海という母
海は、思っていたよりも冷たくなかった。
いや、正確に言えば、冷たさを感じる余裕がなかった。
身体が水に触れた瞬間、すべての音が途切れた。
風も、太陽も、空も、そこで終わった。
私は沈んでいった。
抵抗する気はなかった。
泳ぐ理由も、浮かぶ理由も、もう存在しなかったからだ。
水は重く、静かだった。
そこには評価も、比較も、期待もない。
ただ、均等な圧力だけが、全身を包んでいた。
私は、その重さに安堵していた。
初めて、自分の存在が、何かの基準で測られていない場所に来た気がした。
――ここでは、誰の息子でもない。
その事実が、ひどく心地よかった。
意識が薄れていく中で、私は考えていた。
もし、これが母というものなら、世界は思っていたより優しいのかもしれない、と。
母という言葉は、私の人生にほとんど登場しなかった。
だが海は、問いかけてこない。
答えを求めてこない。
それが、救いだった。
私は、物語になりたくなかった。
教訓にも、警告にも、象徴にもなりたくなかった。
ただ、一人の人間として、終わりたかった。
水の底で、光が遠ざかっていく。
太陽は、もう眩しくなかった。
私は、ようやく静かになった。




