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 じっとりと湿ったシャツの不快感で目を覚ました僕は、診察室のベッドに横になっていた。自分でも驚くほどの汗をかき、その汗はこぞって僕の綿100パーセントのポロシャツとベッドのシーツに染み込んでいた。そのせいで僕の上半身は生暖かいゼリー状の沼に引きずり込まれた時のような何とも心地の悪い状況に見舞われていた。起き上がり、部屋の様子を一通り見渡してから安堵の息を漏らした。僕の消滅がどうやら夢の中のおとぎ話だったと言うことを認識できたからだ。看護婦の仰々しい薄ら笑いや下半身が無くなっていく時の恐怖感を思い出して背筋がぞくっとした。奥の部屋へと続くドアが開いて精神科医が姿を現した。相変わらず胡散臭い黄色い縁のレンズの小さい眼鏡をかけ、緩んだ口元とは反対にその奥の眼は笑っていなかった。

「ご機嫌はどうかな? 少し落ち着いたみたいだけど」

「一体何が起きたんですか?」

精神科医は本気で言っているのかと言わんばかりに鼻息を荒くして言った。

「大変だったんだよ。話をしている途中で急に意識を失ったかと思うと、今度はベッドの上で大暴れ。本当に何も覚えてないのかい?」

最初僕は精神科医が嘘をついているのかと思った。それ程までに僕には記憶がなかったからだ。

「君はしきりに『消えたくない』と連呼していたんだ。僕が、人間はそう簡単に消えたりはしないから落ち着くんだとなだめても、その手を振りほどいて神に乞うようにして天井に手をかざして『助けてください』と叫んでいたんだよ。一体気を失っている間に君の中で何が起こったっていうんだい? 君さえ良ければ少しそれについて聞かせてくれないかな?」

僕はその質問には答えず、精神科医の狭い額の辺りを見つめながら呟いた。

「ちょっと外に出てきても良いですか?」

僕は頭の中に渦巻いている様々な感情をもと有るべき場所に戻す作業、つまり思考の整理をしたかったのだ。精神科医に話すのはその後でも遅くはないだろうと思った。精神科医はそれを快く受け入れてくれた。この時くらいからか、本当の精神科医は、僕が彼に対して抱いていた第一印象とは少し、或いは全く違う人物なのかもしれないと思い始めていた。人は見かけによらないとは昔からよく聞かされたものだ。

 精神科医がこの建物には中庭があるのだと教えてくれたのでそこに行ってみることにした。どういうわけかそこには印象派の台頭クロード・モネの絵画を彷彿とさせるような睡蓮が浮かぶ池があった。頭上には隠れんぼ気取りのシャイな太陽が鬼の様子を伺うように少しだけ顔を覗かせていた。それでも十分すぎる程に太陽はその光を僕のいる中庭にまで届かせて、睡蓮の池の水面に乱反射した自らの光を眺めては満足げに雲の裏に逃げ込んでいった。それが繰り返される事によって、刻々と中庭の光と影の調和やバランスが変化した。僕は脇の木造のベンチに腰を下ろし、移り行く陰と陽の境界線をぼんやりとした視線で追いかけまわした。 どれだけ冷静に振る舞ってみたところで、結局自分自身を騙す事は出来なかった。僕の頭は酷く混乱しており、身体中の全細胞が、消滅する事への恐怖心で震え上がっているのがわかった。精神科医の「人間はそう簡単には消えない」という言葉を思い出して心を落ち着けようとしてみても「そう簡単には」という部分を反芻して、心もとない心理状態に陥った。精神科医の発言は裏を返せば「ごくたまに人間は消滅することがある」という風に理解できやしないかと考えて、僕は静かに息をのんだ。


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