第一話 燃える橋
昭和二十年三月九日の深夜、東京の下町は溶鉱炉の中のように激しく燃え上がり、立ち昇る巨大な煙はその炎を反射して赤黒く光っていた。
隅田川にかかる言問橋の上は、燃え盛る火から逃れようと風上の浅草側から渡ってきた人や荷物、大八車や自転車でいっぱいだった。
B-29からは焼夷弾が次々と投下され、対岸の向島にまで容赦なく降り注ぐ。
春の強風が炎を煽り、橋の反対側からも火が迫る中、橋を渡る人々はもはや進むことも戻ることもできず、完全に立ち往生していた。
街全体が燃え上がっていたせいで、夜の橋の上は昼間のように明るかった。
「なんで私がこんな目に……」
怒号や叫び声の飛び交うその群衆の中に一人、上條桜は絶望の面持ちで真っ赤な空を眺めてつぶやいた。
桜の着ていた白のセーラー服と下に履いた紺のもんぺは、北風に乗って舞い散る大きな火の粉に当たり、あちこち焦げて黒い穴が空いていた。
街を守る警防団の誘導に促され、橋を渡り始めてからだいぶ時間が経っていた。
しかし、あまりの人の多さに、普段なら数分で渡れる言問橋の中ほどにもたどり着いていなかった。
橋の北にある隅田公園の浅草側に設置されていた数基のサーチライトの一基が南の空を差すと、他のサーチライトも次々と同じ方向を向きだした。
光の先にはギラギラと輝く銀色の巨大な爆撃機、B-29が低空を北に向かって突き進んで来ていた。
B-29は機首の下に備えられた二丁の重機関銃を発砲した。
放たれた無数の銃弾は桜の目の前の人々に吸い込まれ、そのままバリバリと物凄い音を上げて橋の下のサーチライトのガラスを叩き割っていった。
ひどい光景に足が崩れ、気絶しかけた桜が見上げた空には、胴体の扉を開き、満載した焼夷弾を見せつけるようにB-29が飛び去ろうとしていた。
「神様、仏様、ご先祖様、誰でもいいから助けてください」
北西から吹いてくる強風と炎は街を焼き尽くし、風下にある隅田公園の木々は猛烈な火勢にあぶられていた。
ついには地面の草や避難した人や荷物にも次々と火がつき始める。
逃げ場のない人々は冷たい隅田川に逃れていくが、炎に追い立てられた風上の人たちがさらに押し寄せ、深みへと押しやられていった。
橋の下でガソリンが爆発し、桜は下からの衝撃を受けると、再び気が遠くなっていった。
そして押し寄せる人波に潰されそうになり、背後から迫ってくる燃え盛る炎の轟音と、人々の絶叫を聞き、いよいよお終いだと思った。
桜は叫んだ。
「神様!私、悪い子でした。
ちょっといいな、くらいの人と付き合って、勉強も仕事も手を抜いて、友達にも迷惑かけてばっかり……。
もしも、もしもやり直せるなら……今度こそ、ちゃんと生きます!」
そのとき桜の頭に、人間の声とは思えない誰かの声が聞こえた。
【いいだろう】
「えぇっ!神様?助けてくれるの!?」
その時、突風に乗って浅草から吹き込んだ炎が、橋の上の人と荷物を一気に覆い尽くし、全てのものが燃え上がった。
全体が炎上した言問橋は浅草と向島を炎で繋いだ。
桜は炎に包まれながら叫んだ。
「神様の嘘つきー!」