第三話
騎士が退席を求めた時、王は一瞬口を開きかけた。
しかし、結局彼は何も語らず、軽く頷くのみでそれを了承した。
周囲の貴族たちの視線は未だスルトに、その背に注がれていた。
だが、それは礼をもって見送るものではない。
そこには恐れと根深い警戒が、遂に滲み出していた。
意識の焦点に居続けるは、彼女にとって耐え難いことではない。
奇異と猜疑の眼差しを向けられるのは今に始まった事ではなかった。
彼女に付けられていた「悪魔憑き」のレッテルとて、所詮他者の嫉妬と怯懦が生み出した空虚な物でしかなく、そのような些事よりも優先されるべきは功を成し、勲を立て、力を示す事であると考えていた。
これまでならば、そうであった。
広間を抜け、回廊に出る。
会場の灯火と温もりが徐々に遠ざかる。
壁にかけられた燭台の光は揺らめき、一人分の足音が石畳に反響した。
しかし、騎士の脳内にある「音」はそれだけではなかった。
『結局のところ、あれが悪魔を討てたのは同類だからではないのか?』
それは「声」である。
騎士の心を揺るがした、あの宴の列席者全ての耳に染み入った「中傷」である。
さしものスルト・キルクスと言えども、今宵の広間に集った全ての者の声を把握し、判別し、特定するのは不可能だ。
しかし、あの時、その声量に比して不自然にも広間全体に木霊したこの特異な「声」の主を、彼女は知っていた。
あの老人のようで若々しく、雄々しいようでいてか細く届く奇妙な「声」。
それこそは、悪魔アストラゴルの囁きであった。
騎士がアストラゴルの声を初めて聞いたのは、彼を討ち果たす寸前である。
彼を祀る砦に攻め入り、彼を崇める信徒共を残さず鏖殺し、彼の依代をほぼ刺し違える形で貫き、その身体を斬り捨てたその時だった。
悪魔は騎士への恨み言を告げると共に、再々度の復活を予言した。
『我が実体滅びれど、我が存在は潰えず…。我が御名を識る者、我が力の遺せし痕、我が刻みし縁が在る限り、我は必ずや現世にて甦らん…』
それは悪魔に対する戦いの継続が宣言された瞬間であった。
その「声」が届いた騎士は、即座に悪魔アストラゴルの「全て」を消し去ろうとした。
それがこの地にとって幸か不幸であったかはともかく、この砦跡を拠点とし悪魔の再臨を望んだ集団は、アストラゴルの探究の為に大陸中の文物を集めていた。
その為に、悪魔の痕跡の除去は効率的に進められた。
無人の砦に残された悪魔の碑は、彼の名の部分だけでなく、その全体が騎士自らの手で細片となるまで破砕され、擦り潰された。
そして、砦の全ての部屋の残置物、信徒が遺した全ての残留物は回収され、その全てが火炎によって浄化されたのである。
そも、スルト・キルクスは、何故悪魔の討伐に赴いたか。
それは「悪魔そのもの」の除去により、自己に付けられた「悪魔」の烙印の否定を成す為である。
人々は、スルト・キルクスの成果は認めども、その行為を評価する事はなかった。
人倫に背く事はなけれども、人道より逸れると思われたその行いは、彼女から人々を遠ざけ、畏れさせた。
忠を尽くせば屍が山となり、貢を捧がば血が河を充す。
それらは壁となり、堀となりて騎士と周囲と隔てた。
それ故に、彼女は悪の枢要たる魔を討ち、己が正義の絶対なるを世に知らしめれば、如何なる理由があろうとも人々はスルト・キルクスを受け入れざるを得ないと信じたのである。
実利と合理性を鑑み、その最短経路を辿るのは確かに彼女の性質ではあったが、此度のこの動機はもはや短絡的と評すのが妥当であろう。
もしやすると、彼女の精神は既に限界を迎え、逃避を求めていたのかもしれない。
ともあれ、悪魔の残滓が残っていては彼女の思惑を果たす事はできない。
「悪魔」は、消滅せねばならないのだから。
まして、復活なぞ論外である。
故に、彼女はこの「アストラゴルの痕跡」を徹底的に抹消しようとしたのだった。
かくして、悪魔アストラゴルの影は、この大地から「ほぼ」全てが破却されたのであった。
しかし、結果は騎士の望む物とはならなかった。
周囲の者達は、スルト・キルクスを「悪魔の敵対者」とは見なさなかった。
彼らの目には、執拗なまでにアストラゴルの残響を排除するその姿は「悪魔をも上回り、簒奪する者」としか映らなかったのである。
そして何よりも。
かつてはただの「謂れなき中傷」だった「憑き物」のレッテルは。
今や「真実」を部分的に含む物となっていたのだった。