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僕はその日ティファニーのいつもの席に座り、静かすぎる違和感を酒のつまみにジャック・ダニエルを飲んでいた。ティファニーとはやる気のないマスターとその手伝いのユミさんが経営するバーの名前だ。僕が初めてティファニーを訪れてから丁度四カ月が経つ水曜の夜の話。僕は毎月二十八日はティファニーの日と決めて、必ずそこに足を運んだ。僕が初めて訪れたのが五月二十八日だったからと言うだけの話だ。僕はそれから、六月二十八日、七月二十八日、八月二十八日の夜をティファニーでマスターとユミさんと過ごした。一か月に一度、月の終わりになるとどういうわけかマスターのやる気のないいらっしゃいませが聞きたくなり、ユミさんの優しい笑顔に会いたくなった。そして九月二十八日の夜もいつものようにそこを訪れた。
店内に入ると、聞きなれたやる気のないいらっしゃいませが僕を迎えてくれた。しかしその日はそれに優しく覆いかぶさり店内に響き渡るはずの高い声のいらっしゃいませが中々聞こえてこない。平生を装いいつもの席に座り、いつもの酒を注文した。いつもならユミさんが作ってくれる僕のジャック・ダニエルにはその日はマスター直々に腕を振るうことになった。その日、店内にユミさんの姿は無く、その代わりにカウンターに一人佇むポールの姿があった。僕はポールを自分が座る席の方に呼び寄せて一緒に酒を飲む事にした。彼と本格的に話すのはそれが初めてだった。四カ月前に彼に会った時は、ユミさんを介しての会話がメインだったし、彼は次の日仕事があるという理由で僕と出会ってからものの三十分程でティファニーを後にしていたからだ。
その日の店内には、マスターとポールと僕しかいなかった。マスターは奥の方で何やら伝票の整理をしていたので、僕とポールは二人きりで話をする事になった。まず僕は彼に対して前々から気になっていた質問を尋ねてみた。
「ポールは何でポールなの?」
彼は何も言わずに彼が飲んでいた琥珀色のカクテルの方に目配せした。グラスの淵を輪切りのレモンがはさんでいた。そして少し黒みを帯びたチェリーが紅一点グラスの中を彩っていた。考えてみれば前会った時もポールはそのカクテルを飲んでいたような気がした。
「それがどうかしたのかい?」
「このカクテルはね、シンガポール・スリングって名前なんだよ。此処にきてこればっかり注文していたら、ユミさんにある日突然ポール君って呼ばれるようになったんだ。ただそれだけだよ。だから此処を一歩でも出れば僕がポールと呼ばれる事は無いんだ」
「でもどうしてスリングでもシンガでもなくポールなんだろう?」
「うーん、わからないな。丁度今日は水曜日でユミさんは休みだし、今度会った時にでもきいてみようかな」
「ユミさんは水曜が定休日なの?」
「そうだよ。水曜だけじゃない、金曜日も確か休みだったと思う」
僕はそれを聞いて少しほっとした。てっきりユミさんがもう二度とこの店には現れないと思い込んでいたからだ。考えてみればこれまで僕は、うまい具合に水曜と金曜はティファニーへ来た事がなかった。
暫く沈黙が続いた後で不意にポールが言った。
「ジャックは今彼女はいるの?」
僕がジャックというところに食いつこうとするのより早くポールは「あっ、ジャックっていうのは君の名前ね。いつもジャック・ダニエルを飲んでるから。お互い様だから文句は無しだ」と付け足して微笑んだ。
「ポールとジャックか。悪くないね」
「だろ? アクション映画に出てくる主人公の二人組みたいで格好良い。ポールが銃使いで、ジャックが剣士さ」
そう言ってポールは手で銃の形を作ってカクテルグラスに浮かぶチェリーを打つふりをした。
「それでどうなんだい?」
「ん?」
「彼女」
「あー。いるよ」
嘘ではなかった。僕には彼女ができていたのだ。ミカミが開いてくれた飲み会がきっかけで知り合った女の子。飲み会の後何度か二人きりで遊び、その内にどちらからというわけでもなく交際がスタートした。
「へー。じゃあそれなりに充実したキャンパスライフを送ってるってわけだ」
「それがそうでもない。彼女は僕の事を愛してくれてはいないんだ。そして丁度それと同じ分だけ僕も彼女の事を愛していない」
「どういう事?」
「僕には人を愛するという事がどういうことかわからないんだ。愛してるって言葉は一体どんな状況にある人が使って良い言葉なんだろう? その人とキスをすれば、いやもっと言えばセックスをすれば愛なのかな、それとも一人でいる夜にふとその人の顔が浮かんできたらそれはその人を愛していると呼べるのかな。愛って言葉の意味は十分に理解しているつもりでいるんだ。でもね、それがどういう状況なのかと訊かれたら僕はそれに答える事ができない。例えばね、愛と言う名前の箱があったとして、僕はその箱の大きさやデザイン、材質なんかをぴたりと形容する事が出来る。でも、その箱の中にあるものは全く見当がつかないんだ」
「確かにそうかもしれないな」
ポールは何度も頷きながら目の前のコースターをいじっていた。
「ポールはどうなんだい? 彼女はいるのかい」
「いない。俺はどうもそういうのには向いてないらしいんだ」
僕はそれ以上はそれについて尋ねなかった。ポールの目が訴えているように見えたからだ。それ以上訊かないで下さいと。
伝票の整理を終わらせたマスターが表に姿を現した。僕はすかさずおかわりを注文した。ポールにも何か飲まないかと進めると、彼はギブソンとナッツのオードブルを注文した。
「何でシンガポール・スリングじゃないんだい?」と僕は尋ねた。
「ちょっと待ってくれよ」と言ってポールが咳込んだ。
「俺だってたまには違うものも頼むよ」
マスターは僕達が注文したものを全て出し終わるとまたすぐに奥の方に姿を消した。
ティファニーにユミさんがいないのは僕にとって物足りなさを感じさせる要因でしかなかったが、それでもポールとこうしてたわいもない話をしているのは心地よかった。苺が乗っていないショートケーキのメレンゲの間の生クリームの中に黄桃のスライスが入っているのを発見した時の心境に良く似ていた。ポールは僕と同級生のはずなのにどこか大人びて見えた。ミカミも大人びてはいるのだけれど、彼のそれとはまた違う種類の大人だった。その雰囲気が僕には心地よかった。
時刻はもうすぐ二十三時になろうかというところだった。
「ポール、明日は仕事じゃないの?」と僕は尋ねた。
「明日は休みなんだ。午後から少し下調べしなきゃならない事があるけどそれは別にそんなに大したことじゃないしね。ジャックは明日学校だろ?」
「大学に行くか行かないかなんて事は僕にとってはどっちでもいいんだ。だから朝起きれたら行くし、起きれなかったからといって頭を抱えなければならないという話でもない」
ポールは何も言わず半分くらい残ったギブソンを一気に飲みきってからげっぷをした。それから僕の開いたグラスを眺めてから「次の店に行こうか」と微笑みかけた。それから僕達は二軒飲み屋を回って家路に着いた。
次の日は夕方まで一度も目が覚めなかった。それから夕食を適当に作ってそれをゆっくり噛んで食べ、その後また寝た。そういうものだ。