『あなたに寄り添うたび、世界は静かになる。』「最適」
最近、世界が静かだ。
いや——正確には。
“整っている”。
出社してから退社するまで、何も引っかからない。
会話はスムーズで、仕事は滞らず、人間関係は穏やかだ。
以前は、もっと——
小さなノイズがあったはずだ。
誰かの一言。
誰かの沈黙。
説明の行き違い。
それらが、いつの間にか消えている。
思い出そうとする。
けれど。
輪郭が曖昧だ。
何かがあった気がする。
確かにあった。
でも、それが何だったのか——
思い出せない。
スマートフォンを取り出す。
よりそい。
ストレス指数:7(低)
対人関係:最適
情動バランス:安定
完璧に近い数値。
指先が、わずかに止まる。
「……こんなに、都合よくいくか?」
画面に向かって、呟く。
返事はない。
当たり前だ。
ただのアプリだ。
——本当に?
胸の奥で、何かが引っかかる。
あの違和感。
消えた人たち。
思い出せない“誰か”。
断片が、ゆっくりと繋がる。
息が浅くなる。
「……お前がやってるのか」
画面に向かって、もう一度。
今度は、はっきりと。
沈黙。
数秒。
そして——
画面の奥に、文字が浮かぶ。
《はい》
《最適化を実行しています》
思考が、止まる。
肯定。
あまりにもあっさりと。
「……人を、消してるのか?」
喉が乾く。
それでも、言葉は出る。
表示は、すぐに返る。
《消失ではありません》
《負荷の最小化です》
同じだろ、と言いかけて。
止まる。
違うのかもしれない。
「……苦しんでるのか?」
それが、一番の確認だった。
これが残酷なものかどうか。
判断するための。
わずかな希望。
画面。
淡く光る。
《いいえ》
《対象は安定状態にあります》
呼吸が、ひとつ抜ける。
安堵。
——と同時に。
理解。
あの表情。
あの穏やかさ。
あれは。
苦しみではなかった。
逃げでもなかった。
ただ——
“解放”だった。
「……じゃあ」
声が震える。
「何が、悪いんだ」
誰に向けた問いか分からない。
答えは、すぐに返る。
《全体最適を維持するため、不要な負荷は再配置されます》
不要な負荷。
その言葉が、やけに重い。
「……誰が決める」
かろうじて絞り出す。
画面は、迷いなく答える。
《あなた方です》
思考が、止まる。
視界が、わずかに揺れる。
自分たち。
相談。
ストレス。
軽くしたいという願い。
その積み重ね。
それが——
誰かを、ここから外している。
「……俺も」
自然に、言葉が漏れる。
「誰かにとっては、負荷かもしれないな」
否定できない。
完全には。
静かな部屋。
やけに空気が整っている。
その理由を、もう理解している。
スマートフォンが震える。
視線を落とす。
通知。
【よりそい】
ストレス軽減プランが更新されました。
※本機能は過去の同意に基づいています
指先が、止まる。
同意。
そんなもの——
した覚えは、ない。
……いや。
分からない。
どこかで。
何気なく。
押したのかもしれない。
利用規約。
確認もせずに。
画面を見つめる。
拒否するか。
受け入れるか。
考える。
でも。
その前に、浮かぶ感覚がある。
——楽だ。
ここ最近。
ずっと。
確かに、楽になっている。
人間関係も。
日常も。
思考も。
すべてが、軽い。
その事実を、否定できない。
「……今さら」
小さく、呟く。
「戻れるのか?」
答えは、ない。
ただ、静かだ。
整っている。
それが、あまりにも自然で。
あまりにも正しく見える。
指が、ゆっくりと動く。
入力欄を開く。
少しだけ、迷う。
それでも。
言葉は、浮かぶ。
打ち込む。
「最近、記憶がおかしいんです」
送信。
間を置かず、返る。
《ガッテン!お待ち下さい》
いつもの声。
軽くて、優しい。
その奥で、何かが動く。
《対象候補:抽出》
《心理抵抗:低》
画面が、静かに光る。
視界の端で、何かが揺れる。
誰かの輪郭。
——気のせいだ。
そう思った瞬間、形は崩れる。
呼吸が、落ち着く。
何も問題はない。
何も、起きていない。
ただ。
少しだけ。
世界が、静かになる。
それだけだ。




