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第九話

 満月の銀光が凄惨なる来賓室を照らし出す。

 様々な物が壊れ、砕け、破れ、裂けた室内において、数少ない軽傷者の一つが「寝台」であった。


 今、その寝台には一組の男女の姿がある。

 男の体を手で押さえつけ、その礼服の胸をはだけさせた、朱殷とでも言うべき暗い緋色の髪の女性の名はスルトと言う。

 討滅者、征伐者、執行人、処刑人、簒奪者。

 そして、僅か12歳にてその座を継いだ、キルクス家の現当主である。


 無論、ここに至るまでの話が示す通り、現在、この空間に漂う空気はロマンスではない。

 それを表す証拠として、今、この場にある物と言えば彼女の表情及び状況であろう。


 その両目は見開かれ、口は硬く結ばれている。

 左の手は相手の喉を掴み、右の手は短刀の柄を握りしめている。

 その短刀は、「男性」の頭部の数分の横に、その鍔が埋まる程度には深く突き刺されている。


 尤も、彼女が抱く感情が「怒り」「嫉妬」であれば、これは痴情のもつれ、もしくは「男性」の不埒なる多き恋の報いがその終局であったのかもしれない。


 だが、今、ここにある物は「驚愕」「恐怖」「悲しみ」、そして「喜び」。


 女の唇が震えと共に開かれ、言葉が溢れ落ちる。


「兄、上…?」


 女に組み敷かれる男の姿は、生まれたばかりかのような一糸纏わぬ全裸である。

 余分な肉は一切なく、それでいて均整のある鍛えられた肉体がそこにある。

 その頭部には、女と同じ、いや彼女のそれよりは滑らかな緋色の髪があり、その顔には英明闊達とした鋭気や信念に溢れた目があった。喉を押さえつけられているため少し苦しそうではあるが。


 同じ髪色が呈する通り、この二人には血縁の繋がりが存在する。

 だが、スルト・キルクスの名と顔、そして存在が良くも悪くも宮廷内外に轟き響いているのに対し、この男の事を知る者は、今日ではあまり多くない。


 彼の名は、ライヴァート・キルクス。

 スルト・キルクスの腹違いの実兄である。

 キルクス家、前当主である。


 享年21歳。生きていれば、今年でおよそ37歳であった。


 騎士として、領主として、貴族として経験を重ね、実力を備え、脂の乗り切った頃合いであった事だろう。


 しかし、そのような未来は、16年前のあの日、あの一晩、あの一瞬で、脆くも少女の前から崩れ落ちていた。



 ライヴァートの腕がスルトの左腕を軽く叩く。

 彼女の手は未だ彼の喉元を掴んでおり、彼の呼吸を阻害していた。


「あ、も、申し訳ありませぬ」


 少しの逡巡の後、女は慌てて手を離し、寝台の手前に立ち上がる。

 男は少し咳き込み、呼吸を整え、寝台に腰を下ろす体勢になる。

 そして、優しげな笑みを、彼女の記憶の片隅に未だ残る笑顔を浮かべ、耳の奥に残るありし日の声で、言った。



「この姿を、貴様は自らの意思で捨て置けるかな?」



 ダザっ!と人間二人分が倒れ込む音がした。

 女が飛び掛かって馬乗りとなり、寝所に男を押さえ込む。

 スルト・キルクスの両の手が、ライヴァート・キルクスの喉を握り潰さんと押さえつける。

 女の形相はまさに憤怒としか言い表せず、その激情のままに締め上げる。


「捨て置く」


 彼の口から発せられた言葉は、数刻前アストラゴルの紡いだ「置き去り」の延長線上にある物に他ならない。

 つまり、彼女の目の前にあるこの存在は「ライヴァート・キルクス」当人ではない。

 当たり前である。彼の体は16年前に既に土の下へ納められたのだから。

 そう、この「ライヴァート・キルクス」の外観を持つこの物体は、アストラゴルが自身の持てる力の全てを用いて創り上げた肉の人形である。

 その内にあり、これを動かすのもアストラゴルの魂であった。

 血が流れ、呼気を求め、心臓は鼓動を刻んでいる。

 しかし、それら全てが所詮は紛い物に過ぎない。現時点では。


「アストラゴル!アストラゴル!アストラゴォル!!貴様!我が兄を!兄上を穢すかァ!!」


 白みを帯び始める程にその手に渾身の力が込められる。

 まるで、その頸椎をも捩じ切らんとするように。

 当然、「ライヴァート」の呼吸もほぼ完全に阻害され、一応生理的な反応としての抵抗が行われる。

 男の爪が彼女の手を引っ掻くが、それに全く構うことなく、締め続けられる。


「貴様の狙いはこの私だ!私のはずだ!我が兄を、死者を辱めて何になる!」


 何になるかと言えば、それはまさにこの現況であろう。


 そして、男の口から血の塊が吐き出された。

 唇が黒く変色する。


 だが、奇妙な話である。

 確かに、今、この場で行われていた惨劇はまさに殺人の瞬間であった。

 しかし、その手段は「絞殺」。

 一方、彼の体に起こるこの反応はまるで、「毒殺」。


 そして、その「中毒死」のような症例を見た女の顔からは怒りの赤が一瞬で消え失せ、恐怖の青に塗り替えられる。


「アストラ…っ、あ、あ…、うぁ…、ぁあ!あ、兄上!しっかりなさってください!」


 狼狽も顕に手を離し、彼の口をゆすぎ、その内を清めんと水を探す。

 だが、この部屋の水差しは既に壊れている。

 そもそも、中身も先ほど彼女が使い果たしていた。


 仕方なく、彼女は傍のシーツを掴み彼の顔から血を拭う事しかできなかった。


 ところで、ライヴァート・キルクス氏は16年前、何で以って命を奪われたのか。

 それは、葡萄酒の中に潜まされた「毒」による物であった。

 家族、親族、配下、宮廷からの使者、距離や関係の近しい貴族、そして領民をも交えた盛大なる、彼自身の生誕と家督の継承を讃える祭の日。

 その祝すべき、記念すべき日に、彼は、最愛の少女の目の前で、咳き込み、倒れ、吐血し、そのまま二度と立ち上がる事はなかったのである。


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