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 中庭と病棟を繋ぐ扉が開く音がして振り返ると、精神科医が中庭に出てくるところだった。扉が締まる音を聞いて少しほっとした。このまま中庭でずっと生活したい、そう思えるほどに中庭が僕を受け入れてくれていると感じたからだ。中庭という外が僕にとってはどんな中にも勝る程に中だった。どこか生気に欠ける睡蓮が浮かぶ池とそれを取り囲む少々苔がはびこる石囲い、古ぼけた木製のベンチとその脇に立つ中世ヨーロッパの雰囲気漂う真鍮性の外灯、時折僕の腕を這い登るまだ体に透明なあどけなさが残る小蜘蛛と中庭のあらゆる角っこに張り巡らされたそれらの巣が太陽に照らされて繊細に輝きを帯びる情景。そしてその中に突如として姿を現した訪問者の僕。外界でどんな重罪、例えば痴漢、強盗、もっといこう、殺人、テロを犯して路頭に迷う僕でさえも、ここに一歩足を踏み入れてしまえば全ては下らない過去として僕の中で静かに消えるだけだ。ここの住人はここでは無い場所の僕を知らない。要らない干渉に気を滅入らせなくて済むし、こちらが必要ならここの全ては喜んで話を聴いてくれる。それがどうだ、ここから一歩でも外に踏み出せばもうそこは地獄、ある意味で天国。もっと生きたいと思えば思う程、何かを得ようとすればする程、それとは正反対の力にねじ伏せられて反対側のホームに移動させられる。そのホームにはすでに一台の列車が停車しており、僕は無理矢理その乗り物に詰め込まれる。列車に乗る直前に天の川経由喪失行きの文字が僕の瞳を揺らす。けたたましい音をたてて扉が締まる。地球上の全ての蟻の溜め息をかき集めたような音。ふと車内に目をやる。誰もいない。列車の外から見えていた人混みが幻想だと気づき項垂れる僕の身を揺らしながら列車は星空に浮かぶ僕の祖母の墓石を突き破り銀河の彼方に消えていく。車窓に浮かぶのは三日月に腰かけて時のハープをかき鳴らす幼顔の月の姫や、超高速の流れ星に必死でつかまる落ちこぼれの夜の王子様。それを横目に僕だけを乗せた列車は喪失の彼方に猛進を続け、その途中で苔の生えた隕石と衝突する。驚くほど無音の衝突で宇宙に浮かぶ星々の住人の頭に大いなる予感がよぎる。ただよぎるだけ。そして終わる。


「どうだい? ここ、中々良いだろう?」

精神科医が言った。中々も何も、最高だ。という言葉をポケットにしまいこんで「そうですね。とても良いところだと思います」と返事をした。満足げな含み笑いを浮かべながら精神科医は僕の隣に座った。木製のベンチが微かな悲鳴をあげた。

「もうこのベンチも寿命らしい。いつからここにあるのか解らないけどね。きっと何十年、もしかしたら百年以上も前かもしれない。とにかくずっと前さ」

そう言って精神科医は木製のベンチの手すりを優しく撫でた。

「寿命って何者なんですかね? どんな奴がどんな顔して、人の命奪っていくんだろう」

僕は思いがけずそんな事を口にしていた。意識はあるが意思はない。きっとそんな感じ。夢から醒めた後からずっとだ。夢は夢らしく、大人しく忘却という永劫の世界に葬りさられるべきであって、こんなにも僕の精神に深く傷痕を残すような事はあってはならないし、これまでそんな事は経験したことがなかった。そのせいで、僕はあの夢を夢として認識する事が出来なくなってしまっていた。

「でもね」

精神科医の力強い言葉で少しだけ我を取り戻した。

「でも、もしも寿命が無かったら大変だよ」

遂に中庭から直接太陽を見ることが出来なくなった。それでも尚、太陽は僕と精神科医と中庭に光を届けてくれていた。刻々と光のバランスが変化して、僕が座っている所は日陰で、精神科医が座っている所は日向になった。光と影の境界線が精神科医の頭を通っていた。強盗が人質の頭部に刃物を傾けているみたいに見えて怖くなったので、精神科医に少しだけ場所を動くように言った。今度は精神科医の首元を境界線が切り裂いた。僕は目を瞑った。

 扉が開いた。看護婦が頭を覗かせて、精神科医を呼んだ。どうやら予約の患者が来る時間が近づいているようだった。精神科医は忘れていたと言わんばかりに血相を変えて「カルテどこやったっけなぁ」と独り言を呟きながら病棟に戻っていった。そしてまた一人になった。 

 鳥が空から舞い降りて池のほとりに綺麗に着地した。鳥は何やら噂話を睡蓮に持ちかけている様子だった。「おやおや、睡蓮さん。元気ですか? あそこのベンチに座っている人間は一体誰ですか? 新入りですかね? おやっ。あの人間、以前に外界で何回か見たことがある。あの人間は生きている価値のないくらいの腐ったバナナのような人間ですよ。気をつけてくださいね」睡蓮が僕を睨み付けた。それを盗み聞きした小蜘蛛が僕の首筋に噛みついた。外灯が倒れてきて僕の頭を直撃する。木製のベンチが崩れる。空から鳥の大群が現れて僕めがけて唾を吐いた。 

 鳥の密告で直ちに中庭が踵を返した。僕と中庭は対立した。一体僕が何をしたというのだろうと考えても、はっきりした原因が思い浮かばない。鳥は僕の何を知っていたんだろう、何を見たんだろう。僕があいつを救えなかったからか? 僕が知らない女の子と一回だけ寝たのを目撃したからか? 僕がいつまでも始まってもいない恋にうつつをぬかしてしるからか? 僕が彼を止めれなかったからなのか? 鳥はどれの事で、こんなにも沢山の仲間を呼んで僕に報復行為を遂行しているんだろう。僕はにわか雨が止むのを待つみたいに、唾が止むのを待っていた。ぴくりとも動かないで静かに静かに鳥の怒りが静まるのを待っていた。 

 唾が止んだ。代わりに鳥の大群がボトボトと地面に打ち付けられた。可笑しな光景だった。まるで鳥の剥製の量産技術が開発された工場の見学に来ているみたいだった。鳥達は皆、その体から水分を感じさせてはくれなかった。身体中の水分を振り絞って唾を吐き続けた鳥達の頑張りが妙に心を打った。それと同時に酷く悲しくなった。そこまでして僕に仕返しする程、僕は重罪を犯してしまっていたらしい。確かに僕にはそれを否定する事は出来なかったし、かといって肯定する心の余裕も無かった。緑色だった地面が茶色になった。鳥が覆いつくしたからだ。僕はそれらを踏まないように注意しながら病棟に繋がる扉の方に向かった。背後から睡蓮のすすり泣く声が聞こえた。僕は振り向かないで病棟に戻った。

 帰り際に受付で看護婦に精神安定剤を渡された。看護婦は精神科医が僕には少し愛が足りてないのかもしれないと言っていましたよと教えてくれた。

「そうですか」

僕は言った。もうここに来ることはないだろうと思いながら玄関のドアを静かに締めた。かちゃんと音を経ててドアが締まった。そうするともうドア一つ隔てた病院内とそこで起こった事が遥か遠い場所で遥か昔に起こった事のように思えた。それなのに僕の頭には睡蓮のすすり泣く声が鮮明に響いていた。

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