ショコラとサリー
ペットを亡くされた方なら一度は聞いたことのある「虹の橋」をテーマにした小説です。今のペットが夢の中で亡くなった先代ペットに会いに行く話です。
場所は都内のマンションの一室、表札には「松澤」と書かれている。一匹の雄犬が家で留守番をしている。犬の名は「サリー」といい、犬種はヨークシャーテリアである。背中は黒い毛で覆われており、顔や足は茶色い毛で覆われている。ヨークシャーテリアは生後九ヶ月で成犬だが、サリーは生まれてから八ヶ月程経っている。サリーにはいわゆる噛み癖があり、家族の手を噛んだりズボンの裾を噛んで引っ張る癖があった。家族はサリーのこの噛み癖に手を焼いていた。この家にはかつてもう一匹、雄犬が飼われていた。名を「ショコラ」という。ショコラは全身真っ黒のトイプードルであった。ショコラは一年程前に亡くなった。十六歳で往生したが、これはトイプードルの平均寿命である。
サリーは家族の中で「マミー」を最も愛していた。もちろん、「ダディ」や「ブロ」、「シス」のことも好きだったが、マミーが何かとよく面倒を見てくれるので、特別親しみを持っていた。サリーは家族のことを右のように呼んでいたが、サリー自身もなぜ自分がそんな呼び方をしているのか分からなかった。このときサリーは知らなかったが、ヨークシャーテリア(ヨーキー)は元々英国のヨークシャー地方で生まれたものであるから、サリーが家族を呼ぶときは自然と英語になってしまうのである。
では、本題に入ろう。その日は人間の世界でいうところの「お彼岸」という、先祖を供養するためにお墓参りをする日であった。サリーは生まれてから一度も誰かの死に出会ったことがなく、「先祖」が何を意味するか分からなかった。サリーはこの日、いつものようにマミーからボーロ(サリーはほんのりチーズの風味がするこの丸い物体をこよなく愛していた)をもらい、その見返りとして渋々ケージの中に入った。マミーは「じゃあ、サリーちゃん。私たちオハカマイリ行って来るから、いい子でお留守番しててね〜」と言って、そのまま他の三人と一緒に家を出て行った。サリーに限らず、犬は人間の言葉を少しなら理解できるが、人間の言葉を話すことは全く出来ない。サリーはマミーの言葉の趣旨は理解したが、「オハカマイリ」という言葉を理解できなかった。しかし、家族がサリーよりもその「オハカマイリ」を優先させたということは理解した。サリーは一人になって、声を出して悪態をつき始めた。もっとも、傍目からはただ唸っているようにしか聞こえないのであるが。
くっそ〜!こんなに可愛い僕を差し置いてそのオハ…何とかに行くなんて、許せないぞ!それに、いつもいつも僕をこんなに狭いケージに入れやがって!僕はキゾクなんだぞ!偉いんだぞ!でも、キゾクって何だっけ…?何故か言葉は知ってるんだけど…意味は知らないんだよな…。
ここでも、サリーの潜在意識にはヨークシャーテリアが貴族の愛玩犬として飼われていたという歴史が刻み込まれていた。サリーの頭の中には「aristocratic dignty」という言葉が常に存在したが、それが何なのかは分からなかった。しかし、サリーは家族以外の人に見られるときは自然と胸を張って堂々とした態度をとってしまう習性があった。「貴族の尊厳」という言葉は分からなくても、体は自然に動いてしまうのである。
サリーは悪態をついた後、ケージに入れられたときは常にそうするように、ドームの中に入った。そして、サリーはうたた寝を始めた。
今日はどんな夢が見られるかな…。一昨日見た「ジャーキー大食い選手権」は楽しかったな〜。決勝戦で柴犬に後ろ足で砂をかけられて大食いを妨害されたのは癪に触ったけど、僕はそんなことに構わずに、最近生え変わったこの最高にクールな犬歯でジャーキーをちぎっては飲み込み、ちぎっては飲み込みって感じで、ダブルスコアで勝利したんだったっけ。それに比べて、昨日の夢で見たカラオケ大会は最悪だったな〜。僕は生まれたばっかりだから『犬のおまわりさん』しか知らないのに、他のワンさんはMan with a missionだとか、『I wanna be your slave』だとか、知らないバンドの曲ばっか歌うんだもんな〜。知らないよ!コール&レスポンスなんて!何が「Say Awoo!」だよ!こちとら遠吠え未履修だっての!あと「日本犬はPut your hands up!」って言われたときに手を挙げたら隣のワンさんから「お前違うだろ!」って吠えられたんだけど⁉︎僕は日本犬じゃないの?もう!色々考えてたらイライラしてきた!こんな時はさっさと寝るに限る!自慢じゃないけど、僕が寝る姿勢に入った時の入眠スピードといったら、そりゃあ新幹線顔負けの…
気づいたらサリーは寝ていた。読者諸君はサリーがやけに色々知っていることにお気づきのことだろう。それは何故かといえば、サリーは家族と一緒にテレビを見て、この世界のことを学んでいたからである。それならなぜ、「お墓参り」のことは知らないのか。それは冒頭でも話した通り、サリーには「先祖」という概念がないからである。「先祖」が分からないのだから、「お墓参り」のことも何のことだか分からない。しかし、サリーは夢の中で不思議な体験をした。ここから先はサリーが夢の中で体験した出来事である。
目を覚ましたサリーの目に飛び込んできたのは限りなく広がる青空と辺りに浮かぶ白い雲であった。サリーは激しく動揺した。
「え、ここどこ⁉︎僕はさっきまで家の中にいたはずなのに!」
サリーは辺りを見回した。やはり青空と白い雲以外に何もない。サリーはガックリと肩を落としてうなだれた。そのとき、サリーは自分がどんなものの上に乗っているかに気づいた。それは虹だった。赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫の七色の光が縞々模様で並んでいる。横幅は2メートル程だろうか。虹の端には白い柵が取り付けられている。どうやら、サリーは空に架かる虹の上にいるらしいのだった。
「これって…雨上がりの日に散歩してるときに見るニジってやつ⁉︎マミーとかブロが見つけると『サリー!あれ見て!ニジだよ!』ってはしゃいでたあれだよね⁉︎」
サリーは虹が何なのか分からなかったが、散歩しているときに見たあの綺麗な虹の上にいると思うと嬉しくて自然と尻尾が左右に振れた。しかし、サリーはここからどう降りればよいか分からないことに気づき、すぐに尻尾は下がってしまった。
「うう…なんでニジの上なんかに来ちゃったの?お家に帰りたいよう…」
サリーは怖くなり、動けなくなってしまった。そのとき、頭上から轟音が聞こえてきた。あまりの音の大きさにサリーは腹這いになって伏せの姿勢をとった。そして、耳をビタッと折り畳み、前足で耳を塞いで音が耳に入ってこないようにした。
「うう…!うるさい!何なの、この音⁉︎」
空を見上げると鳥のように翼を広げた白い大きな物体がサリーの頭上を通り過ぎていた。鳥のように翼を広げてはいるが、その翼をはためかせている様子は全くない。サリーはこの物体の正体が分からず、自分に危害を加えるものかもしれないと思った。
「ここにいたら危ない目に遭うかも…。家に帰るためにも、ここから逃げなきゃ!」
サリーは起き上がり、勇気を持って虹の上を走り出した。頭上に響く轟音を我慢しながら走っているうちに、その大きな飛行物体はどこかへ行ってしまった。走っているうちに虹はなだらかな下り坂になっていった。サリーは転ばないように速度を落として、走り続けた。やがて、前方に緑の草原が見えてきた。その草原は水平線まで広がっていた。どうやらサリーは全くの別世界に向かっているようだった。しかし、いつまでも虹の上に留まっているわけにもいかないので、サリーは草原を目指して走り続けた。走り続けているうちに、サリーは草原にたくさんの黒い点があることに気づいた。そして、その黒い点はお互いに近づいたり、離れたりを繰り返していた。もう少し近づくと、それが多種多様な犬たちであることが分かった。サリーは安堵した。
「よかった!僕一人だけじゃなかったんだ!あそこの犬たちに僕の家がどこにあるか聞いてみよう!」
サリーは虹の上を走り続け、とうとう虹と草原が接する場所にまで辿り着いた。走り終わると、サリーは舌を出して、はあはあと息切れしてしまった。喉に強い渇きを覚え、水はどこにあるのかと、辺りを見回した。すると、サリーは左斜め前に小さな川が流れているのを見つけた。サリーは川に駆け寄り、川の水面に舌をつけて水を飲み始めた。水はとても綺麗で、ひんやり冷たかった。
「美味しい!僕の家の水道水の十倍美味しいぞ!」
そのとき、サリーの右後ろから雄犬の声がした。
「やあ、長旅ご苦労だったね。キミのことは家族から聞いてはいたけど、会うのはこれが初めてだ」
サリーが振り返ると、そこには四歳くらいに見える黒いトイプードルがいた。髪型はソフトモヒカンであり、細長いマズルと合わさって爽やかな印象を与えた。サリーは初めて会う犬とどう接していいか分からず、まごついてしまった。
「ははっ、緊張してるみたいだね。挨拶のやり方は習ったことないのかい?」
「そ、そうなんだ…。僕…犬見知りで…」
「それじゃあ、散歩のときに他の犬に失礼じゃないか。いいかい、挨拶はこうするんだ」
トイプードルはそう言ってサリーのお尻の匂いを嗅いだ。サリーも真似してそのトイプードルのお尻の匂いを嗅いだ。そのときサリーはそのトイプードルの匂いの中に自分の家の匂いが微かに含まれていることに気づいた。この犬は僕の家に来たことがあるのだろうか。
「どうだい、簡単だろ?これからは他の犬に会ったら、ちゃんと挨拶するんだ」
「う、うん…ありがとう…。あの…一つ聞いていいかな?」
「ああ、何でも聞いてくれて構わない」
「君は…僕の家に来たことがあるの?」
そのときトイプードルは急に笑い始め、草の上に寝転んでしまった。面白くて仕方がないとばかりに。笑いが落ち着いてから、トイプードルは起き上がった。
「おいおい、僕の顔くらい写真で見たことないのか?それとも、家に僕の写真は飾ってないとでも?もしそうだとしたら、かなりショックだ」
それを聞いてサリーは自分の家の電話機の横に黒いトイプードルの写真が飾られていたことを思い出した。そして、目の前にいるトイプードルはまさにその写真のトイプードルにそっくりだった。まさか…いや、そんなはずはない。家族からはこの犬は死んだと聞かされたはずだ。でも…そうとしか考えられない。サリーは意を決して、こう質問した。
「あの…犬違いだったらごめんなさい。あなたは…もしかして…僕の先輩のショコラさんですか?」
「お、気づいたね。ということは、僕の心配は杞憂だったようだ。いかにも、僕が松澤家の次男、ショコラだ」
「本当ですか⁉︎あ…僕、サリーといいます。あなたの義理の弟です」
「そんなことは知ってる。だからキミを呼んだんだ」
「呼んだ…?っていうか、ここどこなんですか⁉︎」
「ああ、順番に説明しよう。ここは死んだペットが飼い主を待つ場所だ。飼い主が死ぬとペットはその飼い主と一緒に天国へ行くんだ。犬の他に猫とかハムスターとかもいるけど、種類ごとにエリアは分けられてる」
「そ、そうなんですか…って、それじゃ僕死んじゃったってこと⁉︎僕まだ成犬すらしてないのに⁉︎」
「まあまあ、落ち着けって。大丈夫、キミはまだ死んでない」
「よかった…。で、でも…それなら僕は何でここにいるの?」
「実はペット界では、先代のペットが次に家に来たペットに引き継ぎをする決まりになってるんだ。先代が生きているうちに引き継ぎが出来なかった場合は、当代のペットをこの世界に呼び寄せて引き継ぎをすることになってる。今日来てもらったのは僕からキミに引き継ぎをするためなのさ」
「そうだったんですか…。それで…引き継ぎっていうのは…?」
「いやぁ、それが特にないんだよね」
「ないんですか⁉︎」
「全くないってわけじゃないけど、呼び寄せてまで言わなきゃいけないことかって言われると…」
「じゃあ、何で呼び寄せたんですか⁉︎」
「次に来た奴がどんな奴なのか、気になってね」
「そんなことで呼ばないでくださいよ!最初めっちゃ怖かったんですから!」
「それは悪かった、謝るよ。まあ、せっかくこっちに来たんだし、観光でもしようじゃないか。こっちに来てくれ、案内するよ」
ショコラはそう言って他の犬たちがいる方へ歩き始めた。サリーもショコラに付いて歩いて行った。最初に連れて来られたのは雲の上を模したトランポリン場だった。広さはそこそこあり、トランポリンの感触はフワフワしているが確かな弾力がある。サリーはトランポリン場に入り、一回ジャンプしてみた。自分の身体がポヨンポヨンと跳ねる。サリーは楽しくなり、横に回転したり宙返りしたりしながら飛び跳ねた。周りにもサリーと同じように飛び跳ねる犬が五匹ほどいた。サリーはおかしい、と思った。ここは死んだ犬が飼い主を待つ場所のはずなのに、周りの犬はみんな若々しい。疑問に思い、トランポリンから降りてショコラに尋ねてみた。
「ああ、僕も最初は不思議だったが、どうやらここでは犬生で一番自分が楽しかったときの状態になるみたいなんだ。僕は四歳が一番楽しかったみたいだね。僕はあまり四歳の頃を覚えてないけど、フレールとスールが僕とたくさん遊んでくれていたのがその頃だったんじゃないかな」
「フレール?スール?それって何ですか?」
「ああ、失礼。確か日本語だとフレールはお兄ちゃん、スールはお姉ちゃんだったね。プードルの先祖はフランス犬だからたまにフランス語が出てしまうんだよ」
「センゾって何ですか?」
「キミのお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんのことを言うんだ。さらにもっと上もいるんだぞ」
「もっと上…?」
「そう。僕たちのご先祖様は何百年も前から続いているんだ。僕のご先祖様はフランス生まれで、キミのご先祖様はイギリス生まれだね」
「そうだったんだ…。じゃあ、僕がお母さんのことをマミーって呼んだり、お父さんのことをダディって呼ぶのは…」
「キミにイギリス犬の血が流れているからさ」
「僕のご先祖様はイギリス犬…?そのイギリスっていうのはどこにあるんですか?」
「僕も詳しくは分からない。でも、日本から遠く離れたヨーロッパっていうところにあるらしい。もっと知りたいならここの長老に会いに行くといい」
「長老?」
「うん。長老とはいっても、年寄りってわけじゃない。ただ、ここで飼い主を待っている時間が一番長い犬のことを僕らは長老と呼んでるんだ。今の長老はここに来てから五十年間飼い主が来るのを待っている」
「五十年⁉︎」
「キミはまだ生まれてから一年も経ってないから想像できないだろう」
「はい…。果てしなく長いことだけは分かります…」
「まあ、飼い主が長生きしてるってことは良いことには違いないけど、再会の日を待ち望む僕らとしちゃ複雑な気持ちになるね」
「僕、そんなに待てるかな…」
「まあ、一人ぼっちで待つわけじゃないし、ここでみんなと遊んでれば五十年なんてあっという間に過ぎるさ。まあ、ひとまず会いに行こう」
そう言ってショコラはサリーを連れて歩き始めた。周りを見ると、大小様々な犬たちが楽しく遊び回っている。確かに、こうして遊んでいれば飼い主を待つ時間もあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。
二匹が歩いていると、やがて宮殿のように豪華な犬小屋が見えた。中に入ると、茶色い毛をした一匹のコーギーがふかふかのベッドで寝ていた。ショコラがベッドに近づき、コーギーを起こそうと、その顔をペロペロと舐め始めた。すると、コーギーは気怠そうに起き上がった。
「うーん…。ボクまだ寝てたいんだけどなぁ…」
「長老さま、今日は私の後輩を見学に連れて参りました」
「あ、そうなの?ま、ゆっくりしてってよ。でも居心地良すぎて帰るの忘れちゃ、め!っだよ」
「それは安心してください。私が責任を持って帰しますので」
「それで?長老の僕に何か用?」
「私の後輩がイギリスについて詳しく知りたがっておりまして、長老さまが何かご存知ではないかと」
「そうなの?ああ、そっか!キミ、ヨークシャーテリアだもんね。自分がどこから来たのか知りたくなったってわけだ」
「は、はい…。何かご存知であれば、教えて欲しいんです」
「いいよ!イギリスってのはね…人間の王様がいるところなんだ!」
「王様…って何ですか?」
「一番偉い人間ってこと。僕のご先祖様の中には王族とか貴族[#「貴族」に傍点]とかに飼われていた犬もいるんだぞっ」
「キゾク⁉︎今、長老さまキゾクって言いました⁉︎」
「え…言ったけど?」
「キゾクって何なんですか⁉︎」
「貴族はね、王様から『ボクほど偉くないけど、キミもそこそこ偉いよ』って認められた人間のことだよ。たくさんの土地とかお金を持ってたんだ。ちょっと昔は、キミみたいなヨーキーを飼うのが貴族の中で流行ったんだ。犬社会の中でもヨーキーが貴族犬とされていた時代だね」
「そうだったんだ…。僕のご先祖様は貴族だったんだ…」
「あ、でも、今はそんなこと全然ないからね。神さまは犬に優劣つけて作ったわけじゃないから」
「サリー、良かったじゃないか。キミの先祖は貴族だって分かって」
「…うん。なんか、ちょっと嬉しい!」
「ところで、聞きたいことはこれで十分かな?それならボク、昼寝に戻りたいんだけど」
「は、はい!大丈夫です!ありがとうございました!」
「はーい、じゃあね〜。…グー、グー…」
長老は話が終わるとすぐに寝てしまった。ショコラはサリーに外に出るよう促した。
「よし、次はあそこに行こう。サリーもきっと気にいると思うよ」
ショコラはサリーを連れて長老の犬小屋から程近い、大きな建物に入った。建物のドアを開けて入ると前に受付があり、受付の中には一匹のメスのゴールデン・レトリバーがいた。ショコラはそのゴールデン・レトリバーに話しかけた。
「やあ、こんにちは。今日はムギちゃんのシフトなんだね」
「ええ、もうすぐ交代の時間になるわ。交代したらエステに行く予定なの」
「確か、僕は明日シフトだったっけ。ムギちゃん、ちょっとシフト表見せてくれる?」
ムギはショコラにシフト表を渡した。
「え〜っと…僕は明日の朝十時から十一時か。暇つぶしになんかおもちゃ持ってこよっと」
「ショコラ先輩、ここはどこなんですか?」
「ここはね、映画館っていうんだ。生前の僕たちの記憶を見返すことができる。ムギちゃん、僕のメモリーをお願い」
「分かったわ。三番シアターに行ってちょうだい。準備しておくから」
そう言ってムギは机の引き出しから「松澤ショコラ、2007〜2024」と書かれたフィルムを取り出した。ムギはそのフィルムを持って受付の後ろの部屋に行ってしまった。
「サリー、行こうか。昔の家族の姿をキミに見せてあげるよ」
サリーはショコラと一緒に薄暗い部屋に入った。床にはふかふかのマットが敷いてあった。そこに二匹で隣り合って座った。程なくて、部屋の前のスクリーンに映像が映し出された。そこには今よりも若々しいマミーやダディが映っていた。そして、誰だか分からない小さな子どもが二人映っていた。サリーはショコラに尋ねた。
「ねぇ、この小さな男の子と女の子はだれなの?」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんさ」
「えっ⁉︎この二人が⁉︎」
「ああ、この頃は僕とこの二人は兄妹同然だった。僕らは一緒に公園を走り回った。川で泳いだりもした。家じゃ一緒にテレビを見て、一緒に昼寝をした」
ショコラの言う通り、スクリーンにはブロとシスとショコラが公園で走り回ったり、家で一緒に昼寝をしている映像が流れた。
「この頃は何をするにも一緒だった。でも、お兄ちゃんとお姉ちゃんはいつからか帰りが遅くなった。ジュクでベンキョーだとかブカツのレンシュウに傍点]だとか、そんな訳の分からない理由でね」
「僕もそうだよ。みんなオシゴトだとかダイガクだとか、僕の知らない言葉を言って出て行っちゃうんだ。今日なんか、オハカマイリって意味の分からないことを…」
「そのことなら後でいいものを見せてあげるよ。今は僕の思い出を一緒に鑑賞しようじゃないか」
それから二匹はスクリーンに映し出されるショコラの思い出を見続けた。マミーに怒られて泣いているシスを慰めようと顔を舐めるショコラ、学校でいじめられて元気を無くしたブロに優しく寄り添うショコラ、仕事が休みのときのダディと遊ぶショコラ、一日の終わりにマミーと添い寝するショコラ。スクリーンに映し出されるショコラの記憶はどれも幸せなものだった。サリーは家族とこんなに幸せな暮らしを送っていたショコラに嫉妬した。しかし、それを察したのかショコラは弁解を始めた。
「ここに映っているのは僕の幸せな瞬間だけなんだ。辛かったり、退屈な思い出はフィルムには入ってない。見ても苦しくなるだけだからね。飼い主との思い出は楽しいものだけで十分だろう?」
「ご、ごめんなさい。別にショコラ先輩に嫉妬したわけじゃ…」
「いや、嫉妬してくれても構わない。なぜなら僕もキミに少なからず嫉妬しているからね」
「僕に…ですか?」
「ああ、確かに僕はキミが生まれる前に家族みんなと楽しい時を過ごした。でも、もう地上の世界じゃ家族と会うことはできない。その反面、キミはこれから十数年間家族と過ごすことができる。僕はそれが少し羨ましい」
「…」
「今日、僕からキミに引き継ぎたいことっていうのはね、つまりこういうことなんだ」
ショコラはサリーを教え諭すような口調で話し始めた。
「犬の犬生は人間よりも短い。五分の一くらいだ。だから、僕たちは限られた時間の中で家族を愛し、愛されなければならない。僕はここから地上の世界を見ることができるから知っているけど、キミはよく家族の手を噛んだり、ズボンの裾をちぎれるくらい引っ張ったりしてるよね。甘えたいのは分かるけど、そんなことを続けていたら、家族はキミのことを愛するのをやめてしまうかもしれない。二度と愛されることのないまま、キミは短い犬生を終えることになるかもしれない。それは嫌だろう?」
サリーは黙ってゆっくりと頷いた。
「なら、手を噛むのを控えるようにするんだ。僕がここからキミを見ていることを忘れるなよ」
「…分かりました」
「よし、じゃあ、最後にあれを見に行こうか」
ショコラはサリーを連れて映画館を出た。そして、サリーがこの草原に着いた場所、つまり虹と草原の接する場所にやってきた。来た時は気づかなかったが、この草原は空に浮いているようだった。草原の下には厚い雲が広がっており、下からは草原が見えないようになっている。では、上から見えるのではないかと思われるかもしれないが、長老曰く、草原の上空には透明な膜が張られており、膜の外側からは草原は見えないのだという。
草原の入口に二匹が到着すると、そこには一匹の秋田犬が待っていた。秋田犬は首から双眼鏡を下げていた。ショコラはその秋田犬に今までにないくらい丁寧に挨拶し、双眼鏡を受け取った。ショコラは二本足で立ち、前足で器用にその双眼鏡を目に当てて、地上の世界を見始めた。
「お、ちょうどいい時間だったね。ほら、サリーも見てごらん」
サリーはショコラから双眼鏡を受け取ると、自分も慣れない二本足立ちをして、慣れないながら前足で双眼鏡を目に当てて、地上の世界を見た。サリーに見えたのは、小さな石の柱のようなものが立ち並ぶ山だった。そして、一つの石の柱の前にマミー、ダディ、ブロ、シスの四人がいるのを見つけた。サリーは双眼鏡を外してショコラに尋ねた。
「ショコラ先輩、みんなはあそこで何をしてるの?」
「お墓参りさ」
「えっ、あれがお墓参り⁉︎」
「そう。自分のご先祖さまに挨拶したり、最近起こったことを報告しに行くのがお墓参りなんだ」
サリーはまた二本足で立って双眼鏡で家族のほうを見た。すると、家族四人は別の柱に移動しているようだった。目で追っていくと、家族四人は大きく「愛」という文字が刻まれた一際大きい石の柱の前に立ち、花を手向けていた。家族は四人ともその柱に向かって手を合わせていた。サリーは目を離してまたショコラに尋ねた。
「あれは誰のご先祖さまなの?あの柱、他の柱よりもとても大きいから、きっと貴族みたいな偉い人のお墓なんだろうね」
ショコラは悲しそうな目をして答えた。
「…あれは僕のお墓だよ」
「え…?あんなに大きなお墓がショコラ先輩のお墓…?」
「正確に言うと、僕を含めたたくさんの犬たちのお墓だ。犬は人間よりも価値が低いとされているから、犬はみんなまとめて一つの墓に入れられるんだ」
「え…じゃあ、僕も死んじゃったらあそこに入るの?やだよ!あんな暗くて狭そうなところは怖いよ!」
「何を勘違いしているんだい、サリー?あそこに骨を納められた犬が来るのが、キミも知ってるこの場所ってワケさ」
サリーは驚いたあまり、開いた口が塞がらなかった。そうか、そうだったのか。あのお墓に入るとここに来れるのか。そう思うとサリーは死ぬことが怖くなくなった。
「じゃあ、僕が死んだらまた先輩に会いに来れるんですね」
「ああ、そうだ。キミが死ぬまで僕はここで見守っている。いい子になって、みんなに愛されて、幸せのまま年をとって、それからここに来い」
「…はい、分かりました!今日のこと、絶対に忘れません!」
「よし、これで僕の引き継ぎはおしまいだ。そろそろ家族が帰ってくる頃だろう。家族が帰ってくる前に、キミはこの虹の橋を渡って家に戻るんだ」
「ショコラ先輩はこの橋を渡って現世に来ることはできるんですか?」
「…できないことはない。しかし、それは飼い主が僕たちに会うことを切に願っているときにだけこの橋を渡ることができるという決まりなんだ。それに、僕たちに許されているのは深夜、飼い主がぐっすり寝ている間に、飼い主の夢の中に入って束の間の再会を楽しむことくらいなんだ」
「ショコラ先輩は家族の夢の中に入ったことはあるんですか?」
「ああ。僕が死んだ直後、家族は四人とも悲嘆に暮れていたよ。四人それぞれから『もう一度だけ会いたい』という信号が送られてきた。一度にそれに応えることはできなかったから、一日おきにそれぞれの夢の中に入ったんだ。家族は口々に『今日ショコラが夢に出て来た!』って喜んでた。とても嬉しかったな。でも、今はキミが家族のそばにいてくれるから、そんなことも無くなったけどね」
「なんか、ごめんなさい…」
「いや、謝らなくてもいいさ。僕だって家族がいつまでも悲しんでいるところを見ていたくはない。キミには感謝してる。キミが三男として松澤家に入ってから、家族四人は毎日笑顔だし、喧嘩することも少なくなった。キミのおかげさ」
サリーは照れくさそうに俯いて、もじもじし始めた。
「ははっ。照れるなんて可愛いやつだな。だが、そろそろ時間だ。見てくれ、虹の橋が消え始めている」
サリーが虹の橋を見ると、確かに虹の橋はさっきここへ来たときよりも色が薄くなっていた。
「虹の橋が消えると、また次に虹が架かるまでキミは意識が戻らなくなってしまう。そうなると、家族が心配で倒れてしまうかもしれないし、キミの体が餓死してしまう可能性だってある」
「それを早く言ってくださいよ!それに、そんな危険なのに、よく僕をここに呼ぶことができましたね!」
「まあ、まあ。実は虹の橋が消え始めても、あるものを使えばすぐに家に帰れるんだけどね」
「…それは何ですか?」
数分後、サリーは消えかかった虹の橋の上を飛行機と同じくらいの速さで疾走していた。いや、正確にいうと、疾走していたのはサリーではなく、サリーの乗っているそりを引っ張っている二匹の犬だった。サリーから見て左側を走っているのはアラスカン・ハスキー。頭が黒く、顔周りは白い。体毛は白と黒のマーブル模様である。サリーから見て右側を走っているのはシベリアン・ハスキー。顔周りは白いが、頭や背中は灰色の毛で覆われている。二匹はこんなに速く走っているというのに、息切れの一つもしていない。そして、不思議なことに二匹の頭の上には光る輪が浮かんでいた。ショコラがいうには、この二匹は天国からの使いであり、体力は無尽蔵なんだそうだ。クリスマスにはトナカイ不足で困っているサンタクロースのために駆り出されることもあるんだとか。この二匹は虹の橋の上を走ることができるのはもちろん、虹の橋が消えた後でも、天国に通じる秘密の通路で帰ることができるらしい。しかし、その通路は天国の関係者以外に知られてはいけないので、帰る時は誰もそりに乗せてはいけない決まりとのこと。
そりに乗せてもらっているサリーは楽しくて仕方がなかった。風を体中で感じる感覚はとても気持ちがいい。周りの雲が次から次へと後ろへ流れていく。自分が風になったようだった。やがて、前方に自分の家があるマンションが見えた。マンションの向こうにはサリーがいつも遊ぶ公園がある。やがてサリーは、自分の家のベランダを見つけた。あのベランダから僕の家に入れる!…と思った瞬間、サリーは気を失った。
サリーが目を覚ますと、そこは家族が家を出て行ったときと同じケージの中のドームの中だった。サリーは、さっきまでのことは夢だったのではないか、と疑問を抱いた。しかし、夢にしてはよくできすぎていた。サリーが夢の内容を思い出していると、家のドアの鍵がガチャリと音を立てた。家族が帰って来たのだ。シスが小走りで廊下を走る音が聞こえる。リビングのドアが開いてシスがサリーのケージの前に姿を現した。
「サリ〜!帰って来たよ〜!いい子にしてたかな〜?」
シスに続いてマミー、ブロ、ダディが部屋に入って来た。シスがサリーのケージの鍵を開けてくれたので、サリーはケージを出た。マミーがサリーに近づいて来た。
「サリ〜!ごめんね、寂しかったね〜」
ブロは何か不思議な顔をして近づいて来た。
「サリー?なんかキョトンとした顔してるね?寝ぼけてるの?」
ダディも近づいて来た。
「サリーは寝坊助だな〜!俺も休みの日はゆっくり寝たいぜ、まったく」
サリーは四人にさっきまでの夢の話をしたくてたまらなかった。しかし、夢の中ではあんなに人の言葉を喋ることができていたのに、今はキャン、とかクゥ〜ンとしか言うことができない。とてももどかしかった。とりあえず、四人に甘えたくなって、いつものようにマミーの手を甘噛みしようと口を開けた。が、そこでショコラ先輩の言葉を思い出し、手を噛むのをやめた。本当は噛みたくて仕方がないのだが、ショコラ先輩があの雲の上の草原からこちらを見ていると思うと、とても噛む気にはなれなかった。それに、サリーはいまや自分が貴族犬の末裔であることを知っており、貴族の名に恥じない振る舞いをしなければならないという意識が芽生えたことも、サリーが手を噛むのをやめた理由であった。家族はサリーがいつものように手を噛まないことに驚いた。シスがこちらを心配そうな目で見つめている。
「どうしたの、サリー?今日めっちゃおとなしいじゃん。もしかして、元気ない?」
そんなことないよ、元気だよ、と伝えようと思い、サリーは元気よく飛び跳ねた。ピョーン、ピョーンと飛び跳ねると家族は四人とも笑ってくれた。
「あはは!サリー、おもしろーい!」
「トランポリンで跳んでるみたいだね!」
そうだよ、僕は今日トランポリンで遊んだんだよ、と伝えたかったが、やはり話すことはできなかった。
ダディがお留守番のご褒美にボーロをくれるというので、お座りをした。ダディは手を挙げて待て、という指示をしている。ここでサリーはショコラ先輩から別れ際に言われたことを思い出した。
「そういえば、サリーって『お手』のこと知らないよね?」
「オテ?それは何のことですか?」
「芸の一つさ。家族が『お手』って言いながら手のひらを出してきたときに、キミの前足をその手のひらに乗せるだけでいい」
「なるほど…。よく分かりませんが、それをするとどうなるんですか?」
「家族が手を叩いて喜んでくれるよ」
サリーはショコラ先輩に言われた通り、ダディに向かって右の前足を高く挙げた。ダディは目を丸くして叫んだ。
「おい、みんな見てくれ!サリーが『お手』をしたぞ!」
他の三人がサリーの方を向いた。サリーは誇らしげに右の前足を掲げていた。サリーの目の前に家族四人が集まり、サリーを我先にと褒め始めた。
「サリー、すごいよ!それどこで覚えたの⁉︎」とシスが褒めた。
「え、誰か『お手』教えた⁉︎」とマミーが他の三人に尋ねた。
「いや、僕は教えてないよ!パパじゃないの?」とブロが答えた。
「俺も教えてないぞ!待てよ…もしかして…」
ダディは電話機の横に飾ってあるショコラの写真を見た。写真の中のショコラはサリーたちに優しい眼差しを向けていた。
「パパ?どうしてショコちゃんの写真を見てるの?」
「…いや、何でもないよ。まさか…ね」
サリーはみんなから褒めちぎられたことが嬉しすぎるあまり、小さな尻尾をぶんぶん振って一言、「ワォ〜ン!」と吠えた。