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すっかり日が暮れた。もうすぐ恐怖の時間がやってくるのかと思うと、僕の全身の毛はよだち、血の気がどこか僕の身体ではないところへ引いていくのがわかる。改めて部屋全体を見渡して、入学当時からあったものと無かったものを分別してみると、入学当初無かったもののほうが圧倒的に多いのに気がついた。本当に自分がここで四年間過ごしたのだという実感が湧いてきて妙に不思議な気分になった。テレビの上に埃まみれのカバのぬいぐるみとキリンのぬいぐるみが置いてある。テレビの隣には、CDラックと、それに入りきらないCDが積まれ、床には、赤紫色の絨毯が引いてあって、少し背の高いこたつ机がその上に陣取っている。部屋の隅には扇風機と、キッチンから追われるように逃げてきたポットと電子レンジがある。僕の部屋のキッチンは異様に狭く、冷蔵庫と食器棚を置くとそれだけで一杯になってしまっていた。ただ、そのどれを持ってしても僕の存在を僕に確信させてくれる事は出来なかった。その事が僕を不安にさせてその度に僕は苦し紛れに絶望の淵で犬と一緒に日向ぼっこしながら散歩をした。

 一か月前だったか。僕は精神科に行った。最初は内科に相談した。最近、良く吐気に襲われると。僕は、症状を説明した。胸と腹の中間あたりに何かが詰まっているような気がして、その度に吐気に似た症状に襲われると。そこまでは内科医は親身になって話を聞いてくれた。しかし僕が、もうすぐ自分は大きな力に見放されてこの世から消えてしまうかもしれないと口にすると、内科医は深いため息をついてから、私の知り合いに有能な精神科医がいるから紹介してあげようと言った。

 その次の日、僕は内科医に教えられた通りの住所を訪れた。電車から降りて駅から一時間くらい山の方に向かって歩いているとその建物は突然僕の視界に入ってきた。昔からある洋館をそのまま病棟として使っているような建物だった。庭には少し広めの花壇があって、その傍らには古ぼけたブランコがあった。玄関まで進んでも、そこが精神科だと分からせるための看板も幟も何も無かった。ただ、玄関にプレートが付いていて、そこに「Aznavour」と書かれてあるだけだった。建物に入ると、正面に受付があって、そこに世にも奇妙な前髪をした中年の看護婦が座っていた。他に患者がいなかったらしく、受付で症状を説明するとすぐに奥に通してくれた。通された部屋には、精神科医の先生がいた。僕はそこでも内科で説明した通りの事を言った。

「話は聞いているよ。今日はまずお互いを良く知るために肩の力を抜いてお話をしようじゃないか」

白髪混じりの精神科医が僕に微笑みかけてきた。それは胡散臭い占い師が六星占術で客の未来を占う時に垣間見せる表情に似ていた。精神科医は僕に対して様々な質問をした。好きな食べ物から始まり、誕生日や最近興味のあるニュース、最近最後にいつセックスをしたかなど実に様々な質問を繰り出した。僕はそれらの質問に時には親身に、時には適当に答えておいた。質問のネタが切れたのか少しの間精神科医が考え込んでいた。

「最近楽しかった事は何だい?」と精神科医が思いついたように言った。

「それがすぐ思い浮かんだらここには来ていません」

精神科医は世にも奇妙な高笑い浮かべ次の質問を繰り出してきた。

「そもそも君はどうして今日ここに来たんだい?」

「わかりません。ただ最近の僕は以前の僕に比べて何か変わってしまっているような気がするんです」

精神科医は何も言わずじっと僕の目を見つめている。僕は続けた。

「それでその変化がこれからの僕にどんな影響を及ぼすのかが想像がつかないんです。うまく言えないけど、僕はこの四年間くらいの間に、様々な大切なものを失って、そしてこれからもずっと何かを失い続ける人生が待ち受けている気がするんです。そして最後に失うのは自分自身なんじゃないかって不安になって、そうすると例の症状が顔を覗かせるんです」

精神科医はおもむろに立ち上がり奥の部屋へと姿を消した。診察室の中は異様な程の静寂に包まれ、時計の針が時間を刻む音だけが静かに響いていた。針が動く音一回一回が僕の心臓を突き刺して、行き場の無い痛みが僕の身体中を駆け巡り、僕を終焉の舞台へと駆り立てる。こうしている間にも僕は何かを失い続け、消滅への歩みを進めているかと考えて僕は頭を抱えた。

 診察室の入り口のドアが開く音がして振りかえると、世にも奇妙な色の口紅をした中年の看護婦が入ってきて言った。

「あなたもうすぐ消えるわね」

僕は最初看護婦が何を言っているのか理解できなかった。自分が消えると誰かに言われたのが初めての体験だったからなのかもしれない。しかしじわじわとその言葉の持つ恐怖が僕の頭を支配し、それと同時に看護婦の冷たく輝く瞳が僕の眉間の辺りを串刺しにした。

「あなたはもうすぐ地球の歴史上から削除される。パソコンのデリートキーを一押しした時みたいに、いとも簡単にあなたの人生は歴史から切り取られるのよ。あなたがこの世界でしてきた事は全て空白になる。真っ白よ。驚くほど真っ白。そしていつか誰かの人生に塗りつぶされるの。ちょうどあなたがゴキブリを踏みつぶす時みたいに何の躊躇いも無くね」

看護師の顔が見る見るうちに醜くなっていくのが分かった。白目が血走り眼球が今にも飛び出そうで、鼻息が荒く、妙な色の唇は高笑いで張り裂けそうだった。僕は下半身に違和感を覚え、ふと足元を見た。僕のつま先が無くなりかけていた。消滅はみるみる内に進行し、ついには僕の膝下がいとも容易く消え失せた。僕はあわてふためいて部屋中を転がり回った。机の上に積まれたカルテの山をぐちゃぐちゃにして床に放り投げ、精神科医が座っていた椅子を看護婦の方に勢いよく投げた。椅子は看護婦の顔面を捉え、看護婦の顔はみるみる内に血に染まり、膝から崩れ落ちた。手の指がぴくぴく動いていた。それから僕が座っていた椅子を天井に向かって勢いよく投げた。蛍光灯の破片が勢い辺りに飛び散って、部屋が暗転した。そしてもうその時には僕の身体はへそより上の部分だけになってしまっていた。僕は怖くなって診察室から出ようとしたけど、奥の部屋へと続くドアも入口のドアも鍵がかかってびくともしなかった。僕は診察室の机の引き出しから金槌を見つけ出し、ドアノブに向かってそれを勢いよく振り下ろした。ドアノブは鈍い音を立てて吹き飛んだが、それでもドアは開かなかった。もう僕の身体は、両腕と肩と首と顔しか残されていなかった。僕は諦めて天を仰いだ。破壊された診察室はその様相に似合わず相変わらずの静寂の中にあった。そして相変わらず時計の針だけが部屋の音を支配して、着実に時間の流れを教えてくれていた。気がつくと僕は手に持った金槌を時計に向かって投げていた。金槌はいびつな放物線を描き勢いよく時計に命中した。


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