後
いない。
消えた。
何だったんだ。
部屋を見渡してもいない。
窓は閉めた。
玄関に続くドアの前には春人が立っている。
「何なんだ、くそっ」
わけのわからなくなった春人は、びしょ濡れになったスウェットを床に脱ぎ捨てるとベッドに戻った。
知らん。
俺は知らん。
寝る。
やっと眠りについた頃にも、外は嵐のままだった。
—— ピピピピピピ
しつこく鳴るアラームの音で春人は目を覚ました。
ザー!!!!
ビュー!ビュー!!!
外はまだ雨らしい。
はあー。
春人はあくびをすると、まだ覚めきらない体を引きずるようにしてベッドから起きた。
昨日は変な夢見たな。
足元には昨日脱ぎ捨てたスウェットが転がっている。
手に持つと、水分を吸った重い感触がした。
…いや、昨日のは夢だから。
春人は窓の方を見た。カーテンは開けっぱなしだが、窓はしっかり閉まっている。
春人は窓まで行くと、外を見た。
あの縁に立ってたんだよなぁ。
いや、夢だけど。
ハハハと笑ってバスルームに裸足で向かおうとすると、足元に濡れた感触。
見ると、点々と床が濡れている。
…もしかして…
夢遊病?
え、俺が?
ぼうっとしながら時計を見ると、いつも家を出る時間の10分前だった。
やべっ!
慌てて着替えると、春人は雨の中をダッシュした。
☆
駅は人でごった返していた。
案の定、電車が遅延しているらしい。
延々と続く遅延のお詫びのアナウンス。
みんな疲れたような、イラ立ったような顔をしている。
春人はため息をついてホームに上がると、いつ来るのか分からない電車をひたすら待った。
ゲームをする気にもならない。一応、バイト先の店長には連絡しておいたが、こんな嵐の中に牛丼食いにくるやつなんているのかと思う。
が、年中無休とはずっと開いてるから年中無休なのであって、嵐だろうが槍が振ろうが店は開いてるものなのだ。
ぼおっと前を見ていた春人の目の前を、一人の女の人が人をかき分けるように通った。
「あっ!」
思わず春人は大声を出してしまった。周りの注目が集まる。その女の人も、足を止めて春人の方を見た。
昨日の幽霊!
服装は違うけど、昨日の少女だと春人の直感が告げた。
少女…というほどの歳ではないか。おそらく春人と同じ大学生くらいだろうか。丸メガネをかけた目の色は茶色だけど、顔の作りは昨日の少女にそっくりだった。いや、胸はこっちの方がデカいかな。
一瞬キョトンとした表情も、昨日見たものだ。
「あああ!」
春人に負けないくらいの大きな声を出すと、その人が春人の方に近づいてきた。
「昨日の!お兄さん!わー!こんなところで会えるなんて!昨日はありがとうございました!」
ガバリと頭を下げられた春人に周りの目線が突き刺さる。にこにこと笑った顔は、人懐っこい子犬のようだ。
『なんだなんだテメーら朝っぱらから』という声が聞こえてきそうだ。
「や、大丈夫だから。頭上げて。」
「はい!昨日は濡れませんでしたか?濡れましたよね、土砂降りでしたもんね。いきなり消えちゃってごめんなさい。ちょっと私のコントロール外で。ふらふらしてたら風に飛ばされちゃったんです。助かりました!さすがに落ちたら痛そうだったので。」
「あ、うん、分かった、分かったから。もう少し声抑えて。」
「ああ!ごめんなさい。お前の話は飛びすぎだってよく怒られるんですけど。えっと、私、来夢と言います!お兄さんのお名前伺ってもいいですか?」
「…春人です。」
周りの注目に耐えられなくなった春人は、小さい声でボソボソと言った。
「春人さん!春の人ですか!ピッタリですね!」
「…どうも。」
「今度お礼に伺います!あの状態だと手土産持てないんですけど!手ぶらでいったらマナー違反ですよね?」
来夢がへにゃりと眉を下げた。
…や、もう深夜に来てる時点でマナーはアウトだから。
とはさすがに言えない。
てかフツー浮かないし。
「いや、いいよ。助かったならよかった。」
「はい!」
「…ええと、じゃあ。」
「はい!また!」
来夢は元気よく返事をすると、人でごった返すホームを突き進んでいった。
なんなんだ、マジで。
☆
—— パラ
春人は雑誌をめくった。
春服の特集なんてまったく頭に入らない。ただ、なんとなく、なんとなくだ。
そろそろかな。
春人はチラチラと窓の方を見た。スマホで時間を確認すると、ちょっと前に深夜を回ったところだった。
いや、別に待ってるわけじゃない。
今日は来ないのかもしれない。
だから、待ってねーし!
もう寝ようと厚手のカーテンを閉めに行くと、窓の外に白い服がにょきっと見えた。
「うわっ!」
思わず叫んでしまった。
赤らめた顔をごまかすように咳払いすると、春人は窓を開けた。
「そんなとこに突っ立ってるんじゃねーよ!鍵開けとくからいつでも入ってこいって言ってるだろーが!」
春人はぶっきらぼうに言った。
「ふん。他人の家に勝手に入るなんてマナー違反だろう。私はそんなことはしない。」
「誰かに見られたらどうするんだ!夜中に女をベランダに放置してるなんて噂が立ったら困るだろうが!俺がっ!」
そう言いながら、春人は来夢を家に通した。
「春人は心配症だな。大丈夫だ、私の姿は他人には見えん。」
来夢は白と黒でまとめられた部屋にある、唯一のパステルカラーのピンクのクッションに座った。春人が買ってきたものだ。
違う、別に来夢のためじゃねえ。あんなヒラヒラした服で浮いてたら目のやり場に困るから座っとけっていう意味だ。
座ったら座ったで、スラリと伸びた白い脚が見えて困っている。
「見えない…のか?ほんとに?」
「あー、正確に言うと、私の姿を見たら寝るな。」
「は?見た人がか?」
そうだ、と来夢は頷いた。
「それやべーじゃん、車とか運転してたらどうするんだよ。」
「だからなるべく上の方を浮いてるんじゃないか。」
ハハハと来夢は笑った。
「ほんと、ほんっとに気をつけろよ!」
ハハハと笑いながら来夢は消えた。
…はー。マジ、意味わかんねー。
今夜も春人は寝不足決定だ。