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二年生で迎えた七月二十八日。例のごとく飽きもせずに僕はティファニーのドアを引いた。ドアのノブを引いた僕の腕は強い衝撃を受けた。いつもは開くはずのドアが開かなかった時に腕が受ける反動が、瞬時に僕の身体中の感覚器官を研ぎ澄まし、そのせいで僕の寝ぼけ眼の六個目の感覚器官が嫌な予兆を感じ取った。ドアの横に目をやる。すぐには受け入れる事ができない言葉が漢字三文字で並んでいた。たった三文字が僕の月に一度の楽しみを引きちぎった。そしてもう二度とその楽しみと僕が引きあわされる事は無かった。


<貸物件>


夢なら醒めてくれと切に願った。悪い冗談なら早くネタばらしをしてくれと祈った。移転の告知のチラシを探して血眼になって辺りを駆けずり回った。そして静かに天を仰いだ。風に問いただしてみても、植木を羽交い締めにしてみても、月明かりを人質にとってみても、誰一人として重い口を開こうとしなかった。僕は無音のピストルで辺りの風景を穴凹だらけにしてやった。ティファニーが忽然と跡形もなく姿を消した夜。空は悠然たる星々の煌めきでより一層の暗闇に沈んでいた。ユミさんの優しい笑顔、マスターの無精髭、シンガポール・スリングに浮かぶチェリー。僕にティファニーを連想させてくれるものがぐるぐると頭の中を流れていた。お気に入りの曲をエンドレスリピートにしてから眠る時の感覚。ただもうそのどれもがここには存在しない。まるで最初から無かったのではないかという馬鹿な考えが浮かんでとりとめのない無意味な疑心暗鬼が排水路のドブネズミみたいにちょこまかと駆け回っていた。

ポールに連絡をとった。彼なら何か知っているかもしれないと思った。電話に出たポールは酷く驚いていた。まず僕から連絡があったことで驚いて、その後でティファニーの件で更に驚いた。結果、彼はティファニーの消息は勿論、消失についても全く関知していなかった。僕たちは電話の後ティファニー前で待ち合わせをした。

ポールがやってくるまでの間、僕はティファニー周辺での聞き込みを行なった。有力な情報は得られなかったが、少なくとも三日前はまだ営業していたと、ティファニーが入っているビルの三階でラウンジを経営する強面のおじさんが教えてくれた。そのついでにボーイが足りてないのだがと遠回しに半ば脅迫ともとれる遣り口で勧誘されたが、丁重に断り逃げるように二段飛ばしで階段をかけ降りた。

ポールと合流してから更に聞き込み範囲を広げた。居酒屋の店主とか、ラーメン屋のアルバイト、占い師のおばさん、ごみ置き場をあさる烏、ありとあらゆる人と鳥にティファニーの消息を聞いて回った。その八割はそもそもティファニーを知らなかった。残りの二割の中でもティファニーが無くなった事を知る人は、ある一人を除いて存在しなかった。僕たちは、走って逃げようとするそのある一人を捕まえて、近くのカフェに招待し話をする事にした。 

ウェイトレスが三人分のアイスカフェオレを持ってきた。ウェイトレスは僕達の座るテーブルの異様な雰囲気から逃れるようにそそくさと隣のテーブルのオーダーをとりにいった。

「マスター、何で教えてくれなかったんですか?」

ポールが詰め寄るようにして言った。マスターは俯いたまま微動だにしなかった。トレードマークの髭はごっそりまるごと剃られていた。そのせいで僕とポールは、ラーメン屋のカウンター席に座り蓮華でスープをすするその人がマスターであることを見逃しかけた。

「実はね」

僕とポールははっと息を呑んだ。マスターがついに重い口を開いた。それも驚くほどに掠れた声で。カフェに流れるジャズミュージックの音量が心なしか大きいのではと感じさせるような緊張感が僕たちのテーブルを包み込んでいた。カメラのレンズの焦点を合わせるのと同じように、店中の意識のピントが僕達のテーブルに合致しているみたいな妙な閉塞感で少しだけ息苦しささえ感じた。

「実は、ティファニーは全くもって俺の店じゃないんだ。俺はあそこの売上で借金を返済させてもらってただけなんだよ」

「マスター借金あるんですか?」

僕は訊ねた。

「誰からですか? 消費者金融ですか?」

マスターが答える前にポールが質問を被せた。

「あるよ。知り合いに紹介されてある人に借りたんだけどね、どうやら借りる人を間違えたらしい」

マスターはそう言うと、テーブルに静かに千円札を置いて店を出ていこうとした。即座にポールがマスターの腕を掴んだ。

「ちょっと待ってく……」

「君達に何がわかるんだよ。何で俺に構うんだよ」

マスターが振り向き様に声を張り上げた。マスターの剣幕にポールが一瞬怯んだのが僕にはわかった。それに僕も怯んだし、店内の客なんてもっと驚いたに違いない。店内の客が誰も喋っていない。そんな瞬間が、少しではあったけれど確実にあった。ちょうど水道の蛇口をぎゅっと閉めたときみたいに瞬時にして店中の会話の流れが止まった。

「君達に何ができるんだよ。教えてくれよ。今俺が君達に胸中を打ち明けたところで、君達は俺に何をしてくれる? 何もできないよ。できるわけがない」

マスターはカフェの雰囲気なんてお構いなしだと言わんばかりに声を張り上げて僕達を罵った。こんなマスターを見るのは初めてだったし、見たくもなかった。ティファニーの店主は寡黙で無口でシャイでなければ違反であるようにさえ感じられた。しかし最初は迫力があったマスターの勢いも、喋り終わる頃には線香花火のように力無く繊細な嘆きにも似た様相を呈していた。

「できるかもしれないじゃないですか」

ポールが言った。

「俺はね、マスターがシェイクしてくれるシンガポール・スリングが大好きなんですよ。ただそれを守りたいだけなんです。もう一度取り戻したいだけなんです。幸い俺にはそれができると思っています」

僕にはポールの「それができる」という言葉の根拠が全くもって想像できなかったけれど、その気持ちだけはポールと一緒だった。もう一度ティファニーで酒を飲みたい。これ以上の理由は必要ないように思われた。

 僕達三人は居心地が悪くなったカフェを後にした。もう二度とこのカフェに来る事は無いだろうと思った。僕達は当てもなく通りを歩いていた。その途中でマスターは僕とポールに話をしてくれた。それもティファニーのマスターらしからぬ実に饒舌な語り口で。

「俺は、十七歳で両親を亡くした。今から十五年前さ。他に身寄りのない俺は、高校を中退して上京した。歌手になりたかったんだ。だからギターを一本背中にぶら下げて電車に乗った。今じゃそのギターもどこにいったかわかりはしない。当時は生活に不安はあったけど両親が残してくれた貯金も多少はあったし、それプラスアルバイトでもやれば何とか暮らしていけるとたかをくくっていた。でもね、都会の風は俺が思っていた以上に何倍も強く、そして冷たかったんだ。身内のいない未成年の青臭いガキを雇ってくれる所なんてそう簡単にはありはしなかった。アパートを借りるお金があるなら、その分長く食にありつきたかった。だからアパートは借りずに生活していた。路地裏の野良猫と一緒に昼寝したし、奇妙な絵柄の表皮で体中を包みこんだトカゲと今後のお互いの生活について相談し合ったりした。そんな生活を続けていたある日、俺はそれまでの人生で最大の出会いを果たすことになった。絵美子さんとの出会い。と言っても四十過ぎた普通のおばちゃんなんだけど、その時の俺には彼女が聖母にも見えた。路上に座り込んでギターを力無く引きこなす俺の前で足を止めてくれて、一曲一曲を、一音一音をまるでするめでも噛むように実に丁寧にそしてゆっくりと聴いてくれた。そんなお客さん初めてだったからね、一生懸命歌ったよ。腹減ってたけど、これでもかってくらいに声を張り上げて精一杯歌った。ほんの少しでもいいから届けたかったんだ。俺の生きている証をね。それで死ぬんなら、別にいいと思った。本当だよ」

そこでマスターは話を区切った。僕とポールは真剣にマスターの話に耳を傾けていた。それでも時折繁華街の喧騒で僕達は、現実世界に引きずり戻された。それは居酒屋の客引きの声だったり、綺麗な女の人の魔界への誘いでもあったりした。僕達は繁華街を左に折れて閑散とした路地に入った。少し歩くと外灯に照らされたジャングルジムが見えてきた。僕達はその公園で話をする事にした。ブランコが二台あって、その一つにマスター座り、ポールがもう一方に座った。僕は二人と向かい合うようにして、地面に腰を下ろした。マスターとポールの後ろからこぼれる外灯の明かりのせいで僕の位置からはマスターの表情を鮮明に窺い知る事は出来なかった。空には依然として星が輝いていた。


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