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「止まっているエスカレーターを歩いた事あるかい?」
「あると思う」
僕はミカミの唐突な問いかけにそのように答えた。
「じゃあその時に味わった感覚を覚えてる?」
「なんとなく」
「止まってるエスカレーターはただの階段と変わらないはずなのに、それを昇ったり降ったりしようとすると、何とも表現し難い感覚に襲われる。俺はね、今まであれに似た感覚を何度も体験してきたんだ」
「どういうこと?」
ミカミは僕の質問には答えずに二本目の煙草に火をつけた。ミカミは暫く自分が口にくわえた煙草から立ち上る紫煙の向こうに霞む景色をぼんやりと眺めていた。
「話を変えるけど良いかな?」
「良いよ」
「俺はずっと前、幼稚園児くらいの頃から疑問に思ってる事があるんだ。これは恐らく誰でも一回は考えた事がある事だと思うし、それでいて明確な答えは存在しないんだろうけど、敢えて君にこの質問を投げ掛けてみても良いかな? 正解なんて無いんだからあくまでも君が考える君なりの君らしい答えを話してくれれば良いから」
「良いけど、僕にはそんな気の利いた君を納得させうるような模範回答を提唱する自信は無いよ」
ミカミは大笑いした。
「俺が求めてるのは模範回答じゃないんだよ。あくまでも君の考えが知りたい。むしろ君の考えが模範回答と呼べる代物なら俺は興ざめだ。そしてそもそもこの質問に模範なんてものは存在しないんだから」
「どうしてそんな質問を僕にするの?」
「特に意味は無いよ。ただ君の意見が聞きたくなった。たまに無性にラーメンが食べたくなる時ってあるだろ?」
僕は何も答えなかった。
「あれと同じだよ。無性に君の意見を聞きたくなった。人は死んだらどうなると思う?」
「えっ?」
それは余りに唐突で余りに漠然としすぎていて彼の質問というのがそれである事に気づくのに少し間が空いた。
「これまでたくさんの人が抱いた大問題だよ。偉い学者や著名な文化人が幾度となく立ち向かった大問題。色んな説が有るみたいだけどね。でもね、その偉い人たちが必死になって考えた説が全くの出鱈目で、君が瞬時に閃いた考えが真実っていう可能性もない訳じゃない」
僕は何も言えず天を仰いだ。考え込む僕を見てミカミが言った。
「何も今すぐに聞かせてくれと言ってる訳じゃないんだ。君の中で答えが完成した時に教えてくれればいんだ」
「わかったよ。でも次までの宿題って事で良いかな? 今直ぐにはとてもよい考えが浮かびそうにないよ」
「もちろん。でも一つ注意点がある。俺が言ってるのはね、輪廻転生とか死後の世界なんて話では無くてね、もっと本質的なところなんだ」
ミカミは少し熱くなってしまったのを恥じるように頭を掻いた。
「わかったよ。でも期待に沿えるかはわからないな」
「いや、いいんだ」
ミカミは、空に向かって紫煙を吐き、短くなりすぎた煙草を靴の裏で潰してから灰皿に投げ込んだ。そして立ち上がって言った。
「そうだ。良いところに連れていってあげるよ」
それだけ言い残してミカミは喫煙所を後にした。
僕はそれから暫く喫煙所に留まり、ミカミの質問について考えていた。その間に何人かの学生が喫煙所に出入りした。学生達は麻雀の役の作り方の話や彼女の作り方の話、さらには浮気相手の作り方の話で盛り上がっていた。一人の男が先日参加した合コンに関しての談義で一芸を博している中で、僕はずっと「死」について考えていた。もう一人の男が合コンで使えるマル秘テクニックについての講義を繰り広げている時、僕は「生」について考えていた。やがて学生達は喫煙所を後にした。幾ら考えてみても、気の利いた答えは見つからなかった。それについて思考を巡らせれば巡らせる程、焦燥感に苛まれ、堂々巡りの思考回路のサーキットで、詰まらないアイディアばかりがデッドヒートを繰り広げてはクラッシュした。
ミカミから急な連絡が入ったのはその次の日の事だった。彼は電話ごしに僕を飲み会に誘った。ミカミは僕に女を紹介してあげるよと言ってきた。彼は僕の返事を聞かないうちに待ち合わせの時間と場所を決めてから電話をきった。待ち合わせ時間まではあと三時間しかなかった。僕はそれまでそのような飲み会に参加したことが無かったししようと思ったことも無かったので、それまでの後三時間の使い方が全く見当もつかなかった。だから仕方なく僕はいつも通りの休日の昼下がりを過ごすことにした。テレビをつけると旅番組やクイズ番組が放送されていた。僕はドキュメンタリー番組を見ることにした。その番組では、世界中の学生の海外インターンシップの受け入れや送り出しを支援する非営利組織についての特集が放映されていた。ブラウン管の中では、僕と同年代の学生が企業を回り海外研修生の受け入れ要請を行う場面が流れている時に、僕は夜の飲み会の事を考えていた。画面に映る学生たちの平和についての討論会が白熱し物議を醸し出している時に、僕は昨日、喫煙所にいた学生が語っていた合コンで使えるマル秘テクニックを必死になって思い出そうとしていた。そしてそんな自分を空に浮かぶ雲のように遠くから眺めて酷く落胆した。頭から飲み会の事が離れなくて、気晴らしにオーディオでパンクロックを大音量で流したり、飛びきり冷えた氷水を頭から被ったりしてみた。それでも効果は無かった。もしかしたらこれが本来の合コン三時間前の過ごし方なのかと想像を膨らませてみるものの、その馬鹿らしさにもう一度自らに氷水をお見舞いしてやった。これがもし大学生の合コン前の日常だとしたら、学生寮は毎日がパンクロックの嵐で、日本中の氷水は、温暖化で北極の氷が溶けるのと同様、じわじわと減少を続け、しまいに日本中は海底都市と化してしまうに違いない。それでも富士山の八号目よりも上は相変わらず大気中に顔をひょっこりと覗かせて鳥のかすかなさえずりの聴き手として存在し続けるのだろう。
今頃ミカミは何をしているんだろうとふと考えた。彼の事だからどうせ「生」について本気で悩み考えているか、「性」についての実習教育を熱演しているかされているかといったところだろうと予想してみてから、彼ほど自己矛盾を体現しているやつも珍しいなと思った。
彼と出会ったのは、まだ街が梅雨のどんよりとした空気から覚めあらぬ六月の終わりの事だ。天気キャスターが梅雨の終わりを宣言するタイミングを今か今かと見計らっては自然の理に踵を返され狼狽していたような、そんな夏の始まりだったと思う。久しぶりの晴れ間が天空を覆い包み、くっきりと七色に色分けされた虹が南の空を幻想的に映し出し見るもの全てに夏の到来を予感させた。その七色の橋はそのくっきりとした輪郭で僕の脳に働きかけて、そのせいで僕の寝起きの身体全身に動けという指令がヘモグロビンと一緒に運ばれてきて、無意識の内に僕は身支度をして外に繰り出した。
原因と結果を安直に繋ぎ合わせるなら僕は虹に導かれてミカミと出会ったという事になる。
その日の講義は昼からだったので普通なら正午を少し回ったくらいに家を出るのが常だったが、七色の空峡が未知なる世界への招待状を僕の前に叩きつけ、早く起きないとパーティーに遅刻するぞと発破をかけた。だからまだ半開きだった瞼を無理矢理こじ開けた。そしてその結果として僕はミカミと運命的な出会いを果たしたのである。そしてミカミを取り囲む独創的な世界観の中に足を踏み入れた僕は、一瞬にしてその世界の住人となる事を了解し、それ以来ミカミの荒々しくも繊細な思考の断片をビスケットの如くかじりながら生活を続けてきた。