに比べれば大したことはない。私の力を考慮して作ったとは思えないくらい、簡単に通ることができた。全く、ふざけた連中だ。
そして、ようやく水槽のある研究室にたどり着いた。
水槽のある部屋を抜け、研究室側に出る。
──すると。
「今だ!」
研究員が物陰に隠れていたらしい。さっと飛び出してきて、私を取り押さえた。それとは別に、手の空いている研究員がもう一人。手に注射器を持っていた。
「早く打て!」
確かに、私は女だし、力はない。だけど、特別な力ならある。
私を取り押さえる二人の研究員は、力の直撃を受けて、大きく吹っ飛んだ。コンソールに頭をぶつけたのか、それから立つ気配すらしない。
残った注射器を持った研究員をじっと見る……それは、あのリカさんだった。あきらかに怯えた表情の彼女。震える手から、注射器がカチャリと床に落ちた。
私はゆっくりと立ち上がった。そして彼女に近づいていく。
「お……お願い……殺さないで……」
リカさんの歯がカチカチと音を立てるのが聞こえてくるようだった。あとずさりしたが、もうそれ以上下がれなくなって、床にお尻をついてしまった。恐怖に囚われた瞳は、瞬きすら忘れているようだった。
私はこの人を殺すつもりはない。みんな、私によくしてくれたからだ。さっきの研究者も死んではいないはずだ。
「リカさん、私は自分のことが知りたいだけ。ちゃんと教えて」
リカさんは困惑している。どこかで、断ればもしかしたらただではすまないかも、という心理があるのかもしれない。だが、私に研究の内容を教えることは許されているはずがない。彼女はどうするだろうか。
リカさんは椅子に手をついてからゆっくりと立ち上がった。怯えた表情も幾分緩くなった。
「マリアちゃん……、一体どうしてこんなことを」
「言ったでしょう。本当のことが知りたいの。みんなが隠すから、私を閉じ込めようとするから、こうしなければならなくなった。私だって、できればこんなことしたくなかった」
「全部、あなたのためを思ってのことなのよ」
「私のため……、私を守るとかいう話のこと?」
「そう……。私は研究員でしかないから、全ての情報は知らないけど、そのコンピューターからアクセスすれば、ある程度の情報なら見ることができるわ」
彼女は観念したのだろうか。椅子に座り、コンピューターのキーボードを叩き出した。
パスワードを打ち込み終わると、新しい画面が出てきた。
そこには、こうあった。
「人類救済計画、MARIAの概要・その一」
──25年前突如出現した新型ウイルスによって人類は壊滅的打撃を受けた。このウイルスは人間に対してその高い殺傷力を有するものであり、当時これに対する抗体およびワクチンを作り出すことは不可能と判断された。よって人間はこれらのウイルスを距離的な方法を持って対処せざるを得なかった。それはウイルスおよび感染者(致死率が非常に高いため、生存の可能性はゼロといっても過言ではないが)を完全に隔離するか、人類自らが安全な場所に退避し、地上に蔓延するウイルスとの接触を完全に絶つか、いずれかの方法である。しかるのち、このウイルスに対する対処法を考案することが、当時の世界におけるもっとも最良の選択肢であった。また、このウイルスは感染経路がはっきりと確認されていない上に空気感染もするため、現在、地上は人間の住むに適さない領域であると言って差し支えない。そのために人類はシェルターで生活を行い、移動は地下を経由する。また地上への外出の際は感染を防ぐため、完全防備で臨まなくてはならないのである──。
「嘘……」
私は例えようの無い衝撃を受けた。テレビや雑誌の情報から、地上では普通に人間が暮らしていると思っていたのだ。世界がそんなことになっているなんて信じられない。
「嘘ではないわ。あなたが見ていたのはVTRや、こちらで規制をかけた映像よ。何事もなく見えた様子は、ウイルス出現前の、地球上で録画された映像なのよ」
「ど、どうしてそんなこと……」
「あなたの精神が不安定だからよ。全てを知るにはまだ早すぎて、下手をすると暴走する危険性がある。だから、全てあなたのためなの」
「じゃあ、私は何のためにここにいるの」
「私だって全て知っているわけじゃない。でも、久賀博士なら全て知っている。この計画の情報も、私ではここまでしか調べることができない。ただあなたがこの計画の鍵を握っているということはわかるけどね」
リカさんが立ち上がった。私は呆然とした。もう、何もわからなくなっていた。
「だからマリアちゃんは、この研究施設にいてくれるだけでいいのよ。じきに全て教えてもらえるわ。だから、ね、満足したでしょ。部屋に戻りましょう」
リカさんになだめられ、私は余計に困惑した。そもそも、私という存在は何なのか。結局、それはわからない。私はコンピューターのモニターをじっと見つめていた。
「いやだ」
「……え」
「全てわかるまでは、戻らない」
「そう……わがままなコね」
なぜかリカさんはそう言っただけだった。声が背中から聞こえる。いつの間にか彼女は私の背後に回っていた。
「いずれにしても、あなたはこの研究所でないと生きられない身体なのよ。あきらめて、これ以上の詮索はやめたほうが……いい!」
私は背後でリカさんが動く気配を感じ取った。振り向くと、彼女がいつ拾ったのか、さっきの注射器を私に突きたてようとしているではないか。私はすんでのところで彼女の腕を押さえることに成功した。注射の針はすぐ目の前。私は躊躇無く力を解放した。
リカさんの体が紙くずのように宙に舞い、奥の壁の辺りまで吹っ飛んでいった。威力のコントロールをする余裕がなかったので、もしかしたら死んでしまったかもしれない。
……だが、この人は私の隙を窺っていたのだ。もう心配などしてやるものか。私は目の端の涙を拭い、この研究室をあとにした。
どうやら、研究員が知っていることはたかがしれているようだ。これ以上自分のことを調べるとなると、やはり父親きどりのあの男に聞くしかない。それに、外の世界も自分の目で確かめておきたい。
そして、ここから先は未知の領域だ。この施設内を色々見て回るのもいいだろう。
廊下の壁に案内が書いてあった。資料室への道も記されている。どこまで調べることができるかわからないけど、まずはそこへ行くことにした。
──その時、目の前が突如真っ暗になった。電気が消えたのだ。静まり返った通路。さすがにこれでは何も見えないと思った。
だが幸いにも、数秒で電気は付いた。さっきとは違う、うっすらとオレンジ色の照明だ。非常照明とでもいうのだろうか、明るさはいまいちだけど、何とか行動できるレベルだった。
そのまま少し歩くと、資料室というプレートの付いた部屋があった。ドアには鍵がかかっていたけど、大したものじゃない。ドアノブごと吹き飛ばしてやった。中を覗くと真っ暗だった。電気のスイッチはどこだろう。手探りで壁に付いたそれらしきものを探し出し、スイッチを入れたが、主電源が落ちているせいか明かりは点らなかった。
真っ暗な部屋……。気味が悪くて、奥に入るのが躊躇われる。それに、この暗い中では、目的の資料を見つけ出すことも容易ではないだろう。せめて、ライトでもあればいいのだが──。
「仕方ない、他の場所を探そう」
私は一旦、この資料室を諦めることにした。もしかしたら、どこかで明かりになる物が見つかるかもしれないし、主電源が復旧するかもしれない。そうしたら、もう一度戻って来ようと思った。
だが、私がここを離れたいのには、他にも理由があった。
実はさっきから、何となく様子がおかしいのを感じていたのだ。
気のせいかもしれない。だが、誰かに見られているような気がしてならない。
──いやな予感もするし、すぐにここから立ち去ったほうが良さそう。
私が資料室の入り口を離れた、その瞬間だった。突然、首筋に鋭い痛みを感じ、すぐに身体に力が入らなくなった。立っていることすらままならず、私は地面に倒れこんだ。……一体、何が起こったというのだろう?
やがて、いくつかの人影が近寄ってくる。全身黒ずくめで、目には赤いレンズのゴーグルをしていた。そして、手には小さな銃のようなものを持っている。その格好はまるで、アクション映画に出てくる、どこかの国の特殊部隊のようだった。
「時間はかかったが、何とかなったな」
隊員の一人がそう言った。
「まあ、この娘の力を考えれば、慎重過ぎるということもないだろう」
「今回は、博士の作戦の勝利ってところだな。レベル・フォーの主電源を落とすなんざ、あの人の許可がなけりゃとてもできないからな」
……そうか。さっきの停電はこいつらの仕業。
暗くなった隙に、私に近づいたんだ……。
主電源を落としたのは、私に気付かれないようにするため……。
そして、自分達が自由に動けるようにするため……。
私は心底悔しかった。しかし体の自由が効かないし、意識もプツプツと途切れ始めている。こうなってはどうすることもできない。私は意識が集中できないと、力を発揮できないから。
そして、徐々に頭の中が朦朧としてくる──。
「資料室の前にて、目標を確保。こちらの負傷者は無し……」
「いや、待て。人数が一人足りないぞ」
「おかしいな」
どうやら外部と連絡をとっているようだ。他にも何か予想外のことがあったらしい。メンバーが足りないとか言っている。
「もうすぐ久賀博士が来るそうだ。それまで待機」
久賀……。
「それにしても、こんな小娘がな」
「あぁ、うちの娘と同じくらいの歳だ」
「もう、研究所で管理するのは無理なんじゃないのか。これで三度目だぞ」
「また、例の記憶操作とかいうやつをやるんだろう。ある意味、人を実験動物みたいに扱っている。ひどい話だとは思うが……」
そうか……。私には自由がないんだ。胸からこみ上げるものを抑えられず、私は涙した。
「おや、この娘、まだ意識があったんだな。今の話、聞かれてしまったかな」
「別に構わんだろ」
「それよりも泣いているぞ、この娘」
「気にするな。俺たちは仕事をこなすだけだ」
久賀。全てあの男が。私の中に殺意が芽生えた。たとえ普通の人間として生きられなくとも、あいつをこのままにしておいてたまるか。
──誰かがやって来たようだ。私は重くなるまぶたを何とか持ち上げて、その人物を見た。うっすらとした私の視界の中に、白衣の男が映りこむ。ああ、あいつに違いない。どうにかしてやりたかったが、私の意識はもう、限界だった。
~後編~
私は……目を覚ました。
いつもの、水槽の中だ。
そして、目の前にはお父さんがいる。
いつもと変わらない優しい笑顔で。
「マリア、目が覚めたかい」
お父さんがいるということは、ここから出してもらえるということだ。
嬉しい。
……でも、何で私はここに入っているのだろう。
それは思い出せなかった。
水槽を出て、身体を乾かし、それからお父さんと一緒に自分の部屋に向かう。
途中の通路、妙に荒れている箇所があったりする。何があったのだろうか。
半分だけ下りてへし曲がったシャッターがあったり、いつもはあるはずの頑丈なドアが、取り外されたみたいに無くなっていたり。これから修理するのかな?
ネメシス・ゲートに着いた。ここには番人がいる。ゲートを通過する人間を必ずチェックしているのだ。
でも、その守衛も今までの人物とは違うようだ。何かあったのだろうか。まぁ、前の人は嫌いだったので嬉しいくらいだけどね。だけど、今日はゲートも何か変だ。急いで直したような跡がある。こんな頑丈な扉が、どうして壊れたりしたんだろう?
「……あれ?」
いつもの部屋へ行く道が、なぜか通行止めになっている。
「あぁ、新しい部屋を用意したんだよ。こっちだ」
言われて、お父さんの後についていく。たどり着いた新しい部屋は、前の部屋より少しだけ広かった。ベッドとか、私の物は全てここに移してあった。そう、ここにいればなんでも欲しい物がもらえる。それで私は十分幸せ。
お父さんは間も無く部屋を出て行った。
私はベッドにうつぶせになって倒れた。
水槽の中で十分寝たはずだが、それと実際の睡眠とは別のようだ。
もう夜も遅いし、軽く睡魔が襲ってきていた。
枕の下に手をつっこんでもぞもぞしてみる。これが意外と気持ちいい。
……と。何かが枕の下にあるではないか。
薄っぺらい物だ。取り出してみると、それは一通の手紙だった。
「何かしら」
この部屋は監視されているのに。一体誰が、どうやって?
今の私の姿だって、ばっちり映っているはずだ。異変に気が付いたら、誰か飛んでくるだろうに。
……でも。気になる。とりあえず、読んでみる事にした。
『マリア、まず始めに。カメラのことは気にしなくていい。すでに工作を施してある。今、監視モニターに流れているのは偽りの映像だ。僕は君を助けに来た。何を言っているかわからないかもしれない。でも、信じて欲しい。君は檻の中にいてはいけないんだ。僕は君を助け出す。そして僕はすでにこの研究所の中に紛れ込んでいる。ここから抜け出すために、どうか僕の言うことを聞いてくれ。まず、手始めに……』
「何、これ……」
一体、この手紙はナンなんだろう。助け出す? 私を? ここの生活は何も不自由がないというのに。でも、不思議な気持ち。私、檻の中……。心がざわめく。何かが私をかき立てる。好奇心と言えばそうかもしれない。でも、それ以上の何かが……。
この手紙には、本当に脱出の手順が記されている。退屈な日々を送っている私にはちょうどいいかもしれない。ちょっとした遊びとしても。お父さんは優しいし、きっと許してくれるだろう。
まずは、ダクトに入る。天井にある通風孔から。でもあの通風孔はとてもじゃないけど通れない。……私、太っているわけじゃないけど、さすがにね。
手紙の主もそれはわかっていたようで、指示が記されていた。まず、ベッドの上にあるシーツなんかを床に広げる。厚めになるように重ねて、そして、力を使って通風孔を破壊する──。
「でも、それって相当な音が出るんじゃないのかな。カメラがちゃんと動いてなくても、音が響いたりしないのかな」
とにかく、言うとおりに通風孔を破壊してみる。すると、どうやら天井の材質は結構軽いものらしい。轟音をたてることもなく崩れた。あとには、私が通るに十分な穴が開いていた。
「へええ。これなら、誰にも見つからないね」
だけど、天井までは全く手が届かない。物を重ねて足場を作った。片っ端から物を重ねて乗ると、どうにか手がダクトにかけられるくらいになったが、這い登るだけの余裕は無い。
「きゃ」
グラグラする足場。私はバランスを崩し、落っこちそうになる。すると突然、天井の穴から何かが飛び出してきた。それは人の手だった。人の手が伸びてきて、私の腕をつかんだ。びっくりしたけど、おかげで落っこちずに済んだ。
天井の上から声が聞こえる。
「思いっきり、ジャンプして。引っ張りあげるから」
私は言われるがまま、思い切りジャンプした。
足場が崩れた。声の主は私の肩あたりをつかんで、そのまま結構な力で引っ張り上げる。すぐに上半身が天井の上に乗り出した。這い上がるようにして、私はダクト内に侵入することができた。
「やあ。待っていたよ」
そこにいたのは、一人の男性だった。年齢は私よりは上だろうけど、まだ大人って感じでもない。男の子ってあんなに力のあるものなんだと感心してしまった。
「ここにいるのは危険だ。少し移動しよう。僕に付いてきて」
私は彼に従って、移動した。ダクト内は意外に広く、腰を屈めながら移動できる高さがあった。
しばらく行くと、十字路らしきところに出た。私と彼はそこで一旦立ち止まった。
「あの、この手紙はあなたが?」
「ああ。そうだよ。僕のことはシンって呼んで」
「シン……。あなたは一体?」
「僕は、ある機関の人間で、君を助けに来た」
「……助けるって、どういう意味?」
「わからないのも無理は無い。君は久賀の奴に心の隙間を利用され、記憶を操作されているんだ。そして、僕の仕事は、久賀の手からその君を開放することだ。僕は君の味方だよ。詳しくは教えられないけれど、それだけは信じて欲しい」
シンが、まっすぐに私の目を見つめてくる。あまりにも綺麗な目なので、思わずドキッとしてしまう。
「そ、それにしても、よくここまで来れたね。研究所の、特に私のいるレベル・ファイブは、私を守るために、絶対に破られない対人セキュリティーが施しってあるって、お父さんが言ってた」
「ああ、確かにこの研究所はセキュリティが厳しくて、侵入が難しかったんだけど……」
「うん……」
「この前、っていうかもう三日前だけど、特殊部隊が君を襲ったの、覚えてる?」
「……ううん」
「そうか。相当ひどいことされたみたいだね。でも大丈夫、じきに思い出すよ。とにかく、僕はその特殊部隊に紛れ込んで潜入に成功したんだ。特殊部隊は久賀の手下だけど、研究所の外からやってきたからね。潜入の好機だったわけさ。もちろん、そのままだといつかばれるから、途中でこっそり隊を抜けたけどね。いつの間にか一人だけ人数が減ってたんで、奴らびっくりしただろうね。で、そのあとは研究者になりすました。侵入してしまえばもうこっちのものさ。それに君が研究員を何人か病院送りにしてくれたおかげで、次の日増員の研究者のフリをするのは簡単だったよ。ついでに内部調査もできたし一石二鳥さ」
「この手紙はどうやって?」
「簡単さ。なんせ、僕は君の部屋の引越しを手伝ったからね。そのとき仕込んだんだ」
ここまでするからには、シンは私を本気で連れ出すつもりなのだろう。でも、お父さんに断りなくここを抜け出していいのかしら。
私はシンについて色々知りたかったけど、彼はあまり自分のことを話そうとはしなかった。
だから所属する機関のことなんて、なおさら秘密なのだろうと思ったけど……、一応聞いてみたら案の定、ほとんど何も教えてくれなかった。でも、特殊な犯罪組織に対する任務を遂行するのが彼らの仕事なのだということだけは教えてくれた。シンの機関の活動が一般に公開されることはまずないらしい。
「それで、これからどうするの?」
「まずは、このダクトで行ける所まで行く。それから、外に出るルートはいくつかある」
彼の言葉……何か引っかかる。外? 外に出て、いいのか……? 思い出せそうで、思い出せない。軽い頭痛がした。
しかし、とにかく今はシンを信じて、一緒にダクト内を移動することにした。彼の頭の中には地図が叩き込まれているらしい。網の目のようなダクトの迷路を、戸惑うことなく進んでいく。
研究所内が騒がしくなってきたのが、ダクトの中からでもわかる。
「どうやら気付かれたらしいな。となると当然、僕たちがダクト内にいることもばれたってことだ」
もし捕まったら……、私はおそらく、連れ戻されるだけで済むだろう。でもシンはどうなるのだろう。こんなことをして、無事で済むのだろうか。……考えなくてもわかる。お父さんは、シンを絶対に許しはしない。
──そして、私は思った。もし何かあったら、その時は絶対にシンを守ろうと。
「このあたりで、下に降りた方がいいかもしれない。前と後ろから来られたら、挟み撃ちにされてしまう」
と言いはしたが、シンにはうろたえる様子はない。まるでこの手のことには慣れている、といった感じで、冷静なまま、ホルスターから拳銃を引き抜いた。
「この通風孔は、通るのに十分な広さがあるね。よし」
シンは足元の通風孔を蹴破った。それはほとんどはめただけの通風孔だったらしく、案外脆かった。まず先にシンが廊下に下りて、そのあと私を受け止めてくれた。
「また特殊部隊の連中が来るかもしれない。急ごう。彼らは備えのために、まだ施設内で待機しているんだ。なんせ、僕が一人ぶっ飛ばして代わりに侵入したわけだからね。バレない訳はないってこと」
私たちは通路を走った。長い通路の先にいた白衣の研究員がこちらに気が付いたらしく、仲間を集めるために声を上げた。
「こっちだ」
シンは私の手を引いて、目の前にある、左へ曲がる道へと誘った。
そのままさらに道を行くと、突き当りにドアが現れた。シンは何かのカードを取り出すと、そのドアの横にある機械に通した。機械がピピッ、と音を立てる。次に、彼は数字の並んだ文字盤を凄い速さで叩きだした。入力し終え、エンターキーを押す。だが、文字盤には英語で「エラー」と出ている。
「もうコードを変えたらしい。さすがに手早い」
シンの顔には、少しだけ焦りの色が見える。
……シンは私を外に連れ出そうとしている。でも、お父さんや皆は外に出てはいけないと言っている。では、シンは悪い人なのだろうか? 私は彼を信じていいのだろうか?
私を見る彼の目……。自分を信じてくれと言う彼の、嘘を言っているようには見えない瞳。考えているうちに、彼が嘘をついているかいないかなんて、どうでもよく思えてきてしまった。このままだとシンは捕まってしまうかもしれないのだ。私はさっき、何を誓っただろう。それは……彼を守ることではなかったか。
「その先だ!」
人の叫ぶ声が近づいてくる。私達を追いかけて来た研究員だろう。
「くっ、コントロール・ルームをどうにかしておくべきだった。このルートは無理か」
シンは再び私の手を引こうとする。来た道を引き返すつもりだ。でも、その道はもう安全ではない。それがわかっているのに、それでも、自分の命を危険に晒してまで、私のために何かをしてくれようとしている。
「……ここを通るのね?」
私はシンの手を振りほどいてから、例の力を放った。意識を前方に向かって打ち出すと、ドアは派手な音をたてて、向こう側吹っ飛んでいった。
「……す、凄い。いや、本当に凄い。聞いていた以上だよ」
シンは驚き、そして感心している。
「この力のことだけは……、どんな時も、何があっても、忘れたことがないの」
それにしても、どうしてだろう。どうして私は、彼のために何かしてあげたくなるのだろう。親切にされると、自分も何かしてあげたくなるものなのだろうか。
「おっと、もたもたしていられないな。……先を急ごう!」
私たちは、切り開いた活路を突き進んだ。
背後から拳銃を持った人間が何人かやってくる。その中の一人が発砲したが、弾は私にもシンにも当たらなかった。
「やめろ! 実験体に当たったらどうするんだ。実弾は禁止だ、麻酔銃を使え」
連中がもめているのが、かすかに耳に入った。実験体……それは私のことに違いない。
シンが壁についていた何かの蓋を開け、出てきたレバーを下げた。あっと言う間にシャッターが下りてきて、私たちの今来た道を塞いでしまった。
「よし! このシャッターは、こっち側からじゃないと開けられないようになってるんだ」
私たちは再び走り出した。シンが言うには、他の通路を迂回すると物凄く時間がかかるらしい。シャッターを下ろしたことで相当な時間稼ぎになるようだ。
「こっちだ。地上一階まで上れる階段がある」
すると、シンの言うとおり、私たちの眼前に上り階段が現れた。
「これは、非常階段みたいなものさ。エレベーターなんかで昇るルートよりは、ずっと安全なはずだ」
確かに、今までの研究所とはまるっきり違う。蛍光灯だけの薄暗い階段は少し不気味に思えた。階段を一段上るたび、カツン、という足音が反響する。なかなか一番上までたどり着けない。研究所がこんなに地下深くにあるなんて知らなかった。情けない話だけど、普段ほとんど運動をする機会が無いので、ちょっと疲れてしまう。
それから、どれくらい上っただろうか。
パン!!
突如として発砲音が鳴り響いた。
シンが気配を察知して身を隠すのが早かったので、銃弾は私たちではなく壁に命中した。
背後の私を制止してから、シンは上階の様子を窺う。
上の踊り場に誰かいるようだ。少し顔を出すと、すぐに銃弾を放ってくる。
それでも、シンは相手の位置を見極めたらしい。
目で私に「動くな」と合図を送る。私はしっかりと頷いた。
──少し間をおいて。
彼は横っ飛びで飛び出すと、躊躇なく発砲した!
「あぅ」
どうやら、シンの撃った弾丸が相手に命中したようだ。
そのうめき声は男性のものではなかった。
シンはゆっくりと、私は彼の後ろから恐る恐る相手に近づいていった。
倒れていたのは……リカさんだった。脇腹のあたりが血で赤く染まっている。
「……リカさん」
彼女は踊り場に腰を下ろし、壁にもたれかかっている。呼吸するのも苦しそうだ。
「マリアちゃん、今までごめんね……」
苦痛で表情を歪める彼女の口から、謝罪の言葉が出た。何故彼女は謝るのだろう。
「何で? 何で謝るの?」
「久賀がどんな人間であろうと……私は彼を天才だと思っている。尊敬していた」
彼女はやや虚ろになりながら、語り続けた。
「でも、やはり誰かが彼を止めるべきだったんだわ……本当は。本当は……私がそれをするべきだったのかもしれない」
「お父さんを……」
「この先に久賀博士がいるわ。お願い、あの人を止めてあげて。あなたの手で……彼を、救って……」
もう、彼女の言葉は弱々しかった。
「シン! どうしよう、このままじゃリカさん死んじゃう」
「行こう。マリア」
「何で! そんなことできないよ」
「彼女は久賀の、優秀で従順な助手だった。彼女は最後まで久賀のためを思って行動していたんだろう。こうなることもきっと、わかってたんだよ」
「だったら余計に助けなきゃ! お父さんだって悲しむよ」
「……」
シンはすぐには何も言わなかったが、自分の荷物の中から液体の入った筒を取り出すと、それをリカさんの身体に注射した。
「最新のメディカル・チャージを打った。急いでここを出れば、彼女が死ぬ前に救助を呼べるかもしれない。一緒に連れて行くのは無理だけど……」
「ありがとう、シン! リカさん、少しだけ待ってて。すぐに、助けを呼んでくるから」
リカさんはこちらを見て何か言いたげだった。でも、結局、何も言わなかった。傷口をハンカチで押さえさせ、私たちはさらに階段を上った。
そして、ついに、そこへ辿り着いた。
「よし、着いたぞ。ここが、研究所の玄関口と言える通用ゲートだ」
シンが教えてくれた。ここを抜ければ、そこはもう地上なのだという。
「よし、あとはパスワードを入力すれば開放される。問題は、それが変更されているってとこだ。解析には時間がかかるな……」
見れば、ネメシス・ゲートなど比較にならないくらい、とても分厚そうなゲート。なぜここまで外部から隔絶する必要があるのか、私にはわからなかった。やはり、外は危険なのではないのか……?
「この扉、ミサイルの直撃にも耐える構造になっているんだ。君の力でも壊せないだろうな……」
「ねぇ、シン。本当に外に出ても平……」
それを言い終わらないうちに。
バァン!!
乾いた音がした。それはまたもや、銃声だった。
すぐそばにいたシンが倒れる。
「シン!」
銃声のした方向には……久賀博士。つまり私の『お父さん(仮)』がいた。
そこにいつもの優しい笑顔はなく、悪魔のような形相で、右手に拳銃を持っている。彼は、ここで私たちが来るのを待っていたのだろうか……。
「どうして! どうして撃ったの!」
私はシンを抱えながら、博士をにらみつけた。
「ネズミだからだ。私の大事な娘をさらおうなど」
「だからって……」
私はシンを庇う体勢をとった。確かにシンは私をさらおうとしているのかもしれない。でもこの人は絶対死んじゃだめなんだ。それが当然の、今の私の気持ちだった。
「そこをどくんだ、マリア。そいつには死んでもらわねばならん」
「だめ! 撃たないで!」
私が叫んだその瞬間……押し寄せる波のように、変化が訪れた。
脳裏に次々と映像が浮かんでくる。断片的ではあったが、それは間違いなく、失った私の記憶と体験。自分から閉ざした心の闇と、奪われ、植えつけられた記憶の数々。またそれと同時に蘇ってきたもの、それは紛うことなく、久賀に対する憎悪だった。
久賀は引き金を引いた。そして。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁッ」
叫び声を上がる。だがそれはシンのものでも、私のものでもない。
お父さん……いや、久賀が上げた絶叫であった。
そう……私がやったのだ。シンを守るために、力を使って、あいつの銃を持つ手を破壊した。久賀は右手の指がへし折れたせいか、この世のものとは思えない表情で苦しんでいる。
──そう。私は久賀の実験動物ではない。
久賀が引き金を引こうとしたとき、私はほとんどの記憶を取り戻した。
本当の父親でもないのに父親顔をして、何も教えようとしなかった。
何かあると水槽に入れ、目を覚ますたびに記憶に空白ができていた。
久賀が操作し、消してきた私の記憶が蘇った。
「久賀ぁ……!」
私はこの男が憎い。これは今始まったことではない。ずっと前からそうだったのだ。忘れていた空白部分を思い出すたび、この憎しみは蘇ってくる。
通路の方から、数人がやってきた。例の黒い特殊部隊だ。この前より一人多いようだ。恐らくシンがなりすました隊員が復帰したのだろう。麻酔銃を構えて、私を撃とうとしている。とても目障りだった。私はロクに目もくれず力を解き放った。キューで突かれたビリヤードの球みたいに、全員が物凄い勢いで吹っ飛んだ。起き上がる者はいない。
「マリア……。君は間違っている」
「それは私が判断するわ。話して、全て」
私は久賀を睨み付け、さらに迫った。
「……君が知ったとおりだよ……。この世界はウイルスに汚染されているんだ。人類は地上ではもう生活できないんだ」
久賀は淡々と続ける。
「だが、ここに一つの希望がある。それが君だ、マリア。君はバイオテクノロジーが生んだ、新しい人類の第一号なんだ……。そう、初めての成功例なんだ。そもそも、何故君が生み出されたのか──。我々の頭を悩ますウイルスは対抗策が存在しない、人類を滅亡させるために生まれてきたとしか言いようのないものだった。しかし、君の身体は、あらゆるウイルスに抵抗を持つ進化した肉体……。君が母になることで、人類は地上で変わりなく生活を送ることができるようになる。君の遺伝子が可能にする。君はまさに聖母そのものなんだ」
「……」
「君に本当のことを教えなかったのは、君が情緒不安定であったからだ。刺激を与えすぎると、暴走行動を起こすことがある。だから、君の精神が安定しないうちは、外に出すことはできなかった。暴走を起こせば、君の持つ能力で被害が出る恐れがあったからだ」
「……」
「君が怒るのももっともだ。私は、君に謝らなければならない。しかし、全ては君のために行なわれてきたことだ。我々は君を守り続けてきたに過ぎない。例えば、君の体は定期的なメンテナンスを要する。例の水槽に入らないと、細胞が活動を停止してしまうんだ。また、君の心身に異常が出た場合、速やかに養液に入れなければならなかった」
「……」
「そうしてもう一つ。実の父でもないのに、君に父親面してしまったことだ。でも、わかってくれ。君は本当に、実の娘のように大事だったんだ」
久賀は苦しそうではあったが、随分饒舌に語った。
「嘘ばかり並べて、満足か? 久賀……」
そう言ったのは、私に抱えられたシンである。当たり所がよかったのだろう。致命傷ではないらしい。
「全く、そんな嘘っぱちの話をよくも作り上げたもんだ……。マリア、地上は滅んじゃいない(・・・・・・・)。君はずっと騙され続けてきたんだ」
そして、シンは叫んだ。
「久賀! 僕はお前を追い、研究の内情を探り続けてきた。お前のやったことは犯罪行為だ。この場所も、もうとっくに割れている。すぐに応援も来る。逃げ場はないぞ」
「貴様、やはり特捜のエージェントか。ふん、だがそう簡単に捕まるものか。いくらでも逃げる方法はある」
久賀は動揺しなかった。そして私に向かって言う。
「マリア、その小僧は人類の希望であるお前をさらおうとしているのだ。許されざる大罪だ。これから君と君の子孫は地上での生活を謳歌するんだ。どうだ、素晴しいことだと思わないか? さあ、私のもとに戻っておいで!」
……いずれにしろ、答えは出ている。
「久賀、あなたは私を弄んだ。私は、何があろうともあなたを許すことはできない」
それが私の結論だった。
この男は本当の父親ではないし、私に対しての扱いは許せるのものではない。
断片的な記憶もそう叫んでいる。
この男は悪だ、と──。
久賀はじっと黙っていた。が、やがて。
「ひとつ、教えてやろう。マリア。君の頭の中にはチップが埋め込まれているんだ。私が持っている機械のスイッチを押せば、君ははたちどころにして意識を失う。つまり、君は私には逆らえないのだ」
久賀は狂ったように高笑いをした。
「とんだマッドサイエンティストだな。ヘドが出る」
「何とでも言え。記憶が戻ればまた記憶操作。マリアは一生、私の実験材料なのだよ! ハッハ……」
バン!!
乾いた銃声。それと共に、久賀の脳天に風穴が開いた。シンが撃った拳銃の弾が命中したのだ。目を見開いたまま仰向けに倒れる久賀。
「僕にはチップは関係ないぜ……。ノータリンが」
だが、どうやら久賀がスイッチを押すのが僅かに早かったらしい。あるいは、脳天を貫かれて即死のはずが、まだスイッチを押す余力があったのか。私は自分の意識が遠のいていくのを感じた。
「おい! しっかりしろ! ○○○……」
聞き覚えの無い名前で私を呼ぶシンの声が、だんだんと聞こえなくなっていった。
……私は目を覚ました。
だが、今度は水槽の中ではない。
しかも、研究所の、自分の部屋でもない。
そこは、白いシーツが眩しいベッドの上だった。
見たことのない部屋だ……。
私が気を失ってから、何があったのだろう?
窓から優しく、柔らかく、そして暖かい光が差し込んでいる。
これは、私が忘れていた、陽の光だ──。
「……っつ」
少しだけ、頭が痛む。
手をやってわかったが、私の頭には包帯が巻かれていた。
コンコン。
ドアをノックする音。
間も無くドアが開いて、誰かが部屋に入ってきた。
それは、私の知っている男の人──。
「やあ」
「シン」
きっと、一生忘れられない顔。私を研究所から救い出してくれた人、シンだ。久賀に銃で撃たれたはずだが、どうやら無事で済んだみたい。私は彼の元気そうな姿を見てホッとした。
「ここは?」
「病院だよ。安全な、研究所の外の病院だ。もう、何も心配はいらない」
シンの話によれば──。私が気を失った後、すぐに彼の機関の特殊部隊が駆けつけて、研究施設に突入したのだそうだ。そして私はこの病院に搬送された。それと同時に、久賀の部下や研究者など、たくさんの人が逮捕されたという。
「あの人は……、研究員のリカさんは助かったの?」
銃弾を受けた、リカさんの容体。それは、私がとても気になっていたことだ。
「マリア、君は優しいんだな。彼女は君を騙していたというのに」
確かに、あの人は久賀と一緒になって私を騙していたけど……。でも話すと楽しかったし、とても優しかったから。本心ではどう思っていたのかはわからないけど、私に対して良くしてくれたから。
「彼女はかなりの重傷だったけど、何とか助かったよ。身柄は拘束されたけどね」
「そう……」
安堵感によって、私の心が満たされてゆく。例え、彼女が犯罪組織の一員だとしても、生きていてくれたことが嬉しかった。
「シン、あなたの方は……。撃たれた傷は大丈夫なの?」
「ああ、なんてことないさ。かすり傷だからね」
そう言って、彼は腕を振り回してみせた。
「い、いてて」
強がりだったらしい。しかめっ面になって、かなり痛がっている。そんな姿がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「笑顔、初めて見せたね」
「うん」
「君の方は、具合はどう?」
「まあまあ、かな。でもこの包帯……」
「あぁ、久賀の言った例のチップを取り出したんだ。君が気を失っている間にね。手術で簡単に取り出せたよ。……もちろん、構わなかったよね?」
「……うん」
それから、シンは今回の事件の全容について詳しく説明してくれた。
久賀という男はマッドサイエンティストで、己の欲求を満たすためならば手段を選ばない男だった。彼は卑劣で犯罪者まがいの実験や研究を行なっている可能性があり、以前からマークされていたが、しかしなかなか尻尾をつかませなかった。そこで、研究の内情を調査するためにエージェントであるシンが派遣された。そして彼は、久賀の研究所に幽閉され実験台にされている私の存在を知った。
──そう、私は久賀に記憶を操作され、都合のいいように利用されていた。入れられていた水槽の中身は久賀の開発した特殊な薬液で、ある種の催眠作用を引き起こす効果があったらしい。その上で様々な暗示をかけ、偽りの情報や記憶を刷り込むことで、私はほとんど久賀の思うがままになっていた。
私は思い込まされていた。……何もかも。今思えば明らかに胡散臭い、例のウイルスで世界が滅亡したとか言う話も、当然作り話だった。
「私一人に、ずいぶん大掛かりなことをするのね」
「それがやつのマッドサイエンティストたる所以さ。膨張し続ける妄想と突飛で偏った研究に生き、固執すると半端じゃない。こんなこと言うのもなんだが、君が死ぬまで開放したりはしなかっただろうな」
さらに、シンは教えてくれた。私が一時的に自分を制御できなくなるのは、マインドコントロールと投薬の副作用らしい。今後ゆっくり治療すれば、記憶も完全に戻るし、普通の生活も送れるようになるそうだ。
「何も心配はいらない。君は普通の人間さ。例の超能力を除いて、だけどね」
「あれは、子供のときから持ってたの。……久賀はこれを目当てに私を誘拐したのね」
「ああ。君を研究や実験の材料として、逃がしたくなかったんだろう。奴は君を手元に置いときたかったが、君の持つ能力の危険さも知っていた。だから、安全で効率的に研究するために、君を洗脳したかったのさ。でも洗脳はうまくいかず、君は暴走を繰り返した」
全ては、私の持つ力が目的だったというわけだ。久賀は私を完全に洗脳して、私の特殊な力を利用しようと考えていた。幸い、私は完全には自分を失わなかったが、あのまま研究所にいたら、どうなっていたかはわからない。
「やっぱり私の力は忌むべきもの、なのかな……?」
「君自身はあまり好きじゃないのかもしれないけど、その能力が君と僕を救ったということ、それだけは確かさ」
──ずっと嫌いだった、本当に大嫌いだった自分のこの力が、私とシンを救った──。
特別な力を持った私は、普通の子供ではなかった。触ってもいないのに物が壊れたり、人が怪我したりした。小さい頃は今ほど力をコントロールできなくて、少しの感情の揺れ動きで力を放ってしまっていた。その後、思春期が近づいて情緒が安定しなくなった私は、無意識の中に破壊行動を繰り返すようになり、やがて家族と暮らすことさえできなくなった。当然、自分でコントロールできるようになってからは、ずっとこの力を使わないできた。
この力のせいで、私は全てを失ったと言ってもいい。身を委ねる場所は定まらず、どこに貰われたか、預けられたかなんてほとんど覚えていないような、虚ろな毎日だった。そして、訪れた孤独の中、私は自分の過去や記憶を嫌い、心を閉ざしていた。……久賀が現れるまでは、私は本当に空っぽだった。
私が自分を嫌い心を閉ざしていたことは、久賀にとっては好都合だったに違いない。彼は私の心の隙間を、嘘の記憶で埋め始めた。過去の記憶も思い出も、自分自身すらも必要としなくなっていた私を利用することなど、彼にとっては簡単だったはずだ。
とても馬鹿げたことだとは思うが、こんなことを考えてしまう。
もし、久賀がまともな人間で、本当の父親のように私を理解し、育ててくれていれば、結果は違っただろうか──。
考えてみれば、こうして私が自分を取り戻せたのも、久賀が私の自由を奪い、記憶や真実や自分を取り戻そうとする強い意志を与えたためだと言うこともできる。私は自分の意志で、大嫌いで必要がないと決め付けていた自分の記憶や、孤独の闇に閉ざした心を、取り戻すことを決意したのだ。
しかも、今では私の気持ちは変化し、その自分を捨てた原因になった能力に、感謝すらしている。この力がなければ私はここへ導かれることもなかっただろうし、シンに出会うことも無かったはずだ。
──だが、何もかもが肯定できるわけではない。
私はネメシス・ゲートの、あの守衛のことを思い出した。
「シン……、私、人を殺したんだ……」
今までに、力で人を傷つけたことはたくさんあった。でも、命を奪ってしまったのはあれが初めてだった。
「……君は完全に自分を失っていた。情緒が著しく不安定だった。久賀風に言うならば、暴走ってやつだね。でも、それは久賀によるマインドコントロールと投薬の作用でしかない。それに、仮に君がその時に正しい判断が下せたとしても、状況的には正当防衛と言えなくもないんじゃないかな」
「そうかな……」
確かにそうかもしれない。あの時は本当に頭がおかしくなっていて、邪魔をする人を全て殺しても良いとさえ思えていた。でもその時の記憶は今も鮮明だし、それにリカさんの時は加減して殺さなかったのも事実だ。それでも、自分は正しい判断ができなかったと言い切ることができるだろうか。
私が人を殺したという事実に違いはない。この罪悪感が消えることは無いだろう。罰せられるにせよ、罪を問われないにせよ、いずれにしろ私は罪を背負い生きていかなければならないし、間違いなくそうなる。それだけのことを、私はしてしまった。
「あの研究所の人間は、みんな久賀の一味さ。危険な思想を持った悪党、犯罪者集団の仲間だよ」
そう言ってくれるシンに、私は感謝するしかない。
自分を正当化することは、とてもじゃないけどできそうもないから。
窓から輝かしい光が差し込む。楽しそうな鳥の囀りも聞こえる。
この広い世界は、生命に満ちているのだ。
窓の外の景色を眺めながら、私は、誰にも理解されない孤独な日々や偽りの記憶に拘束されていた研究所での日々を思い出した。今なら逃げも隠れもせず、真正面から自分自身を見つめることができるかもしれない。
まさか、こんな風に思える日が訪れるなんて夢にも思わなかった。
色々な檻から開放された私は、きっと以前よりもたくさんの生きている実感を得ることができるだろう。
「のどが渇いたなあ」
「じゃあ、僕が何か飲み物を買ってくるよ……、あっ」
部屋を出て行こうとしたシンだったが、何かを思い出したようで、私の方を振り向いた。
「どうしたの?」
「大事なこと教えるの忘れてた」
「なに?」
「君の本当の名前だよ。久賀のせいで、つい僕までマリアって呼んじゃってたけど……」
……そう、私は檻の中の聖母ではない。
今や私は檻の外。
どこまでも広がるこの世界に生きている。
この、何一つ真実を隠さない世界に生きている。
私だけの、たった一つの、全てと繋がっている、大切な世界に。
− Fin −