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新しい生活に合わせて新しい靴を買った。その靴に合わせて新しいズボンも買った。確かそんな春だったと思う。僕が考えていたキャンパスライフよりも三倍くらい刺激的で、五倍くらい退屈だった。サークルにも入らず、かといって授業にもあまり顔を出さない。講義室の近くのベンチに座ってありったけの太陽光と活字の暴風雨を浴びた。天気が良いのか悪いのか判らなくなって、度々僕は気分を悪くした。それがいつも夜に一人で飲んだウィスキーのせいだったと気づくのはもっと後の話だ。とにかく僕は気がつくといつも本を読んでいて、それを認識するたびに、本を読むのをやめて遠くを眺めた。そしてそうしていると決まって、同じ女の子が向かいのベンチで居眠りしているのが目についた。僕の座るベンチからは十メートルくらい離れていたが、僕はその子の寝息や寝言をはっきりと自分の中に落とし込む事が出来た。勿論それは実際に僕の耳から入りこんできたのではなくて、もっと別の経路からの侵入者だったと思うのだが、明確に何処から入ってきたかは僕の想像の範疇を超えていた。とにかく僕には、彼女の呼吸や、それに伴う心臓の鼓動を手に取るように感じる事が出来た。それは僕が超能力者であるからとか、不思議な力に目覚めてしまったからという話をしたいのではなくて、それ程までに彼女が自然体で全てをさらけ出していたというだけの話だ。そして多くの学生が通り過ぎて行く中、僕だけが彼女の前で足を止めたということだ。僕が彼女を見る時、たいてい彼女は眠っていた。起きている時は起きている時で淡々と本を読んでいた。それが本当に本を読んでいるという状況に当てはまるのかどうかは僕の距離からはわからなかった。僕から見た正直な印象は、「本と一緒に寝ている」だった。確かに彼女が本の一ページ一ページを捲っているのは見えるし、目線が文章を追うのに合わせて頭が微かに揺れているのも確認できた。しかし、正確な意味での「読書」の印象とは少し違ったイメージを受けた。本が彼女に読まれたがっているのだ。彼女に読まれた文章はその一字一字がそのまま彼女の身体に染み込み、読み終わる頃にはその小説は灰のように崩れて地面に同化する。そしてそこにまた新しい小説が実を付けて彼女に読んでくれとせがむ。それの繰り返し。そんな印象を受けるのだ。だから僕の目に映る彼女は少なくとも小説を読んでいる事は確かだったが、それが自発的な行為であるのか、それとも本からの申し出にしぶしぶ従っているのかどうなのか、断定するにはヒントが二、三欠落していた。ミステリー小説、恋愛小説、歴史、文学、SF、ファンタジー、ありとあらゆる小説が彼女を求めて実を付け花となり、また土に帰って行く。繰り返される食物連鎖の一端を担うかのように彼女と小説の上下関係が生態系に深く刻まれ、その関係が消滅すれば世界が終ってしまうのではないかと不安が頭をよぎった。そう考えていると彼女が勇者のようにも見えるから不思議だ。

 少しずつではあったが、僕は、自分が、彼女が放つ何かしらの魅力に引き寄せられ始めているのではないかと思うようになった。だから、毎日のようにそこで居眠りをする彼女が、一日でも顔を見せないと不安になるようになってしまっていた。そして、彼女の姿を見なかった日の夜に限って嫌な夢を見た。小説の増大に耐え切れなくなった彼女が、自ら命を断つという夢だ。夢の中では僕と彼女の知り合いで、彼女が自殺をする時はいつでも直前に僕のところに連絡が入った。そして彼女の家に走り、必ずその途中で、落とし穴に落ちて気を失った。僕が、彼女が自殺したという連絡を受けるのは決まって病室のベッドの上だった。彼女の母親と名乗る五十代くらいの女性が僕に報告に来てくれるのだ。なぜ彼女の母親が僕の存在を知っていて、娘の凶報を届けてくれるのか。僕には全くわからなかった。ただ、それが夢というものなんだろう。

 そしてそんな夢を見た次の日は決まって、僕は恐る恐る大学に行き、恐る恐る講義室の外のベンチに座る。そして恐る恐る視線を上げて、胸を撫で下ろす。暗く長いトンネルの先に一点の光を見たような気分になった。そして、朝起きてベンチに座るまでおどけてブルブル震えていた自分を嘲笑するのだ。一体どうして、そんな夢を見せたのかわからない。もっと言えば、どうして僕はいつも落とし穴に落ちて彼女の家にたどり着く事が出来なかったのかもわからない。そして最大の謎は、僕にこの夢を見させた奴の正体は誰なのかと言う事だ。この人間が見る夢についての話は、現時点で人類が抱える謎トップ百というものがあるとすれば、それにランクインしようかという非常に難解なものであるため、僕に分かるはずもないのだけれど、それを考えずにはいれなかった。 


僕はいつでも結論を急いでしまう人間なのかもしれない。解らない事を見る時、人は、その人なりの薄いフィルター越しにそれを見ようとする。人が最も落ち着く場所は、全ての事が納得という保護シェルターで包まれている状態の場所なのだ。そして僕もそんな避難所に逃げ込もうとする人間の列記とした一人だ。穴があったら入りたい。恥ずかしい事に僕は、人と人の間でしか生きて行く事ができない列記とした人間の一人なのだ。だから僕は、それへのささやかな抵抗に、夢に対して決して納得しない。色眼鏡で見たりしないし、規定されたものさしでそれを測らない。あくまでもそれを未知なるものと捉え続け、それについて考え抜きながら、ゆっくりと息を引き取る。そして次の誰かがまたそれについて真剣に考えれば良い。人が全てに納得し受け入れる時、文明は終わる。確かにそんな事はこれから何百年も起こりうる事ではないのかもしれないけど、この言葉自体が持つ意味は、決して覆る事のない事実なのだ。もう一度記す。人が全てに納得し受け入れる時、文明は終わる。想像しただけで心臓の鼓動が速くなる。そしてもしも何百年後かにその時が訪れるのなら、その何百年か後を生きる僕の後輩達に、一つだけ言葉を残したい。「ありがとう」不毛な争いがそこで終わるのだ。


話を戻す。僕は、いつまで経っても彼女に話しかける事が出来ずにいた。入学から一カ月と半月が経とうとしていた。相変わらず僕はベンチで本を読んだ。読む量は以前よりも幾分か増えたようにも思えた。そしてそれは僕が自覚してした事だった。僕は、少しでもたくさんの小説を読む事で、彼女の負担を軽減してあげたかったのだ。彼女の負担が少しでも減れば、時間にも心にも余裕が出来て、僕と話す隙を与えてくれるかもしれない、そう考えたら、読まずにはいれなかった。そのせいで僕は授業に出ている時間が少なくなり、それに伴い小テストの成績も悪くなった。それでも僕は、自分が本を読む事が、彼女のためになると信じてやまなかった。何かすがるものが欲しくて、結局は、それで納得させただけなのかもしれない。恐ろしい事に僕も、文明を止めるのに一役かっていた。

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