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第八話

 今宵は満月であったが、その姿は雲の向こうに隠れていた。

 よって、灯火が消えた今、客間の光源は消え失せた。

 暗がりの中で影が収束し実体を持つ爪を成す。

 椅子に座りし女の柔肌を切り裂かんと一線に伸びる。


 しかし、それは銀の一閃で容易く切り払われた。


「私の流儀は「即断即殺」と呼ばれているらしい。確かに、私は窮鼠に相見える前に事を終える事が多かった。だが、手負いの獣の危険性を知らぬ訳ではない」


 彼女はスティレットを片手にゆらりと立ち上がる。


「兄より剣を継いで十数年。戦場の、市街の、そして宮廷の内外で、そのような手合いは幾度も斬り伏せてきた。その末席に貴様も連なるか?」


 その間も、爪が、牙が、成形もされぬ塊が次々と襲いかかるが、その何れもが短刀の針の如く細い刃で払われ、裂かれ、そして長靴で踏み躙られる。


「しかし驚いた。まさか自身の力のみで実体化できるとは思わなんだぞ。それを知っていればこの半年間、私は一睡もできず発狂していた事だろうに。おお、もしや先の宴席でお前の「囁き」が放たれた際、あの広間のどこかでは「ふよふよと漂う「口」」という怪談が発生していたのかな?」


 三方から刃が迫るが、後方の一つは蹴り飛ばされた椅子に潰され、側面の一つは投げつけられた燭台に貫かれ、正面の一つは真っ向から刺し砕かれた。


「アストラゴル。諦めろ」


 砕け弾ける影の隙間を縫い、女の首にやっと突き刺さらんとした腕は、見向きもされずに空いた片手で捩じ切れられた。


「貴様では、もはや届かん。その言葉も、刃も」


 刀身に残る黒い残渣を振り払い、白銀の切先が突きつけられる。


「力を使い果たすまで、徒労を続けるならば付き合うが?」


 そして闇は止まった。


『グ、ググ…ぬ…!』


 搾り出される呻き声。

 それは、敗者の醜い呻きに過ぎなかった。


 切り離されたアストラゴルの影の腕は、彼女の手の内で形を保てず、暗黒の霧となって霧散する。

 その余韻すら残さず、客間には静寂が降りた。


 燭台は床に転がり、残っていた蝋の残骸が床に散らばる。

 月は依然として雲に隠れているが、その厚みは変わったのか朧げな光が室内に入る。

 

 影は音もなく蠢く。

 

『ぐ…ふ、ふふ…』


 それは嘲笑か、それとも苦悶の笑みか。

 スルトは構えはそのままに、片眉を上げる。


「貴様も狂うのは自由だが、その方向性は決めておいてくれよ?」


『…舐めやがって』


 かすれた声が憎悪を露わに言葉をこぼす。


 その時ズズッと、壁の鏡が、静かに揺れた。


 わずかな震え。それは風もない密室の中で、不自然なほどに鮮明な兆候であった。

 スルトの視線が鏡へと向けられる。


 闇に慣れた目が微かな光を捉え、その鏡像を映す。


 数瞬の間に荒れ果てた客間。

 切り裂かれた毛氈と壁紙。

 壊れた椅子と倒れたテーブル。

 床に転がっていた水差しとカップもいつの間にか砕けている。

 少し離れた所にある寝台は無事のようだが、四方を覆うカーテンの一部はダラリと垂れ下がる。


 そして勿論、それを見る女の姿も映っている。

 正面の虚空に短刀を突きつけたまま、視線のみこちらに向ける姿である。


 しかし、その像は現実の姿と離れて剣の構えを解き、体を「こちら側」へと向ける。


「…今更そんな単純な怪奇現象とは、基本にでも立ち返る気か?」


 そうは言いつつ、女はスティレットを逆手へと持ち替えた。


 虚像は鏡面の手前にまで移動し、バンと両手を打ち付ける。

 その唇が動き、彼の言葉が放たれる。


『「届かん」…、「届かん」か…。ク、ハハハハハ!ああ、そうだろうさスルト・キルクス!お前は全てを置き去りにする!』


 虚像が鏡面を叩く音が響き渡る。

 その衝撃に呼応するかのように、室内の空気がざわめいた。


『友も、供回りも、傍輩も、理解も名望も同情さえも!そして此度はこの俺を!』


 鏡の中にある女の姿は自己の頭蓋を押し潰さんほどに抱え押さえている。


『だが?しかしながら?お前の目は必ずしも前のみを向きはしていない。お前の意識は絶えず背後にも注がれる。果たしてそれは自己の背に迫る凶刃の為だけなのか?』


 ギ。

 現実の世界で音が微かに鳴る。

 スティレットの柄を握る力が僅かに増す。


『俺は知っている。だって私は悪魔なのだから?僕は全てを見てきている。何故ならば我は悪魔なのだから?如何に目を逸らし、身を遠ざけようとも、照らし出され伸びる影が途切れる事はない』


 鏡像の姿は髪を掻きむしり、頭骨を抱え込む。


『その起点、その原点、お前の背に一筋の黒線を落とすその杭が穿たれし、その時を見た!その場所に聞いた!その身体を、口鼻に残る鉄の残滓を知っている!』


 捻じ切るように自らの首をぐいと鏡面へ向け、目を見開く。

 そして、その緋の髪の末端から漆黒の塵芥となって虚空に溶けていく。


『いいだろう。スルト・キルクス。俺は変質しよう。お前に言われるままに。』


 顔が、手足が、胸部が、胴を成していた黒い塵が風に舞う大鋸屑おがくずのようにサラサラと散る。


『私は変わろう。貴様の望むままに』


 四方に分たれた塵煙が部屋の一部で結集する。

 それは寝台の側にて纏まりつつある。


 これは、鏡の中のみで起こる出来事ではない。

 スルトの正面、寝台の手前にて一つの気配が成立しつつある。


 再び曇天が朧月をも塗りつぶし、辺りは闇に閉ざされる。


「汝が真に、求めるままに」


 そして、「男の声」が女の鼓膜を揺るがした。


 瞬間、スルト・キルクスの体は飛び出していた。

 彼女の眼前で実体を成しつつある「それ」は、およそ人体と称して良い体裁を整えつつあった。

 幼年では無い。老年でも無い。

 鍛えられた、若く逞しい体に。

 その、おそらく首と思しき部分を女は掴み締め、寝台へと押し倒し、固定する。


 掌には肌の熱がある。


 彼女の左手、それが掴む首の上部、頭部の中央、眉間の少し下を射抜かんと短刀を振り上げる。


 今、彼女の眼前にあるはまさに「窮鼠」である。

 その最期の「牙」が何であるか、彼女はまだ見定めてはいない。


 否。見定めては「いけない」という確信に似た恐怖がある。


 その先に待つ地獄が何であれ、スルト・キルクスの理性は、「振り下ろせ!!」と絶叫していた。

 それに従い、凶器を握る右の拳を振り落とす。


 その時、雲が途切れ、月光が室内を照らし、闇を払った。



 ざん。

 と、刃物が布地に突き刺さった。



 衝動と慣性に従えば、その短刀は「男の顔面」をスプリングマットレスに縫い留めるはずであった。


 しかし、それは対象の頭部のこめかみの傍に突き刺さっていた。

 その刃は、数本の「緋色の髪」をハラハラと散らし、純白のシーツを穿つのみであったのである。


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