第四話 最悪の出会い
うなずいた男に促され、光は暗い夜道を歩き始めた。
「私は上條誠一郎、本郷の大学で工学を教えている。君は?」
「早瀬光です。高校二年生です」
「失礼かもしれないが、高校の二年生には見えないね」
光は力なく笑った。
「はい、それ朝も言われました。そんなに子供みたいでしょうか」
「そういう意味ではないが、何かが違うのかもしれない、あとで詳しく聞こう」
ふとと思い出し、光は聞いた。
「今は何年何月何日ですか?」
子供みたいだ、と思ったが仕方がない。
「昭和二十年一月九日だ。西暦でいうと1945年、だね」
「1945年、昭和二十年」
光はまたしても、意識が遠のきそうになった。
「ここだ」
数分も歩くと、暗闇の中に小さいが瀟洒な洋館が忽然と現れた。
白い壁は、周囲の古びた日本家屋の中でひときわ目立っていた。
誠一郎が小さな門扉を開け、光を連れて玄関の扉を開けると、少し驚いた顔の中年女性が出迎えた。
年の頃は三十代半ば。
若い頃は相当な美人と評判だったであろう、品のある女性だった。
誠一郎はコートを脱ぎ、女性に手渡した。
「早瀬光君だ。
事前に話しておかなくてすまない。
今日からうちで世話することになった」
女性はコートを受け取った。
「まぁ、それは急な話ですね」
「詳しい事情は後で話をするから、空いている方の女中部屋を準備してくれないか。
あぁ、その前に何か食事を」
誠一郎は光を向いて女性を紹介する。
「光君、妻の雪だ」
女性はにっこりと笑った。
「上條雪です。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします、あ、あの、水をいただけませんか?」
光は空腹よりも、まず喉の渇きに耐えられなかった。
ダイニングに案内された光は、ガラス製のピッチャーに注がれた水をコップに貰って飲み干した。
しばらくして出されたお茶漬けは、光の知っているインスタントのものとは違い、焼き魚の乗った麦飯に出汁をかけたようなものだった。
丼を一気に平らげた光の体に、久々の温かい食事がじんわりと染みわたった。
雪は驚いた表情で言った。
「多めに入れたつもりなのですが、もう少しならありますよ」
「く、ください!」
光は目を見開いて返事をした。
「朝から何も食べていなかったそうだ」
誠一郎が笑いながら言った。
光がおかわりを食べ終わると、誠一郎は光に言った。
「ところで光君、あのスマホを見せてもらえないか?」
雪が空いた丼を盆に載せ、キッチンに戻って行った。
「はい」
光はポケットを探り、スマホを取り出すとパスコードを伝えて誠一郎に渡した。
「今晩少し借りてもいいだろうか?もちろん明日の朝には返す」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「メッセンジャーと連絡先は見ないでもらえせんか?見られて困るわけじゃないんですけど、その、プライベートなことだから、ちょっと恥ずかしいので」
誠一郎は笑って言った。
「わかった、約束しよう。
これと、これだろうか?」
誠一郎は受け取ったスマホのロックを解除し、画面のアイコンを指差した。
「え、は、はい」
なんの説明もなしにスマホを操作する誠一郎に、今度は光が驚く番だった。
「この画面は圧力を検知しているのだろうか」
「すみません、俺知らないんです」
光はスマホがどういう原理で動いているか、今まで考えたこともなかったが、なぜか申し訳ない気持ちになった。
「こちらへどうぞ」
会話が終わると、光は雪に案内されてダイニングを出た。
誠一郎はスマホを受け取るとすぐにいなくなっていた。
ダイニングの隣にあるキッチンの左手に、ドアが二つ並んでいる。
雪は手前側の部屋を開けると電気を付けた。
ベッドと小さな机と椅子がある三畳ほどの小部屋だった。
小さな窓があり、外が見えるようになっていたが、今は厚手のカーテンが掛かっていた。
「右隣のお部屋は使っているので間違えないでくださいね、鍵はかけてありますけれど」
「はい」
「それとお手洗いは廊下に出て突き当たりを右にあります」
「わかりました」
光は立ったまま、少し背筋を伸ばして返事をした。
「お布団と枕とシーツは先週干したばかりです。
寝巻きはここに。主人の古いものですけれど」
そう言うと雪は、ベッドの上に置かれた畳んだ衣類を指し示した。
光の視線がそちらへ向かうと、彼女は光の全身を上から下まで眺めて、ふっと表情を和らげた。
「大きさは大丈夫そうね。
それとお水はここに置いてありますので使ってください。
細かいことは明日お話ししましょう」
「ありがとうございます」
光は礼を言った。
身体の芯に疲れが滲んでいるのが、自分でもわかる。
「だいぶお疲れの様子。
明日の朝ご飯は起こした方が良いのかしら」
「お願いします!」
「わかりました。
では、おやすみなさい」
雪は優しく微笑むと、ゆっくりと扉の方へ向かう。
「はい、あの、いろいろありがとうございます」
光は慌てて頭を下げ、雪はまた微笑むと部屋を出て、扉を閉めた。
光は大きなため息、いや、安堵の息をつくと、とりあえずベッドに腰掛けた。
そしてベッドの上に置かれた浴衣を眺め、手早く着替えてベッドに横になった。
部屋の中は寒かったが、布団に潜ってしばらくすると暖かくなり、心も落ち着いてくるようだった。
とんでもない一日だった。
天井を見ながら、光はそう思った。
新学期一日目から遅刻しそうになり、走って不発弾の爆発に巻き込まれて、兵士の上に落ちて、飲まず食わずで、昭和二十年の東京を歩き回って、偶然出会った家でお世話になって、食事まで貰い……。
ぐるぐると思考を巡らそうとした。
が、数秒後には疲れ果てた光は眠りに落ちていた。
夜中に、光は目を覚まし、見慣れない天井に目を泳がせた。
「夢じゃなかった」
厚手のカーテンがかかっているせいで外の明るさは見えなかった。
だが静寂に包まれたこの雰囲気はまだ深夜だろうと光は思った。
「トイレトイレ」
光はしばらくもぞもぞし、誰も起こさないよう、寒い部屋を静かに出た。
寝る前に聞いた場所を思い出し、廊下の突き当たりにあるドアを開けると……先客がいた。
「え!?」
「あ?!」
光の寝ぼけた頭が一瞬で冴えきった。
目の前には洋式トイレに腰掛けたショートヘアの少女が、半纏を着て座っていた。
お互いの目が合い、そのまま視線を外せない。
「!!!??」
少女は目をまん丸にして驚愕の表情だが、それは光も同じことだった。
「ギャー!!!!!」
深夜と言ってもいい、早朝の浅草に絶叫が響き渡った。