報酬はわたしの消えた後で
王立学園の卒業パーティ。
豪奢な広間に響く弦楽の調べと、人々の祝福の声。天蓋の下、壇上に並ぶのは王太子エリオット・アステリオと、彼の隣でかすかに震えるように立つ男爵令嬢リリィ・フォルモーザ。
そしてその正面、紅紫のドレスに身を包んだ少女が一人。
「レティア・ストリアーテ。君との婚約を、ここに破棄する。そして──この場をもって、男爵令嬢リリィ・フォルモーザとの新たな婚約を宣言しよう」
王太子の明確な声が響いた。次の瞬間、場の空気が揺れる。
会場に詰めかけた貴族の子女たちのあいだに、一斉にざわめきが走った。
「やっぱり、リリィ様だったのね……」
「レティアがあんな態度を取らなければ、こんなことには……」
「当然よ。あれだけ執着して、彼女を追い詰めていたんだもの」
誰もが頷いていた。
レティア・ストリアーテが、王太子の寵愛を受けたリリィを妬み、嫉妬に任せて陰湿な嫌がらせを繰り返していたという“事実”を、彼らは皆、当然のように覚えている。
リリィは目を伏せ、肩をわずかに震わせていた。その怯えは、演技ではなかった。彼女の中には確かに、悪役令嬢から虐げられていた記憶が刻まれていた。
──壇上のレティアは、しかし動じる気配を見せなかった。
瞳は静かに前を見据え、毅然とした態度で一歩進み出る。
「──慎んで、婚約破棄お受けいたしますわ」
透き通った声が広間に響く。
「それでは皆様、ごきげんよう」
優雅な一礼。
まるで演目の幕を下ろすような所作に、会場の空気が一瞬だけ凍りつく。
しかし、やがて大きな拍手と喝采が湧き起こった。
「おお、なんという劇的な展開……!」
「リリィ様と王太子殿下、真実の愛ですね」
「これが勧善懲悪……感動したわ……!」
名のある貴族子女たちが、涙をぬぐいながら祝福を叫ぶ。
もはや誰も“レティア”の名を口にしない。
断罪は完遂し、物語は完結した。悪役は退場し、祝宴は最高潮を迎えていた。
レティアは静かに踵を返し、まっすぐに会場を後にする。
誰もそれを引き留めない。
その姿は、完成された舞台の中で、終幕を迎えた登場人物そのものだった。
学園を抜け、門前に辿り着いたとき。
彼女はふと立ち止まり、誰もいない夜の静けさの中で、片手をそっと持ち上げた。
──パチン。
軽やかな指の音が、夜の空気を裂いた。
直後、広間の空気が一瞬、硬直する。
音楽も歓声も止まり、時間がわずかに歪むような感覚が走った。
だが、それはほんの刹那の出来事。
すぐに笑い声と拍手が戻り、祝宴は何事もなかったかのように再び動き出す。
王太子とリリィの婚約を祝う歓声。断罪劇の余韻に浸る貴族たち。
ただひとつ、“誰が断罪されたのか”という肝心の記憶だけが、まるで霞がかったように曖昧になっていた。だが、そんな不自然ささえ、まるで最初からそうだったかのように、人々の記憶に馴染んでいった。
あまりにも自然に、まるで最初から“そうであった”かのように。
──少女は、ひとつ息を吐いて、フードを目深にかぶり直す。
この夜、“レティア・ストリアーテ”という名の悪役令嬢は消えた。
その役を演じた少女──アクヤは、誰にも知られることなく、静かに次の舞台へと歩き出す。
♢♢♢
日が傾きかけた昼下がり。
港町の片隅、古びた路地の一角に佇む、ひと気のない旧書店。
かつて本棚で埋め尽くされていた空間も、今は棚板が取り外され、物置同然となっている。
扉が、きぃ、と音を立てて開いた。
中に足を踏み入れたのは、一見して平凡な青年──だが、その風貌をよくよく見れば、王太子エリオット・アステリオその人だった。
目立たぬ旅人風の装いに身を包み、深く帽子をかぶっている。王宮の誰にも気づかれぬよう、身分を隠しての行動であることは明らかだった。
店内の奥には、ひとつの影が静かに立っていた。
黒衣に身を包み、フードを深くかぶったまま、姿勢を崩すこともない。その人物は、訪問者が誰であるかなど、もはやどうでもいいというように、微動だにせずそこにいた。
エリオットは迷うことなく近づき、懐から小さな革袋を取り出して差し出す。
「一連の演目、見事だった。……おかげで正式にリリィ嬢との婚約が成立した。これはその報酬だ。多少、色はつけてある」
それでも影は沈黙を保っていた。返礼も感想も、そこにはない。
代わりに、ほんのわずかに首をかしげ、奥にある裏口への視線を示す。
「……ああ、なるほど。もう立ち話をする場でもない、か」
王太子は苦笑しながらも頷く。
この影が仲介者であるとも、仕事人本人であるとも、彼自身は把握していない。ただ、希望した“筋書き通りの婚約劇”が成立した──それだけで十分だった。
「……また必要があれば、頼らせてもらうかもしれない」
そう言い残し、エリオットは裏口の扉を押し開け、昼の光の向こうへと姿を消した。
その背が見えなくなった瞬間、書店に再び静寂が訪れる。
(……また、ね)
黒衣の人物は心の中でそっと呟き、指先を軽く鳴らした。
──パチン。
空気がわずかに震える。それはほんの一瞬の違和感。
誰もいない店内に、風の通り道が変わったような、そんな感覚だけが残る。
やがて、黒いフードが静かに取り払われた。
現れたのは、昨日“断罪された”はずの悪役令嬢──否、その役を演じていた少女、アクヤ。
その瞳に揺れるのは感傷でも満足でもなく、ただ一つの淡々とした仕事終わりの安堵。
「……うん、相場としては悪くないわね」
革袋の中で金貨が軽やかに揺れる音を確認し、アクヤはくるりと背を向けた。
本来の目的はすでに果たした。今や“レティア・ストリアーテ”という人物はこの世界のどこにも存在していない。
観客たちの記憶からは丁寧に抜き取られ、物語は予定調和のハッピーエンドとして定着している。
演目は完遂されたのだ。
──ただひとつ、その裏側にいた少女の名前だけが、どこにも記されていないということを除いて。
アクヤはフードをかぶり直し、昼の光に背を向けて裏口へと消えていく。
誰にも知られず、誰にも感謝されることのないまま。
彼女の物語は、常に舞台の“幕が下りた後”にだけ存在している。
♢♢♢
古びた建物の軋む音が、どこか懐かしい。
夕暮れの陽が傾き、港町の外れに佇む小さな孤児院の壁を朱に染めていた。
錆びた門を軋ませて入ってきたのは、フードを深く被ったひとりの少女。
だがその足取りは、町での裏取引を終えた影法師のものではなく、家路をたどる姉のそれだった。
「──アクヤお姉ちゃんだ!」
玄関先で遊んでいた小さな子どもたちが、いの一番に気づいて駆け寄る。
フードを脱いだアクヤの金髪が夕日を受けてふわりと光り、彼女は思わず目を細めた。
「ただいま。ほら、あんまり大声出すと先生に怒られるわよ?」
そう言いながらも、腰を落として子どもたちの頭を順に撫でていく。
どの子の手も服も、煤で黒ずんでいた。
けれど、その煤けた頬に浮かぶ笑顔は、どんな光にも勝る輝きを放っていた。
「これ、今日のお土産。……贅沢だけど、たまにはいいでしょう?」
アクヤは袋から紙包みをいくつか取り出した。
甘く香る菓子パンと、ほのかに温もりを残す焼き菓子。
「うわあ、ほんとに?」
「お姉ちゃん、すごい!」
子どもたちが歓声を上げて飛び跳ねる姿に、アクヤはふっと息を漏らして笑う。
──昨日、断罪された悪役令嬢の姿は、どこにもいない。
「アクヤちゃん、帰ってたのね」
玄関から現れたのは、孤児院の世話役である中年の女性。
その顔に驚きや疑念はない。ただ日常の延長として、彼女はアクヤを迎え入れる。
「今晩は煮込みスープにするつもりだったけど、パンがあるなら一緒に出すわね」
「ありがとうございます。あとで、ちゃんと手伝いますから」
アクヤはそう言って頭を下げると、壁際に置かれた藤椅子に腰を下ろした。
子どもたちはお菓子を持って奥の部屋へ駆けていき、次第に廊下が静かになる。
ふぅ、と小さく息を吐いて、アクヤは鞄の中から一冊のノートを取り出した。
革表紙のそれは、依頼と役柄を記録するための“台本”とも言うべきもの。
ページを開き、今日の日付の隣にさらりと数行書き込む。
演目No.014
依頼名:王太子婚約劇(仮称)
依頼主:匿名(仲介経由)
役柄:悪役令嬢レティア・ストリアーテ
改変範囲:会場全域(王太子含む)
定着リスク:低(王太子のみ曖昧処置)
観客反応:想定通り、祝賀の空気
報酬:金貨15枚+α(再契約可能性なし)
そして、一行だけ、ぽつりと書き添える。
──感情は消え去らない。
それが舞台上の一場面であったとしても、刻まれた心の揺れは現実だ。
あの震えに込められた“恐怖”は、演技ではない。
記憶という形で与えられたとしても、感情はその人の中で生きてしまう──それがこの能力の、もっとも残酷な部分かもしれない。
ノートを閉じると、アクヤは静かに天井を見上げた。
──あの日のことを、私はよく覚えていない。
病か事故か、気づけば何日も眠っていた。目覚めたとき、心の奥で誰かがつぶやいていた。
「……話が違う……私には無理……こんな暮らし……」
それきり“内なる彼女”の声は聞こえなくなった。
気まぐれな女神からの贈り物を忘れていったのだろうか。
“内なる彼女“がいなくなっても、力だけは残された。
今のアクヤには、その頃の記憶も曖昧なまま。
けれど力は確かにそこにあり、彼女はそれを“仕事”に変えて生きている。
誰にも知られず、誰にも見抜かれることなく。
今日もまた、新たな“演目”のために──仮面を外した素顔のままで、次を準備していた。
♢♢♢
深夜、孤児院の灯りがすべて落ち、町全体が静寂に包まれたころ。
アクヤはまだ眠っていなかった。
薄明かりの差し込む自室の隅、机に置いたノートの上に、彼女は静かにペンを走らせていた。
今夜書いているのは、記録ではない。
新たな依頼を受けるかどうかを見極めるための、初期設計案だった。
机の上には、一枚の手紙が置かれている。封筒はない。
近日、侯爵家と子爵家による非公式の茶会が開かれる。
招かれるのは、ある家の令嬢とその婚約者。
婚約者有責による破談を希望。
感情の衝突が自然に見える構図を要す。
希望する場合は、翌々日までに連絡を。
署名はない。差出人も不明。
だが、書き方からして、いつもの仲介を通した依頼であることは間違いなかった。
「“感情の衝突”、ね。……要するに、婚約者の浮気相手でも演じろってことかしら」
アクヤは肩をすくめながら、紙の角を指先で弾いた。
こういう依頼は、往々にして精神的に削られる。
だが、その分──報酬も悪くない。
「今度の仮面は、少し“みすぼらしい”くらいがいいかもね」
呟きながら、彼女は道具箱を開く。
中には、これまで演じてきた“役”の痕跡がいくつも並んでいた。指輪、髪飾り、香水瓶……。
そして、ラベルの剥がれかけた仮面がひとつ。
「これは、まだ出番じゃないわね。次は別の顔」
アクヤは仮面をそっと脇へ置くと、新たなキャラクター像のメモをまとめ始めた。
案件候補:茶会劇 “涙の仮面”
配役案:秘匿されし愛人、気の強い没落貴族の娘
導入方法:手違いで茶会に招かれた“旧縁”として登場
目的:対立の決定打、破談成立の後押し
報酬:未定(最低保証あり)
「この役も……上出来に演じてみせるわ」
灯りのもと、アクヤの瞳がわずかに細められる。
感傷も、名誉も、もう必要ない。
必要なのは──“演目としての完成度”と“無事に戻るための策”だけ。
外は静かな夜。港町の灯りが、かすかに窓の向こうで揺れていた。
やがて、アクヤは机を離れ、ベッドに身を沈めた。
「……次の舞台も、うまく仕立てなくちゃね」
独り言のようなその声は、やがて夜の静けさに吸い込まれていった。
誰にも気づかれず、誰にも知られず。
今日もまた、悪役を請け負う少女の、次なる“幕”が静かに上がろうとしていた。
──了
レティア・ストリアーテの由来はブレティア・ストリアタ(紫蘭)
花言葉は、薄れゆく愛、不吉な予感。
能力は、自身に関することを相手の記憶に差し込み、抜き取る能力。もともと、転生者が異世界転生のボーナスとして得た能力だったが、最下層の極貧生活に耐えられず全力ドロップアウト。
その能力だけが、アクヤに残った。
もしかしたら、アクヤは物語のヒロインだったのかもしれない。しかし、それはイフの話。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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