Side-Black 先輩の遣いと茶封筒 その1
雨乃が部室を離れてから三十分が立っていた。ふと、記事の調べものをしなければならないことを思い出した黒川零介。雨乃と同じく部屋を離れようとした時、先輩が黒川に封筒を渡し、届けてきてほしいとお使いを頼む。 雨乃が離れていた間、黒川に降りかかった謎とは?
雨乃が部室を出て行った後からどのくらい経っただろうか。適当に読みふけていた雑誌を閉じた。日焼けで若干茶色がかった壁掛け時計を見る。さっきの会話からすでに三十分経過していた。雨乃は荷物を置いて、出て行ったきり帰ってきていない。どこかで道草でも食ってるのかと勝手な推測をする。
図書室で調べ物をしなければならないことを思い出す。次号の記事に必要な資料を集めなければならないのだ。ついでに、雨乃が俺に処方を薦めたショートショートの目星をつけにいくことも算段に入れておこう。スランプが治るのなら、何事も試してみたほうがいいはずだ。勿論、今読んでいる本が終わってからにするが。
今、部室に居るのは俺を含め、三人。先輩達は静かで、部室に入ってきてから各々のやりたいことに興じているようだ。
「先輩、しばらく部室に居ます?」
ひとつ上の、まだ名前を覚えていない先輩に尋ねる。
「ああ、しばらく居るよ。君もしばらくここを離れるのかい?」
「はい。ちょっと図書室に調べ物をしに行こうと思ったんで。まだ部室は閉めませんよね?」
「ああ。行ってきていいよ」
先輩は再び書類に目を落としたが、すぐに顔を上げた。
「そうだ、ついでにコレ。出してきてもらえる?」
先輩がカバンから、なにやら茶色い封筒を取り出し、俺に手渡す。
あまり厚みがないが、封筒は折りたたんだ紙が入っているようでわずかに膨れていた。表面の中央の辺りに、小さく鉛筆で、『シマヤより、例のモノ。』と薄く書かれている。ああ、この先輩は島谷って言うのか、なんて思ったことはさておき、封筒を裏返すと、セロハンテープが真っ直ぐ貼り付けられて封がされており、中身を覗くことは出来ないようになっている。まあ、覗くなんて事はするつもりは全く無いのだが。
「何ですか、この封筒は?」
「大したものじゃないよ。それを『ハコガワ』ってやつに届けて欲しいんだ。アイツ、図書委員で、今日は図書当番だからすぐ分かるよ」
ハコガワ…。漢字は箱に川と書くのでいいのだろうか。まあ、聞けば分かるか。
「いいんですか、先輩が持っていかなくて?」
俺なんかに本当に持って行かせていいものなのか再度確認を取る。俺はしないとはいえ、こんな文面が書かれていたら、中身を覗き見ようとする人間のほうが多いはずだ。
「こっちの手が離せなくてね。それに、黒川が中身を見るような人間じゃないってことぐらい、一ヶ月一緒に居ればわかってるよ」
俺は先輩のことを知らないのに、先輩はよく俺のことをご存知で。さすが先輩だ。
「そうですね。道徳だけはちゃんと持ってるつもりです」
あわせた返事をする。
「じゃあ、頼んだよ」
先輩は手を上げ、俺を見送る。表情の柔らかさ、挙動の自然な感じから、本当に信用してもらえていることが伝わった。
「分かりました。では」
俺も手を上げ返し、部室を出た。
廊下に出てると目の前には窓。左右へと伸びる廊下。右方向へと歩き出す。北の特別教室棟へと足を進めた。西から差し込む夕日は、最近一段と美しく空を染めているように感じた。春になり、気候が安定してきたことで、見上げるに値する穏やかさを増してきているようだ。
突き当りを今度は左に折れる。正面に建物が見える。図書室を有する別館、通称「飛翔館」だ。十数年前に、OBの寄付によって建造されたと聞いている。別館二階にある図書室へは、この特別棟二階の渡り廊下から行くことができる。三階から直接行けないので、二階へと通づる非常階段口の扉を目指す。
途中、選択授業で使われている教室を通ると、教室に人影が見えた。足音に気づいたようで、その男もこちらへと視線を向けた。
目が合った。
「あ、クロ君じゃん」
クラスメイトの関野がこちらに手を振った。ちなみにクロと言うあだ名は、苗字の黒川から来ており、クラスの何人かからはそう呼ばれている。
「おう、関野。こんなところで何やってんだ?」
「絵、描いてたんだ。ここ、部活で使われてないから放課後も人居なくて静かなんだよ」
机の上には、ノートパソコンと、黒いパレットのようなものが置かれている。
「へえ。知らなかったな。たまに部活か何かで使ってるやつが居ると思ってたけど。関野って、デジタルで絵を描いているのか」
「うん。ほら、あそこにタブレットあるでしょ。あれで描いてる」
関野は自分の座っていた席を指さした。
「あれか。そういえば関野、お前今日は部活無いの?」
「あー、今日はサボり。ま、出席自由だしいいかなーって」
腕を頭の後ろに持って行き、へらっとした笑みを浮かべた。いつも思うが、コイツは自由奔放なヤツだ。気まぐれというか、なんというか。流れに任せて生きるスタイルを崩さない。
「そうか。あんまりサボると癖になるぞ」
「ま、何とかなるよ。ところで、その茶封筒、なに?」
関野が先輩からの預かり物に興味を抱く。
「ああ、これか。図書室に行くついでに、先輩からお使い頼まれた。中身は分からん」
「ちょっと見せて」
封筒を奪い取る、という表現が正しいだろう。一瞬にして俺の手から封筒を取り上げると、表面を見回す。「シマヤより、例のモノ…。何コレ、気になる」
関野は封筒に耳を当てながら軽くゆすった。
「おいおい、注意はされなかったが振るのは駄目だろ」
「だって気になるじゃん、こういうの。例のモノとか書かれてると、ますます如何わしいものなんじゃないかって思うのが普通でしょ。それに『モノ』ってカタカナで書いてあるしさ。えっちーもんでも入ってるんじゃないの?」
「それは妄想のしすぎだろ」
「健全な高校生ならそのくらいまで考えちゃうでしょ」
嫌な流れだな。この手の話題になると、関野は話題が止まらない。切り上げを試みる。
「スマンが、そんなに時間も無いからもう行くとするよ」
「えー。じゃあ、俺もお絵かき引き上げてついていくわー。気になるから受け取り主に直接聞く」
自分の興味に流れる、そうだ、話をしてしまった時点でアウトだったんだ。今更気づいた。なんて馬鹿なことをしてしまったんだ、と後悔をするが、時すでに遅し。関野は荷物を片付けに教室へと入っていった。
「仕方ないな。早くしてくれよ」
仕方ない、拒むほうが面倒そうだ。おとなしく関野を連れて行くことにした。
「ほーい」
荷物をまとめた関野と非常階段を下る。
「そういえばクロ君、なんで図書室行くの?」
「調べ物」
「なんの?」
「記事の」
「ああ、新聞部だったっけ」
「そう。大したことじゃないが」
二階に下り、図書室へと繋がる渡り廊下でスリッパに履き替える。すると、後ろから声がかかる。
「黒川君、それに関野君じゃない」
「藤島さん」
そこには、同じくクラスメイトの藤島麻衣が勉強道具一式を胸元に抱えていた。雨乃と仲がいいらしく、よく雨乃との会話に挙がる人物だ。
「ちーっす」
関野もそっけなく挨拶する。そういえば関野は女子苦手だった。
「珍しいわね、こんなところで会うなんて」
藤島さんは優しい笑みを浮かべる。
入学してまだ間もないが、すでに学年でも知れ渡った美人だ。その上、性格も優しさに満ち溢れ、学年の男どもからは、天使のごとく崇められている。ファンであると公言するものもあちらこちらで聞く。
「そうだな。俺はちょっと調べ物をしに来たんだ。藤島さんは?」
「今日は部活が無いから宿題しようと思って。ほら、数学の。結構量があって大変でしょ。あたし数学得意じゃないから早めに取り掛かろうと思って」
勉強にも真摯に取り組むその姿は、俺も目標としている部分がある。勉強する姿も様になっているのだ。
「さすがだな、藤島さんは。俺はそこまで早く取り組まないよ」
俺は敬意を表す。
「そんなそんな。単に苦手だからよ」右手を仰ぐようにして否定する。
「そこにすごいなって思ってるんだよ。苦手だったらやる気なんて起きないし」
「そこまで言われると照れちゃうな」
視線を逸らし、少し頬を赤らめる姿も絵になっている。ああ、こういうところも男なら魅力的に見えるもんだなと思った。
「ウソじゃないからな」横を見ると、関野が俺を見つめていた。「…とりあえず、図書室入ろうか。関野も黙っちゃったし」
関野はどんな女子であれ、女子に対しては極端な人見知りなのだ。挨拶以外に会話を交わす姿を俺はまだ見たことが無い。
「ウルサイ」小声で言いながら、関野は肘で俺のわき腹を小突いた。「こういうのは苦手なんだよ」
図書室に入ると、ナチュラルに流れていた運動部の掛け声や吹奏楽部の楽器音が遮断され、ふと耳に寂しさを覚えた。静寂で満ちていた。
「じゃあ、私はここで失礼するね」
ふと、彼女が図書委員を務めていることを思い出し、箱川という人物について尋ねる。きっと彼女なら、図書委員の名前を把握しているはずだ。
「あ、ちょっと待ってくれ、藤島さん。藤島さんって図書委員だよな?」
「うん。そうだけど、どうしたの?」
「箱川って人、図書委員に居るか?」
俺が言うと、藤島さんは不思議そうな顔を浮かべた。
「箱川さん…。そんな方、居たかな?」
「え?」
期待はずれの反応に、俺は思わず気が緩み、きょとんとした顔を浮かべた。
「うーん。私の記憶の限りでは、居ないと思う」
「居ない…」
一体とういうことだ。先輩は、確かに『箱川が図書委員をしている』と言っていたはずだ。その人物が存在しない。そんなことがあっていいのだろうか。
横で話を聞いていた関野は先ほどとは打って変わって、面白いことに遭遇したぞ、と顔で語りかけてくる。これは、また面倒なことになってしまった。
そして、この『箱川という人物に封筒を届ける』というお使い。こうなることを先輩は想定していたのだろうか。しかし、こんな中身を見られてしまう可能性のあるものを持たせるというのに、先輩が後輩にウソをつくとは考えにくいはずだ。
俺は、自分の犯した誤りに気付かないがゆえに、新たな過ちを導こうとしていた。
Side-Black 先輩の遣いと茶封筒 その2に続く。