第四話
スルト・キルクスは、自身にあてがわれている王宮内の客間へと戻っていた。
壁際の飾り机へ向かい、その上にある水差しを手に取り、カップに水を注ぐ。
そして、彼女が持つ数少ない装身具であり、実用の品でもある銀のスティレットを抜き、その刃先を水面に沈め、くるりと一回しする。
その刀身に曇りがない事を確認すると、短剣をカップに持ち替え、一口だけ水を含む。
やはり、特に異常は感じられなかった。
この一連の「儀式」が、これまでにおいて功を奏した事は一度もなく、そもそも毒物の混入を警戒する事にどれほどの意味があるのかも不明ではあったが、既にこれは彼女の「習慣」と化していた。
水の安全を確認したところで、ようやくスルトは杯を煽り、その中身を一気に空けた。
そして再度水を注ぎ、2杯3杯と続けて飲み干す。
そこまでしてから、カップを盆に戻して、ゆっくりと息を吐く。
広間にて流れた、あの「声」は、未だ耳に残っている。
広間にて浴びせられた、彼らの「視線」は、未だ肌が覚えている。
騎士は再度水差しとカップに手を伸ばし、しかしてカップは投げ捨て、水差しを頭上に掲げ、逆さとした。
そして、容器に残る水は重力に従い、ざぁとその全てが騎士の身へと降り注がれた。
彼女の意識に残り続ける、あれらの感覚を洗い流さんとするかのように。
しかし、その望みすら叶わない。
水に濡れ、その濡羽の服は色の深みをより一層増させたが、同時に肌に張りつく布地は騎士に不快感を与えた。
そして何よりも、その高襟の裏に隠された首元で、スルトの抵抗を嘲笑うかのようにジクジクと疼く物があった。
「…っ!」
騎士の口から苦痛の声が漏れ、息が荒げられる。
襟と釦が開かれ、黒に覆われた白い肌が露わとなる。
傷。
はだけられた首元には、肉感生々しい傷があった。
首から肩の方向に向け、鋭くも刃物による物ではない傷、まさに獣の爪で裂かれたかのような傷がそこにあった。
これこそは、騎士のその短慮が故の報いの証。
悪魔が死の間際に一閃し、この物質界に遺した唯一の痕。
アストラゴルの爪により彼女の体に刻まれた、現世への縁そのものであった。
悪魔が滅ぼされてから、はや半年の時が経過しようとしていたが、その傷痕は今まさに切り裂かれたかのように赤々しく、脈打っている。
しかし、そこから血が滲み出てはいなかった。
よく見れば、この「痕」の周囲には真新しい傷の跡や火傷の跡も幾つか見受けられる。
これらは、スルト自身による「傷」の除去や焼き潰しが試みられた痕跡であるが、それらは既に回復の傾向にある。
それ以前につけられたはずの傷が未だ肉肉しいのは、自然の理に背く「悪魔」が為の所以であろうか。
『まこと、惨めよの。スルト・キルクス』
騎士が、この傷の存在を改めて認識するのを見計らったかのように、悪魔は彼女に語りかけた。
それはやはり耳に届く「音」ではなく、「思念」として彼女の魂に直接呼びかける物であった。
アストラゴル。
その肉体は確かに死を迎え、その骸も確かに業火の奥に消え去った。
しかしその魂は、裏界、もしくは星幽界とも呼称される精神の空間で、現実と異なる界層において確かに存続していた。
この彼岸と此岸は、薄絹一枚よりも儚くも、しかし絶対の区分にて隔てられている。
本来であれば決して交わらぬ平行の存在であるのだが、有史以来、悪魔はしばしばこの隔てを超えて、人の世に、物質の世界に働きかけてきた。
悪魔がこの世に現れるには、二つの条件が求められる。
一つは、人が悪魔の存在を認め、彼を求め、その名を呼ぶこと。
もう一つは、悪魔と魂を交わした者が、この世に在る事である。
そのどちらかが欠ければ、悪魔はただの影にすぎない。
だが両者が揃わば、悪魔は世界の狭間を超え、この世においても「在る物」として認識される。
さて、アストラゴルはどうであったか。
アストラゴルは、太古の昔、討伐されその体を滅ぼされている。
だが、その名は消えなかった。
闇の中で語り継がれ、復活を願う者たちの間で囁かれ続けた。
崇拝者たちは、悪魔を現世へ引き戻すために動いた。
財を奪い儀式を整え、人を攫い贄を誂えた。
その略奪、襲撃、拉致、殺人といった所業の数々は、全てアストラゴルの名において行われ、王国全土に悪名を轟かせた。
信望者達は証を必要とした。
彼らは、かつてアストラゴルが自ら刻んだ石碑を掘り起こし、その存在を示す印とした。
そして、信徒の長たる男が、己の魂を差し出した。
彼は富を求め、栄華を望み、力に魅入られた。
ついに自らの意思で、魂を「強欲」に染め、アストラゴルへと至ったのだ。
かくして、アストラゴルの存在は表層へと引き上げられ、復活を果たした。
そして、ほぼその直後に、祭儀の場に乗り込んできたスルト・キルクスの剣により首を刎ねられ、再度の滅びを迎える事となる。
しかし、悪魔はその最期の瞬間、騎士の身体に、そしてその精神に重大な、むしろ致命的とも言える「痕」を残したのである。