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僕は、今、ベランダに立っている。それともベランダが自分を立たせてくれているだけなのか。着実に橙色に染まり始めた西の空を、ただじっと眺めている。これも眺めさせて頂いているだけなのか。何か大きな力が僕をこの世界に存在させてくれていて、もう直に、僕はその大きな何かに見放される。簡潔に言えばそういうことなんだと思う。もうすぐ目の前の空は黒く塗りつぶされる。何万光年も先にあるものが輝いて見えるくらいに、その周りが途轍もなく暗い黒で塗りつぶされる。僕は、最近この事実に、酷く身震いしてしまう事がある。星が輝いて見える夜に限って災いが起こる。幸せな生活を送っている人がいればその裏には必ず暗く深遠な絶望の淵をよたよた歩いている人がいる。ダイヤモンドは凡人に囲まれて初めて輝くし、その持ち主もまた同様である。上空の風は少し強いらしく、薄い雲は驚くほど速く流れている。一点を見つめていると、とどまることなく、次の雲がやってきて、また後続にバトンを受け渡す。余りの視界の移り変わりの早さに、気を抜くと、自分の方が動いているのかと錯覚してしまう。それはちょうどあれだ。無心で電車に揺られながら、ふと車窓を拝んだ時の感覚に似ている。もちろん皆がそうであるという根拠は何処にもない。ただ少なくとも僕は、たまに外の景色が高速で移り変わってくれているだけなのではないかと思う時がある。そして、駅について、駅さん、迎えに来てくれてありがとうと思った事も、過去に一度だけある。夏の暑さで頭がやられていたという説が濃厚である。

とにかく、そんな風の強い夕暮れ時に、僕は思う事があった。なぜ、この日なのかはわからない。ただ、この日は突然やってきて、僕を薄暗い取り調べ室に放り込んだ。目の前の雲が、僕の思いを乗せてどこか遠く自分には届かないところに連れ去ってくれたら、ここ最近僕の身を脅かしている吐気も少しは収まるのだろうか。何と表現したら適切なのか想像もつかないのだ。だから僕はその無名の症状に吐気と名付ける他無かった。実際に嘔吐した事は一度も無いのだけれど、その吐気と名付けた症状は、ゆっくりと、そして着実に、僕の中からある種の潤いを奪っていったのである。

 ふと部屋の方を向き直り、本棚に目を向けた。並んでいる小説は無秩序に並べられ、積み上げられ、カバーが無いもの、帯までしっかりついているもの、ひどく色褪せたもの、部屋のありとあらゆる書物が、行き場を無くした絶滅危惧種の小動物のようにひっそりとハンターの目から姿を隠すように積まれていた。一番上には、ある作家の上下巻が並ぶようにして積まれていた。上巻下巻で色が違い、どちらかが緑でどちらかが赤だった。埃という埃がその上に積もり、赤色、緑色と相まってホワイトクリスマスさながらの銀世界を想像させた。思えば、もう随分本を読んでいない。最後に読んだ本のあらすじは勿論、タイトルも思い出せない。僕の中では、所詮それ程の位置づけに過ぎない本だったのかもしれない。そしてそのつまらなさに、僕は本を読む事をやめたのかもしれない。それともただ単に活字の羅列に嫌気がさしたのか、好きだった作家の作風が変わってしまったからなのか。当時付き合っていた女の子に、私は本を読む人が嫌いだと言われてやめたような、そんな理不尽な理由だったようにも思えてくる。何もかもが定かではなく、何もかもの輪郭がぼやけて、境界線が分からない。どこまでが実際に僕の身に起こった事なのか、思い出そうとしただけでまた謎の症状が僕の存在意義を脅かして、時々とんでもなく全てが恐ろしくなる事がある。全てが正夢のようで全てが夢で、真実はとっくの昔に独り歩きして何処かに消えてしまっているのかもしれない。

 気がつくと僕は、右手にシャープペン、左手にA4版のノートを持って、窓際にポツンと陣取った学習机の前に腰かけていた。僕の右手一本分の幅しかないその机が、妙に可愛く、懐かしい。僕はそこにノートを広げた。

 どうしてそんな事をしたのか、僕はおおよそのところは想像できた。ただその行動は、確実に僕の管轄外の神経によって伝達された信号によって脳が判断した事だった。この世界ではそれを本能と呼ぶらしい。昔こんな言葉を聞いた事がある。「神の最大の失敗は人に本能を与えた事と、それを制御する能力を与えなかった事だ」もし神が僕達に本能を与えていなかったら、僕は今この机の前にはいないし、そもそも僕もいない。人は本能を失くしても、セックスをするだろうか。本能があったとして、それを制御する能力を得た人間は、セックスをするだろうか。解らない。僕自身、本能を失くした経験も無ければ、制御した経験も無いからだ。もし、僕に本能が無かったら、大学四年間で交際した四人の恋人と、四人の親友に出会っている保証は何処にもない。

 僕が今、ペンを執ったのは他でもない。ただ唐突に、これまでの自分の人生、特に怒涛のように通り過ぎた大学生活を活字にすると、一体どのくらいになるのか、そしてそれにはどのくらいの月日が必要なのかと気になったからというだけだ。全ては本能が独りよがりで出した結論でしかないのだ。そこに僕の意志が介入する隙は、ミツバチの鼻の毛穴程しかなかった。僕の意志は、その隙間から、ほんのささやかな希望を託して、四人の親友と四人の恋人とそこを通り過ぎた僕の生活を文章にしようと決めた。そしてその文章を、自分への最後のプレゼントにしたいと思う。この文章を書き終える頃、自分が何を考え、何を感じているのか、現時点での僕には、全く想像がつかない。もしかすると最後まで書き終える事さえできないかもしれない。もし書き終えたとして、それが納得のいく文章になっている自身はまるでない。読み返す気分にもならないかもしれない。読み返しているうちに、文章を訂正したくなってしまうのが怖い。今から書く文章を訂正するという事は、僕がこれまで生きてきた人生と、それを歩んだ自分自身の人格を、自ら否定する事と同等だからだ。

 この文章を書くに当たり幾つか問題があった。まず、第一に今の僕には現実と虚実との判断が曖昧であるという事だ。この文章を書く事で、それが幾らかでも改善してくれれば、棚から牡丹餅のような気分だ。僕にとって、それが現実か、全くの出鱈目かと言う事は、所詮それ程の問題ではないのだろう。そしてもう一つ、僕は今から書く物語を思い出そうとすればする程、例の症状が頭を覗かせて、それ以上思い出すなと脅迫されているような気分になる。ちょうど胸と腹の間辺りだと思う。僕の身体の中で、どす黒いもやもやとした気体が拡がって、酸素が追い出されて、呼吸困難になってしまうような、そんな苦しみだ。どうすればその気体を体外へ追い出す事が出来るんだろうと本気で考えて、考えた事を本気で後悔する。それの繰り返しだった。自分でも馬鹿らしくなるし、誰にも信じてもらえないかもしれないが、その黒い気体は、もうすぐ僕の身体を支配し、その結果、僕は大きな力に見放される。だからその前に、僕の本能は、僕に文章を書いてみろと言う。だから書くのだ。ただそれだけの事なんだろう。


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