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二年生になった。僕は一年間で半分以上の授業の単位を落とした。普段は優しいチューターの先生に、耳がちぎれるくらいの説教を浴びせられた。その間、僕の頭は、前の日の夜に飲んだジャック・ダニエルのせいでかち割れそうだった。チューターの先生が言うところによると、二年生でどれだけ頑張って単位を取り戻すかで、留年するか否かが決まると言う事だった。別れ際にとにかく頑張れと言われた。
その足で僕は、パソコンがある部屋に行って前期の授業の履修登録を済ませた。改めて、時間割を眺めて、また頭が割れそうになった。月曜から金曜までで、開いているコマが、三つしかなかった。それ以外は全て何かしらの授業で埋まっていた。
毎日は、三倍くらい速く過ぎるようになり、六倍くらいつまらなくなった。授業のせいで本を読む時間がほとんど無くなった。そしてそれに伴って講義室の向かいのベンチに座る本読みの女の子の姿も見なくなった。ミカミと一緒に過ごす時間も激減した。しかしそれは僕の方が忙しくなったからというよりは彼が学校に余り姿を見せなくなったからという方が適切な表現だった。どれだけ忙しくても僕は毎月必ず一回、二十八日だけはティファニーでユミさんの笑顔に惚れたし、たまに一緒になったポールとたわいもない話で大笑いし合ったりした。
講義を受けるのは僕にとって苦痛以外の何物でもなかった。ただ何故かその頃の僕には大学を辞めるという選択肢は全くなかったし、そのくせ留年したくないというプライドだけはやけに高かった。だから僕は、苦痛な毎日の講義も仕方なくまじめに聞く事にしていたし、ノートもしっかりととった。
ミカミの姿を久しぶりに大学で見た。一週間に三度ある空きコマの一つの時間だった。喫煙所で煙草を吸っているところを僕が通りかかった。ミカミは久しぶりと言う代わりに、煙草を咥えたまま手を挙げた。
「最近あんまり学校に来てないみたいだね。どうかしたのかい?」と僕は尋ねた。
「いや、別に何もないよ。今家に女子高生が棲みついているんだ」
「どういう事?」
「二カ月くらい前の夜、俺は家の近くのコンビニに行ったんだ。そしたらそのコンビニの前で一人の女子高生が駐車場の縁石に座って何やら悲しげな表情を浮かべていた。彼女は、今高校二年生で、家出してきたと言った。家出と言ってもその日の朝普段通り学校に行くと言って家を出かけたきり帰っていないというだけの話だった。俺は、早く家に帰れと言ったけど一向にそこを動く素振りを見せなかった。だから俺は、年頃の女がそんなに簡単に男に下着を見せるものじゃないと言ってやった。そしたら彼女ははっとして、立ちあがって顔を赤らめたんだ。そしてそれとほぼ同時に彼女の腹の音が鳴るのが聞こえた。段ボールの中でタオルにくるまれて捨てられている猫の鳴き声そのものだった。コンビニで二人分の夜ご飯を買って二人でとりあえず俺の家に向かった。その後の事はあんまり覚えてないな。とにかく、そんなわけで今俺の家のベッドは女子高生に占拠されているんだ」
「ちょっと待って。女子高生が君の家に居座っているのと、君が学校に来ないのにはどんな関係があるの?」
僕は正直な疑問をミカミにぶつけた。彼は少し考えてから言った。
「目が見えないんだ」
少しの間、沈黙が会話を遮った。何と反応して良いかわからなかった。
「目が不自由なんだ、その女の子。だから俺が身の回りの世話をしているんだ」
「二カ月間も?」
「そう。でもね、たまにはこうやって大学に来る余裕もあるんだ。最近じゃ、彼女も俺のアパートのつくりをほぼ完璧にマスターしてくれたみたいでトイレや風呂もお手の物さ。俺の代わりに洗濯だってしてくれるようになった。だからこれからは大学にも普段通りこれそうだよ」
「家の人は? その子の家族は心配してないのかい?」
「それが分からないんだ。彼女は全く心配してないんじゃないかと言っていたけど。警察にもそれとなく訊いてみた。でも捜索願も出てないみたいだった。どこの世界に、自分達の娘、それも目が全く見えない娘が、二カ月間も家に帰らなくて、捜索願一つ出さない親がいるんだよ? どう考えても正常じゃない。そんなところに彼女を無理やり送り返すわけにはいかないだろ」
ミカミの言う事は一理あったが、それでもそのような犯罪紛いにも思えるような行為を彼に続けろとは言えなかった。
「もしかしたら、捜索願を出していないだけで、彼女の両親はこの街中を這いずりまわって、彼女の事を探し回っているかもしれないじゃないか」
ミカミは黙り込んでしまった。遠くを見る目はいつもよりも少し憂いを帯びて、それでいて裏付けのない自信にも自嘲にも似た何かが白目と黒目の境界線から滲み出ていた。彼の目には今何が映っているんだろう。彼の頭には今どんな思いが駆け巡っているのだろう。もっと言えば、彼の鼻はどんな臭いを感じ、彼の耳はどれほどの音を汲み取っているのだろう。その全てが僕の思考の三つくらい上の次元で語られなければならないような印象を受けた。
「ミカミ」
僕は彼を初めて名字で呼んでみた。そうしなければならないどこか厳粛な空気が喫煙所を支配しているように思えたからだ。
「ミカミ、僕にも教えてくれないか」
自分でも何を言っているのか解らなかった。僕は続けた。
「君を動かしているものはなんなんだい? 欲望か? 本能か? それとも慈善心?」
「止まっているエスカレーターを歩いた事はあるかい?」
「あると思う」
そう答えたところでデジャブに似た感覚に襲われた。しかしそれはデジャブではなかった。以前に実際に経験した会話だったからだ。
「俺は止まっているエスカレーターの上を歩かされているんだ。妙な違和感と一緒にね。エスカレーターが動いていたら俺は女子高生なんて拾わなかった。エスカレーターが動いているなら俺は何もしなくても目的地に辿り着く。例えそれが死と呼ばれる場所であってもね。でも今、というか今までずっと俺は止まっているエスカレーターの上を生きてきたんだ。解るかい? エスカレーターが連れて行ってくれないなら自分で歩くしかない。妙な違和感に苛まれながらでも、着実に一歩ずつ歩いていかなきゃならないのさ。そしてエスカレーターが女子高生を救えないなら俺が救ってあげるしかない。この場合のエスカレーターは社会の事さ」
そう言いきってミカミは立ちあがった。
「じゃあ君は、ミカミリュウイチは、これまでの人生でどれだけの人を救ってこれた? それでその数は君がこれまで泣かせてきた女の涙とどっちが多いんだい?」
胸が締め付けられた。時間を戻したいとこれほど思った事は無かった。僕の身体の中で着々と堆積していた埃の山がせきを切ったように溢れだして行くような感覚で、僕の理性とは別の所から思いもよらない形で溢れだした。ただそれは決してミカミを非難したかったわけではない。ミカミの考えを僕の中に落とし込みたくてした質問だと言う事を伝えきれぬまま、見切り発射の状態で僕の言葉のミサイルが彼の心臓を串刺しにしたに違いなかった。
「違和の砂嵐が俺の内部に砂を撒き散らしては水分を奪っていく。止まっているエスカレーターを歩くとはそんなものなんだと思うんだ。ある種の違和の狭間でしか、違和と共にしか、生きる事を許されない。それが俺という人間なんだ。だからって俺がやってきた事を肯定するつもりはないし、仕様がないと知らんふりを極めこむつもりもない。だから君が僕の事をそうやって揶揄するのも喜んで受け入れようと思う」
ミカミの発言全てが正しいような、それでいて全てが道を外れているような、そんな不思議な印象を受けた。僕にとって違和とはミカミそのもののように思えた。勿論、此処での違和は、彼が思っているような揶揄を示唆する類のものではなく、もっと抽象的で、かつ神秘的なものだ。
ミカミは違和と生きてきた。僕は一体何と生きてきたんだろう。そう考えて酷く寂しくなって涙が少しだけ溢れた。涙を流すようなところではないのだけれど、色んな思いが交錯してとにかく涙が溢れた。僕はミカミに気づかれないように背を向けて、目やにを取るふりをして涙を指で拭った。
「お前には、目やにがいるじゃないか」
ミカミが呟いた。全てを見透かされている気がして背筋がぞくっとした。振り向くとミカミはいつものように紫煙の中に佇み含み笑いを浮かべていた。