恥のはじまり
私は最初から、飛ぶつもりなどなかったのである。
こう書くと、どこか潔癖で、覚悟の決まった人間のように見えるかもしれないが、実際はまるで違う。飛びたい気持ちは、たしかにあった。ただそれは、夢や希望と呼べるような健全な欲望ではなく、もっと陰湿で、もっと卑屈な衝動だった。人混みの中で、自分の存在がふいに薄れていくのを想像してしまう、あの感覚に近い。
私の名はイカロス。
この名を名乗るたび、私は自分がすでに物語の一部であることを思い知らされる。選ばれた名前、用意された役割、避けられない結末。そうしたものが、生まれたときから私の周囲に静かに積み上げられていた。
父はダイダロス。
迷宮を造り、王に仕え、神々にすら一目置かれた天才である。天才の息子として生まれるということは、祝福であると同時に、永遠に比較され続ける運命を引き受けることでもあった。
努力すれば、「血だ」と言われる。
怠ければ、「やはり血だ」と言われる。
どちらを選んでも、私自身の存在は見てもらえない。私はいつも、父の影の中で都合よく解釈される、便利な存在だった。
私には、これといった才能がなかった。
いや、正確に言えば、才能がないことよりも、それを証明し続けなければならない日々が、ひどく辛かった。失敗すれば「まだ子どもだ」と言われ、成功すれば「さすがはダイダロスの息子だ」と言われる。どこにも、私の居場所はなかった。
私たちは迷宮に閉じ込められていた。
神話的な理由はいくつもあるが、私にとって重要だったのは、父と二人きりで、逃げ場のない空間にいるという事実だけだった。壁は高く、出口はなく、空だけがやけに遠くに見えた。
私はよく、迷宮の隙間から空を見上げていた。
本来なら自由の象徴であるはずの場所が、私にはひどく場違いな世界に思えた。近づくほど、自分がそこにいてはいけない存在だと突きつけられる気がして、胸の奥がざらついた。
父は多くを語らない人だった。
沈黙は常に正解で、説明は不要とされていた。父の考えは完成されており、疑問を挟む余地など最初から存在しなかった。私はその背中を見て育ったが、追いつこうという気力は、いつの間にか失っていた。
それでも、私は空を見てしまう。
見てしまう自分を、ひどく恥ずかしいと思いながら。
飛びたいのではない。
ただ、ここからいなくなりたかった。
そのとき、私はすでに知っていた。
空を目指す資格も、飛び続ける覚悟も、自分にはないということを。
私は、飛んではいけない人間だ、と。




