第五話
『まこと、惨めよの。スルト・キルクス』
悪魔が、「音」ではなく「意思」で騎士の意識に囁きかける。
『我が首を刈りし日の覇気は何処へやら。斯様なる醜態を見せられては、我が身も滅びし甲斐が無いという物』
その体に実体が有れば、おそらく嘲笑の一つでも挟んでいたであろう口調で語りかける。
「黙れ。搾り滓が」
小机に置いた片手でその身を支え、もう片方の手で「傷」を抑えながらスルトが吐き捨てる。
『その渣滓に怯え竦み、女子のようにびくびくと震えておるのは何処の何奴であったか。おお、確か汝も女だったな。これはしたり』
悪魔の声は、嘲弄そのものだった。
目に見えぬ相手だからこそ、その声音に浮かぶ愉悦の色が一層際立つ。
『しかし、左様なるか弱き乙女の腰布に縋り付き、その臀部が向こうに身を隠すとは、当代の益荒男共の実に頼もしき事よ。それでいて、彼奴等はその恥を省みず、恩に報いる事もない。汝が護りし同胞は汝を疎み、汝が傅きし王は汝を恐れる。かくの如き不義理が!不道徳が!不条理が、果たして許さるるべきにやあらん?!』
「条理と道徳の、その対極に座する者が、何をほざくか」
悪魔の煽言を騎士は撥ね除ける。
しかし拒絶こそあれども、一句一句で息を継ぎながら答える様では、その言葉は強さに欠けていた。
『ほほ。なればこそよ。堕ちたる我が身であるが故に、その行いの醜悪さを明らかに知る。おお!世の理のなんと非情なる事か!泥濘に堕する者どもが、清らかなる汝を「魔」と謗るとは!』
壇上の役者が、まさに悲劇のクライマックスを演じるかの如く、悪魔の声は張り上げられる。
『哀れなり!スルト・キルクス!その腕は空を掴み、その脚は宙を踏む!汝が身は至尊にあれども、依る辺を失い、虚を漂わん!』
そして、「清らかなる」身に「疵」を与えた、まさにその存在が、騎士を憐れみ、慮り、慈しまんとして語りかけた。
『今ぞ、汝があるべき処に…』
「汝があるべき処に進むべし。王の座を奪い、冠を掴み、自らの頭上に掲げるべし…か?実に、実に魅力的な提案ではないかアストラゴル。だが、急いたな」
『…ほう?』
しかし、いよいよ「芝居」が最高潮へ達さんとしたまさにその時、彼の言の葉は騎士に遮られ、先んじられた。
「成程、確かに私自身が頂きに立ち、その威と力で以って我が身の潔白と正しさを規定すれば、これを疑う者をなくせよう。だが、そのような「悪徳」、私は求めん」
騎士の手は、未だ机の上で握りしめられてはいたが、その呼吸は安定を取り戻していた。
「私は正義に従い、正道を成す。だが、自身そのものにその基準を置いてしまえば、それは「傲慢」に堕するのみだ」
『…その「正しき」は、誰がそれを認め、それを知る?』
「アストラゴル。今、貴様自身が認めたのだよ。私が「至尊」にあるとな」
スルトは身を屈め、その口からはくつくつと笑い声が漏れている。
「結構結構、実に結構!辺獄の底より我を仰ぎ見よアストラゴル!貴様の意図が何処にあれども、選びしその語彙が貴様自身の認識を如実に表す!貴様が!貴様の存在こそが我が「正しさ」を証明する!」
彼女の拳が力強く机の天板を殴りつけ、その顔は正面を向き、客間の壁を睨みつける。
目が見開かれ、口元は笑みに歪む。
『…ふふ、ふはははは!いや、いや、これは驚いた。お前が、まことにそのような言葉を吐こうと…』「アストラゴル!」
女の発声が、またもアストラゴルの言を遮る。
「貴様が焦る所以を言い当ててやろう!それは時間の制限だ!人々の記憶から、その名が薄れ去るまでの間に事を成さねばならぬ!」
眼に血走らせて口を開き、断言する。
「貴様の名を記し、かつての事績を伝う文はもはやこの世に存在しない!私が焼いた!かくてその名は、我が英雄譚における一節、敗者としてのみ遺される!なればこそ汝は我を惑わし、拐かす!その誘いに我が堕し、乃至絶望に死する事無くば、貴様の名の意味するところが変わらぬ故な!」
遂にその口からは哄笑が溢れ出した。
「真に憐れぶまれるは、汝也!」