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第七話

 スルト・キルクスの手は差し出されたまま、燭台の火に舐めるように照らし出されている。

 その腕も、体の軸線にも一切の揺らぎがなかった。

 彼女がこの体勢となってから数分の時が経過しようとしていたが、返答は無い。

 しかし、彼女はアストラゴルが健在なるを確信していた。

 何故ならば、その「痕」は未だ身体に赤々と遺されているのだから。


 沈黙が空間を包み込む。


 彼女は待った。


 アストラゴルが屈服し、この手を取るならばそれでよし。

 それが鳴き続ける限り、彼女は己が正義の状態を知る事ができる。

 つまり、ある種の金糸雀カナリヤである。


 そして、彼が誇りに殉じ、歴史と記憶の泥濘に沈む事を選ぶなら、別にそれで良いとも考えていた。

 結局の処、当初目的としていた「悪魔の打倒者」なる事績はそれで完成するのだ。

 そうなれば、このトロフィーを飾り棚の上にでも仕舞い込み、次なる「悪」を探しに向かうのみである。


 そう、スルト・キルクスにとってすら、アストラゴルの存在は過去となりつつあった。


 彼自身、それが判らぬ筈がない。

 故に、答えに窮していた。


 アストラゴルは、選択を迫られている。

 即ち、在り方を捨てるか。存在を捨てるか。

 その、どちらかを。


 静寂を終わらせたのは「声」であった。


『ふざけた…真似を…!』


 アストラゴル、久方ぶりの「声」である。

 しかし、その色は怒りと当惑の生の感情が剥き出しとなっている。


『貴様…!自分が何を言っているのか理解しているのか…?!』


 挙句の果てに搾り出された言葉は愚問であった。


「自棄にでも見えるか?それともいよいよ私は狂ったのかな?」


 彼の声から失われた余裕と嘲笑、そして超然さは彼女の声に移る始末である。

 女の口角は少し上がり、目を細める。

 しかし、その姿勢は鋼の様に変わる素振りがない。


 乱れた「声」が自らを問う。


『私は…!私は悪魔だ!悪魔アストラゴルであるぞ…!』

「そうだな」

『富貴を授け貴人を惑わし、動機を与えて不和を醸し、大地に騒乱の大火を巻き起こした大悪魔であるぞ…!』

「故にこそ、此度の再臨に対して早急な対処が求められた訳だからな」

『歴史の影に身を潜めてこれを眺め、我が名を知る者を誑かしてその威を保ち、幾星霜の年月においてこの大地の闇と共にあった私を…!よもや従僕や、道化かのように、飼う、だと…?!」

「禄の望みはどれぐらいだ?」

『要らぬわ!!』


「声」は激昂した。

 その返答を受け、スルトは伸ばしていた手を自身の額にやり、心底愉快であると言わんばかりに笑い声を上げた。


「ハハっ。いや、すまない。些か戯れが過ぎたな。己を保てず、成果を振り返り、それでも尚焦燥するその想い。私にはよくわかる。数刻前までの私がそうであったのだから」


 女は再び薄く笑う。

 その対象は果たして眼前の(姿は無いが)アストラゴルか、はたまた己自身か。 


「さて」


 そして彼女は椅子を引いて腰を下ろし、その背に身を預け、長い脚を組む。

 傍のサイドテーブルの天板を指でコツコツと叩く。


「結局の所、お前は何を選ぶのだ。アストラゴルよ。変質か、それとも消滅か。留保するならば好きにすれば良い。その声が私に届くのであれば、だが」


 等間隔で刻まれる硬質な音が響く。

 アストラゴルの解答が許される刻限を示すかのように。


「正直に言えばな、私はお前との語らいに少し飽いてきている。この半年の間、私は本当に苦しめられた。そしてその転機もお前により齎される羽目となった。その意趣返しとしてお前を支配せんと思い、徒に貶めた事は認めよう。だが、それからの貴様はどうだ。己が過去に縋り付き、嘆くのみ。それこそ我が身の醜態を見せつけられているようで腹が立つ。これも「憤怒」の誘いか?」


 音が止まる。


「かつての恐怖、かつての所業、かつての称号。それがなんだ。結局、それを成したお前は滅ぼされたではないか。当代の罪は名義貸し。「今回」のお前の成果はただ一つ。我が首元に残る、この醜き傷のみ」


 礼服が胸元まで開かれる。

「確かに、私はこの傷を半年間を隠し続けるしかなかった。目立つからな」

 指が傷口をつつとなでる。

 少しの熱があり、僅かばかりの痛覚が呼び起こされる。

「見た目こそ痛々しい。だが、肉や骨を抉るものではない」

 傷の深さで言えば、その周囲に刻まれた彼女自身による「外科手術」の名残や火傷の方がよほど重傷である。


「正しく「烙印」だよ。私を「悪魔憑き」と呼ぶ者共はこれを見れば恐れ慄く事だろう。だが、そこに貴様の名が挟まる余地はあるのか?」


 そして目を閉じ、人差し指を額につけて少し上を見やる仕草をする。


「ええと…、アスト…なんだったかな?」


 おそらく、この言葉が決め手となったのであろう。


 突如影が噴出し、燭台の火が掻き消えた。


『ならば…!ならば今一度貴様に疵を残してやる!お前を汚してくれる!』


 亡霊の絶叫が客間に木霊した。

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