第十話
解放された「ライヴァート」は、寝台に臥したまま激しく咳き込み、呼吸を整えた。
「ず、随分と、情熱的な、出迎え、じゃないか。我が妹よ」
息は絶え絶えであり、辛うじて致命からは免れた状態であるようだ。
呼気を止められ、窒息の手前にあったのは事実であり、吐き出された血も本物ではあった。
しかし、その毒に侵されたかのように変色していた唇は、みるみるうちに朱を取り戻した。
この「ライヴァート」は「葡萄酒」は勿論、現段階においてまだ何も口にしておらず毒がその体に入る筈が無いのだから当然であろう。
尤も、「その魂が最大の毒である」とするならば、否定できる要素は皆無なのだが。
ともあれ、悪魔の力を使う者らしい、悪趣味な設計と言えよう。
まあ、スルト・キルクスが狼狽に至るまでに今暫しの時を要していれば、策に溺れるままに呼吸困難で死に至っていたのはせめてもの愛嬌か。
「彼」自身、その肉体には不慣れであるのだから仕方のない事ではある。
だが、この「演出」はスルト・キルクスの精神へ、いよいよ不可逆的に斬り込んだ。
「その声で、その顔で、喋るな!私を妹などと呼ぶナァ!!」
悲鳴のような絶叫である。
よろよろと立ち上がり、鏡のある壁の方へと後ずさる。
彼女自身、目の前にある存在が「兄」でない事なぞ百も承知である。
それは、目の前で失われたのだから。
喪失し、別離を果たし、記憶の、思い出の奥底にしまい込んだ存在であるのだから。
だが、「目」に映るは、かつて追いかけた兄の姿。
「耳」に聞こえるは、かつて語らった兄の声。
「鼻」には匂いが、「肌」には温もりが確かにある。
だが、その全てが創り物の紛い物。
魔の力で構成された、悪の結晶。
死者を騙り、貴人に偽り、肉親に欺く。
王の法は詐称を許さぬであろう。
神の法は不道を罰するであろう。
そして、何よりも彼女自身が、この愚弄を赦せる筈がなかった。
故にこそ、実力で排除するしかなかった。せねばならなかった。
しかし、二度存在したその機会を、彼女は活かす事ができなかった。
暗闇が晴れた時、彼女はそこに顕現した「ライヴァート」を殺す事ができなかった。
皮肉にも、これまで培ってきた戦士としての技能が、寸前における短刀の軌道の変更を可能とし、「殺さない事」を選べてしまった。
そして今回、「ライヴァート」が偽物であると確信し、衝動のままに害そうとその首に手をかけた時、16年の時を経て再演された「悪夢」は、当時の「喪失の恐怖」をも喚起させた。
失いようもない虚なる陽炎が、手から零れ落ちる事を防ぐべく、今まさにその灯火を捻り潰そうとしてた手を離してまで、彼を助けようとしてしまっていた。
もはや、彼女は抗えない。
もはや、彼女は拒めない。
ならばこそ、彼女は逃げるしかない。
しかし、居室としては快適ながらも、所詮は一部屋。一体、何処に逃れる事が出来ようか。
窓は寝台のすぐそばにある。
戸は向かいの壁にある。
そのどちらもが、向かう途上に「ライヴァート・キルクス」の姿がある。
今のスルト・キルクスに行えるのは、かつての無力な少女の時のように部屋の隅で竦み震える事のみであった。
「そこまで怖がらなくてもいいじゃないか。なあスルト。ほら、昔のように、また兄上と呼んでおくれ」
息を落ち着けた「ライヴァート」が、ゆっくりと寝台から立ち上がり、語りかける。
堂々と、そして悠然と立ち上がる。
騎士として、貴族として、理想的で、完璧な所作で立ち上がる。
「黙、れ。黙レぇ…!」
それは、かつての彼女ならば決して発しなかったような、掠れた声だった。
舌が縺れ、口が動いていない。言葉をうまく紡げない。
無理に発せられた拒絶は、まるで彼女自身に言い聞かせるようでさえあった。
「一体、何をそこまで恐れるんだねスルト・キルクス。この姿こそは、唯一お前が信じ、お前が頼り、お前が敬愛する姿であるというのに」
「ライヴァート」の口、「ライヴァート」の声で、全く別なる者が発言する。
「違、う。貴様は…!お前なんかは…!にい、兄上とは、似ても、似つかぬ!」
呼吸は浅く、乱れ、喉の奥でひゅうひゅうと鳴る。
戦場でどれだけ冷徹な決断を下してきた彼女が、今はただ、野犬に追い詰められた少女のように震えている。
「ほほう?ならば、何が違う?どう違う?教えてみたまえよ。修正してやろう」
「ライヴァート」の声は、実に穏やかだった。
昔聞いたままの優しく落ち着いた響き。
まるで炉端で談笑でもするかのように、火の温もりさえあるかのように語りかける。
だが、その内容は自身が「別物」である事を自ら宣言している。
「やめろ…!そんなもの要らない!必要ない!」
スルトは蹲り、耳を塞ぐ。
空いた片手で癇癪を起こした子供のように手当たり次第で投げつけた。
目の前の本物以上に本物な明らかなる偽物に投げつける。
狙い違わず「それ」の額に命中したのは流石であるが、それで何かが変わるわけでもない。
いや、折れた椅子の脚の命中は、彼の気分を少なからず害させたようであった。
一旦立ち止まり、ふと傍を見やると、スプリングマットレスの「惨状」が「彼」の目に留まった。
顎に手をやり少し考え、何かを思いついたらしく薄く笑う。
そしてその場でかがみ込み、少し苦労して深く深く突き刺さった「それ」を引き抜く。
「準備」が整った「彼」は、見せつけるように肩を落として、労わるかのような優しい口調で次を告げた。
「…わかった。私としてもこれ以上お前が苦悶する姿は見たくない」
その刃先を摘み、柄を突き出す。
「私は消えよう。私を、「終わらせて」くれるか?スルト」
手には、彼女のスティレットが握られていた。