第十一話
「私は消えよう。私を、「終わらせて」くれるか?スルト」
「ライヴァート・キルクス」は、かつては彼(無論、「本物のライヴァート」)の手にあり、16年前にスルト・キルクスへと受け継がれた銀のスティレットを持っていた。
「…え?」
間の抜けた顔から、間の抜けた声が漏れる。
視線は月明かりに煌めく白刃に注がれている。
長きに渡り、あらゆる場所で、数多の鉄を貫き、肉を穿ち、骨を砕き、血を啜ってきた刃である。
その刃は、今、「ライヴァート」のおおよそ左胸の手前にある。先端は彼の手に摘まれているが。
柄を掴み、押し込めれば、それは「彼」の胸に突き刺さる事だろう。
「終わ…ら、せ…る…?」
「そうだ、「終わらせる」んだ。この身体はな、ちょっとした手品の仕掛け以外は、寸分違わず人体の機能を再現している。当然、心臓を貫かれれば、私は死ぬ。そして私に、その後は、もう存在しない」
「製作者」が己の「作品」を解説する。
「彼」もまた、勝負に打って出た。
ここに至りて、虚偽やまやかしは不要である。
必要なのは全ての事実を明かす事。
五里の霧を払い、寸前の闇を照らす。
そこに逃げ込む影は存在し得ぬ。
「さあ、選ぶが良い。スルト・キルクスよ。今度こそ、いや、今度も私を殺す事ができるかな?」
「男」が歩みを進める。
「…来るな。…来ないで…。やめろ…。やめて!」
後退りしようにも女の背中は既に壁に付いている。
振り払うかのように叩きつけられた拳が鏡を割る。
その醜態を目した「男」は、それを少し楽しむかのように眺めた。
そして、突如スティレットを取り落とし、胸を抑え、何かが喉に絡まったかのような苦しそうな咳を吐く。
「手品」の仕掛けが発動し、その口から血痰が飛び出す。
「16年前の悪夢」、その二度目の再演が行われる
やはり、それこそは少女の急所であった。
スルトは足の震えはそのままに、倒れ伏す「兄」に駆け寄り、体位を整え、気道を確保させようとする。
その腕を「ライヴァート」は掴み、抱き寄せ、迫る。
「さあ、スルト!私を哀れと、兄を惨めと思うならば!その刃を取り、我が胸を貫け!」
そして、言うべき言葉、行うべき事柄を全て放った「彼」は、全ての結果を受け入れんと大の字で床に臥した。
いよいよ選択はスルト・キルクスへと委ねられた。
震える手でスティレットが掴まれる。
金属の冷たさが彼女の肌に伝わる。
短刀の柄が彼女の両の手で握り締められる。
荒い息が肩で行われ、早鐘以上の鼓動を心臓が刻んでいる。
目は見開かれ、口は乾き、喉を鳴らして唾を飲み込む。
月光が映し出した長い影が、その両腕を振り上げる。
暫しの沈黙が流れる。
そして、カラァン。と。
金属片が床に転げ落ちる音が鳴り響いた。
「できません…」
「ほう?」
「できる、筈が、ありません。あ、兄上を…、兄上を…、こ、こか、こ、殺、殺すぁああぁっぁああぁああ!!!」
その黒い目から大粒の涙がこぼれ溢れた。
「兄」の胸板に縋り付き、脇目も憚らずに慟哭する。
その頭を「ライヴァート」の手が優しく撫でる。
それは、「庇護者」としての慈しみの仕草であると共に、「勝者」の余裕の現れであった。
「彼」は、最後にして最大の賭けに勝った。
尤も、もしこの場で本当に殺されていたとしても、スルト・キルクスの心と心中する程度は成せていた事だろう。
しかし、「彼」は勝った。完膚なきまでに。
16年間、彼女と共にあった「戦士、スルト・キルクス」の像は今宵砕け散った。
そして、12の時に封じ込められた「少女、スルト・キルクス」の魂は、今、完全に「ライヴァート」の腕の内に包まれている。
よって、次に行われるは、新たなる「眷属」を迎え入れる為、魂を取り込む契約である。
客間には、女の嗚咽が響いていた。
それが治まるまで、「男」は彼女の震える肩を優しく抱いて、ゆっくりと待った。
「…頑張ったな。頑張ったんだな。スルト」
優しく、甘い囁きがスルトの耳に染み入る。
16年の時と経験により色褪せた髪を撫で、背中を優しく、緩やかなリズムで軽く叩く。
スルトは、彼の胸元でかすかに首を振る。
言葉にならない言葉が、咽び泣く喉の奥で震えていた。
「大丈夫だ。何も案ずる事はない。兄は、ここにいる」
その声は、まるで深い森の静寂の中、耳元にだけ響く安息の音のようだった。
スルトがゆっくりと顔を上げる。
その目は、赤く泣き腫らし、唇は震え、頬には涙の跡が残っていた。
「もう苦しむ必要もない」
彼の手がスルトの顎を優しく持ち上げる。
彼女の黒い瞳は揺れ動き、微かに怯えたように見開かれる。
「兄が、お前を救ってやる。お前が独りで泣くことがないように」
彼はゆっくりと顔を近づける。
吐息が触れ合う距離、温かい体温が伝わるほどの距離。
スルトは硬直する。
そして、彼の唇が彼女の唇に触れようとした、その瞬間、
「やぁ…、め、な、なりません!」
スルトの全身が硬直し、反射的に顔を背けた。
目を強く閉じ、震える手で彼の胸を押し返す。
「少女」としての、始めての明確な拒絶であった。
「…ふふ、なるほど」
「彼」は笑った。
それはこれまでの嘲笑ではなく、ただただ微笑ましいとでも言うような、優しい笑みだった。
そして、その腕がスルトの腰を強く引き寄せた。
抵抗は無い。
「大丈夫だ。恐れるな、スルト」
「彼」の腕が彼女の頭を抱き込み、指は彼女の緋の髪を解き、すくい上げる。
「これは、必要な事なんだ。兄として、お前に求めるものだ」
耳元で囁かれた言葉に、スルトの体が一層震える。
だが、その震えは、先ほどの恐怖とは違うものだった。
「私がここに居る証。お前と繋がる証」
「ライヴァート」は、今度は無理強いはしなかった。
「ただ、それを示すだけの意思表示だ。何も怖いことは無い。悪いことでも無い」
顔を離し、ただ、じっと彼女の瞳を見つめ、待つ。
「…兄上…」
か細い声が震える。
「…本当で、ございますか…?」
「ライヴァート」は微笑んだ。
「何を言う、スルト。私が、君に嘘をついたことがあったのかい?」
彼の手が、再びそっと彼女の頬を包み込む。
スルトの瞳から、新たな涙が流れる。
「兄上は…、もう二度と…、私を置いては行かれませんか…?」
「ライヴァート」は、慈愛と確信の笑みを湛えて、答えた。
「勿論だとも」
スルト・キルクスの目は閉じられた。
腕を男の肩に回して、その顔に近づける。
再び呼気が触れ合い、互いの熱が交差する。
そして、此度は、これを妨げるものは何も存在しなかった。
「ライヴァート、にいさま…」
妹の唇が、兄のそれに重なる。
生者が、死者と接吻する。
騎士が、悪魔と交わる。
ここに、崇高だが孤独、しかし誰よりも純粋であった彼女の魂は滑落した。
そして、境界を超え「我が元」へと辿り着いた。