ハッピーハートデリバリー
ハッピーハートデリバリーで働いているのは、社長の江莉さんと宮田くんの二人だけで、ふたりとも入社したばかりのわたしを歓迎してくれているけれど、電話番(それも滅多に鳴らない)以外とりたててやることもなく、期待されて採用されたのか不安になる。一月に入社して二週間、いまだ引っ越しや大きなデリバリーの依頼は一件もない。たまに入る仕事はといえば、植木鉢を移動させてほしいとか、買い物しすぎて荷物が持てないので家まで送ってほしいとか、便利屋のような仕事ばかりだ。この会社、今に潰れるんじゃないかと思う。
「忙しいのは二月なんだ」
宮田くんはのんびり構えている。バレンタインの依頼が入るらしい。それにしても、チラシを配るとか、ホームページの体裁をよくするとか、もっと積極的に動くべきなんじゃないか。仕事が入ってくるまでただ待っているだけなんて、社員の姿勢としてどうかと思う。わたしは時間を持て余し、イライラしてばかりいた。
これも前職が忙しすぎた後遺症なのかもしれない。激務から解放されて、自分のペースでゆっくり働きたいとは思っていた。けれど、ハッピーハートデリバリーはあまりにもギャップがありすぎて、ペースがつかめない。
ふと見やると、江莉さんは文庫本を片手にのんびりコーヒーを飲んでいた。ため息が出た。しかたなく入社時に渡された辞典をぱらぱらとめくる。言い換え辞典。「役に立つのよ」と江莉さんは言っていたけれど、こんなものがいったい何の役に立つというのだろう。
融通がきかない人だね→一本筋が通っているね
なんでできないの?→〇〇さんはこうしているよ
ちっとも反省していないな→課題が見えてきたから一緒に取り組もう
ぽたっと水滴が落ちて、開いていたページにしみができた。天井を見上げたが、雨漏りではなかった。涙だった。自分でも気づかないうちにわたしは泣いていたのだ。
こんなふうに言ってもらえていたら、わたしは会社を辞めずに済んだかもしれない。そう思うと、胸がぎゅっと熱くなった。向かいの席の宮田くんに涙を見られないうちに袖でぬぐった。
九月までホームページの制作会社で働いていた。あこがれの仕事だったけれど、想像以上にきつい仕事だった。身も心も擦り減って、もうだめだとギブアップし、退職した。それから体調をもどすのに数か月かかった。貯金は底をつき、途方に暮れた。働き口を見つけなければアパートの家賃も払えなくなってしまう。ハッピーハートデリバリーの求人を見つけたのはちょうどその頃、年の瀬も押し詰まった十二月のことだった。履歴書を送るとすぐに採用通知が来て、即入社を決めた。仕事を選んでいる場合ではなかった。
二月一日。滅多に鳴らない事務所の電話が鳴った。
「はい。ハッピーハートデリバリーです」
まだ慣れない社名を告げると、しばらく沈黙が続いたあと、
「チョコを届けてほしいんです」
かぼそい声で少女が言うのが聞こえた。
「少々お待ちください」
これが宮田くんの言っていたバレンタインの依頼なのだなと思いながら、保留ボタンを押し、江莉さんに伝えた。
「面談に来てもらって」
「え?」
江莉さん、今、面談って言いました?
「来てもらって、依頼を受けるかどうか決めるのはそれからよ」
デリバリーの依頼を受けるのに面談というのはどういうことだろう。理解できず頭が混乱した。けれど、いつまでも電話口で依頼人を待たせるわけにはいかない。
「一度、事務所にきていただけますか? 」
わたしが言うと、少女はすんなりアポイントを受け入れてくれた。
◇勇気を出して
二月三日。三原愛美は約束通り事務所にあらわれた。まっすぐな黒髪を二つに束ね、制服のスカートはきちんと膝丈まであった。電話での印象通りの真面目そうな少女だ。コーヒーはまだ飲めないだろうから、代わりに紅茶を淹れた。江莉さんから同席するよう言われていたので、わたしは給茶してからすぐ江莉さんの横に座った。
「新川くんにチョコレートを渡したいんです」
「こちらで受けてくださるんですよね」
愛美が言った。はっきりと意思のある依頼だった。
「ええ。まあ、そういうことはやっていますけど。どうしてうちに?」
江莉さんが質問をはじめた。これが面談なのか。
「自信がないんです。新川くんは女子に人気があるし、わたしなんかが告白したって、きっと馬鹿にされるだけだし」
「その新川くんっていう子は人を馬鹿にするような人なの?」
「そんなことありません」
愛美がいきなり立ち上がり、強く否定した。
「それならなぜ自分で渡そうと思わないのかしら」
江莉さんも立ち上がる。ちょっとひどい。これじゃあ、愛美に喧嘩をけしかけているみたいじゃないか。愛美はお客様だ。届け先の住所を聞いて、チョコレートを送ってあげればいいじゃないか。それなのに、彼女を追い詰めるような質問ばかりして、江莉さんは何を考えているのだろう。
「新川くんに自分でチョコを渡すなんて、できる気がしません」
「そうか。でもね、今回の依頼は残念ながら受けられません」
「どうしてですか?」
少女が顔をあげた。わたしも同じことを叫びそうになり、口をつぐむ。
「愛美さんから直接渡されたほうが、新川くんは嬉しいと思うから」
「でも、そんなの絶対にできないっ」
両手で顔を覆い、愛美は机に突っ伏してしまった。肘がティーカップにあたり、こぼれた紅茶がテーブルに小さな水たまりを作った。わたしは急いで給湯室に戻り、ふきんをとってきた。
「愛美さん。あなたは臆病なんかじゃない。きっと心がとても細やかな人なんだわ。だからあれこれ先のことを考えてしまって心配になるの。その男の子があなたのことを好きになってくれるかとか、チョコをプレゼントして重いと思われないかとか、そういうことを先走って考えてしまうのね。でも、それはわたしたちがあなたの代わりにチョコを届けたところで変わらないわ。だったら、直接渡してみない? 答えがイエスでもノーでも、その子はちゃんと受け取ってくれるはずよ。その子のこと、信じているんでしょう」
愛美が顔をあげた。目が真っ赤に腫れあがっている。
「わたしたちがついているわ」
江莉さんが言った。沈黙が流れ、ふたりはしばらく見つめあっていた。
「わかりました。やってみます」
愛美はそう言って事務所を出て行った。まるで魔法だ。それにしても、と思う。せっかくの依頼を断ってしまったのだ。江莉さんは、会社としてのダメージを考えていないのだろうか。
「どうかしてるわ」
心の中でつぶやいたつもりが、宮田くんに聞こえてしまったみたいだ。
「江莉さんは本当に必要な仕事しか受けないからね」
宮田くんはにこにこしていた。
すっきりしないままデスクに向かうと、言い換え辞典に付箋が貼ってあった。自分で貼った覚えはないから、江莉さんか宮田くんが使ったのだろう。付箋のページを開くと、「臆病」「勇気がない」→「心が細やかで先の心配ができる人」と書いてあった。
◇天国に届けるチョコレート
二月五日。事務所の扉を押して入ってきたのは、若い女の人だった。紺色のジャンパースカートのうえからもおなかが大きいのがわかる。妊婦さんだ。予定日はいつだろう。カフェインの入っていない飲み物がいいと思い、わたしはルイボスティーを淹れた。
「田畑恵さんですね」
「チョコレートをお届けする相手は、たしか息子さんでしたよね」
江莉さんの面談はすでに始まっていた。急いで隣に座る。すると、江莉さんの口から思わぬ言葉が飛び出した。
「息子さんが亡くなったのはいつ?」
亡くなっている? 亡くなった人へのデリバリー? そんなの無理に決まっている。あわてて江莉さんの顔をのぞきこんだ。江莉さんは、わたしには目もくれず、恵さんだけをまっすぐに見つめていた。
「五年前。交通事故でした」
恵さんが喉をつまらせた。
「あの時わたしがちゃんと手をつないでいれば、陸は轢かれずにすんだのに」
依頼に応えられるわけないのに、江莉さんはじっと耳を傾けている。このまま恵さんの話を聞いていていいのだろうか。疑問を抱きながらも江莉さんがどう対応するのか知りたかった。
「たったひとりの息子を守れなかったのに、もうひとり子供を産もうとしているなんて勝手ですよね。陸は許してくれるはずない」
悲痛な表情でおなかに手をあてている恵さんが不憫に思えた。陸くんを事故で失った日からずっと、恵さんは自分を責め続けてきたのだ。
「わかりました」
江莉さんが言い、わたしにチョコレートの包みを受け取るよう合図した。えっ? いったいどうするつもりなのだろう。
「陸くんにお母さまの思いを届けてまいります。一週間、お待ちいただけますか」
「お願いします」
そう言って、恵さんはデリバリー代と書かれた封筒を差し出した。江莉さんは、静かにそれを受け取った。縋るような目をして、江莉さんを見つめていた恵さんが気の毒に思えた。
恵さんが帰るなり江莉さんを問い詰めた。
「ちょっとひどくないですか? 心が弱っている人からチョコレートやデリバリー代をうばっておいて、できもしない仕事をうけるなんて。なんですか、これ。新手の詐欺か何かですか? ああ、もう、こんな会社だとは思いませんでした」
江莉さんが眉をひそめた。無視された、と咄嗟に感じた。ハッピーハートデリバリーに就職して、やさしい上司にめぐりあえたと思っていたのに、本当は鬼だった。これじゃあ前の会社と同じじゃないか。こんな会社、就職しなければよかった。
「まあまあ落ち着いて」
宮田くんがやってきて、わたしの肩をたたく。緊張していたところにいきなりぽんぽんされたものだから、どう反応していいかわからない身体が余計に固くなった。
「仕事はこれからだよ」
宮田くんが言った。
「手紙を書くんだ」
恵さんへの手紙を書いたのは宮田くんだった。一週間後、再びやってきた恵さんはその手紙を読み、涙を流した。
ママへ
ぼくにおとうとができるんだね
うれしいなあ
はやく あいたいなあ
ぼくのおもちゃ、かしてあげてね
トミカもプラレールも
ぜんぶあそんでいいからね
ママ、だいすきだよ
りくより
「ありがとうございます」
そう言って恵さんは何度も何度も手紙を読んだ。亡くなった陸くんのことを思い出しているのか、恵さんは涙を流しながら時々微笑みさえ浮かべていた。
「わたしはこの子の母親になってもいいのでしょうか」
江莉さんがうなずくと、恵さんはようやくほっとしたみたいに、おなかをやさしく撫でていた。
「海、元気で生まれておいでって。お兄ちゃんが。」
「海くんっていうのね。いい名前」
江莉さんが言った。
「陸と海か。最強の兄弟だな」
まるで自分の弟が生まれてくるみたいな口ぶりで宮田くんが言った。恵さんが帰っていくのを見送った。何度も何度もふりかえっておじぎをする恵さんはもう泣いてなんかいなかった。ハッピーハートデリバリーの仕事が少しだけわかった気がした。
◇半世紀もの愛をこめて
二月十二日。次の依頼はわたしに任せると江莉さんから言われていたので緊張して待っていた。やってきたのは品のいいおばあさんだった。笠原綾子さん。パープルのオーバーコートに釣り鐘型のクローシュの帽子をかぶっていた。コーヒーを淹れて出すと、綾子さんは、ほっこり笑って「おいしいわ」と言ってくれた。うれしくて、緊張が少しだけ和らいだ。
綾子さんがバッグから出したのは、まるで宝石箱のようなチョコレートだった。引き出しが三つもついていて、つまみも可愛らしくデザインしてある。旦那さんへのプレゼントだろうか。
「ずっと好きだったのに、今まで一度もチョコを渡したことがないのよ」
綾子さんはそう言って笑った。
「もう五十年になるの。相川穂高くん。中学の同級生だった。その頃のわたしは損な生き方ばかりしていてね。背中からセーラー服のスカーフをぬきとられたり、上履きがなくなったり、体操着がゴミ箱に捨てられていたこともあったわ」
目の前の穏やかな綾子さんからは微塵も想像もできない。ひどいいじめだ。
「それでもわたしは毎日学校へ通った。どうしてだかわかる? 穂高くんに会えるからよ。穂高くんが わたしをかばってくれるわけでもなんでもない。完璧な片思いだった。それでも、わたしにとって穂高くんの存在そのものが心の支えだったの。のびのびしていて、好きな野球に没頭していて、あこがれだった」
遠くを見るような目をして語る綾子さんは、まるで少女のようだ。
「ふふふ。わたしったらすれちがいざまに穂高くんに『あほ』って言われたのにうれしかったのよ。なんだかとてもやさしい言葉に聞こえて。負けるなって、がんばれって言ってもらえたようなそんな気がしていたの」
とんでもない勘違いだ。それにしても三十年以上連れ添ったご主人がいて、お子さんもお孫さんもいるというのに、この人はどうして今さら昔の片思いの相手にチョコを贈ろうなんて思いついたのだろう。贈られた相手だって迷惑ではないか。できれば引き受けたくない依頼だった。
「穂高くんとは卒業以来一度も会っていないの。今どこでどうしているかもわからないわ。でも、ちゃんとお礼が言いたいんです。がんばって生きてきたこと、穂高くんに胸を張れるような生き方をしてきたこと、ちゃんと伝えたいんです」
相手の住所すらわからないのに、デリバリーの依頼に来たのだろうか。いや、そうじゃない。綾子さんは告白したいわけではない。長年の気持ちに整理をつけたいだけだ。であれば、このまま受け取るしかない。
ふりかえると、江莉さんがゆっくりとうなずいた。受けていいという合図だ。半世紀もの思いが詰まったチョコレートを受け取り、わたしは綾子さんと次の約束をした。
綾子さんへの手紙はなかなか仕上がらなかった。何度も書いてはゴミ箱に捨て、指に大きなまめができた。こんなふうに誰かを思って仕事をするのは初めてだった。気づくと綾子さんのことばかり考えていた。洗濯物を干しているときも、お風呂に入っているときも、眠りにつこうとしているときも。
少しは手伝ってくれてもよさそうなのに、江莉さんはわたしの文章を直そうとはしなかった。そのかわり、わたしが頭を抱えていると、お手製のはちみつ入りドリンクをそっとデスクに置いてくれた。宮田くんは、別の仕事で忙しそうだった。わたしと同じく、デスクで手紙を書いていることもあった。
木村綾子さんへ
突然の贈り物で驚きました。でも、うれしかったです。僕のことを今でも覚えていてくれたのですね。あの頃、必死で闘っている木村さんに僕は何もしてあげられなかったけれど、木村さんが今幸せに暮らしているのならよかったです。どうかこれからもご自分のことを大切にしてください。
僕のことを好きでいてくれてありがとう。
相川穂高
きっと相川さんは綾子さんが結婚していることを知らない。だから手紙の宛名は綾子さんの旧姓の木村さんに宛てて書いた。それにしても綾子さんの片思いの相手、相川穂高くんがどんな人生を送っているのか何ひとつ情報もないのだから困ってしまった。結局、綾子さんへのわたしの願いを書いたようなものになってしまった。
事務所にやってきた綾子さんは、わたしが書いた短い手紙を長い時間をかけて読んだ。それは、今まで生きてきた人生のひとつひとつのシーンを思い出しているかのようだった。どきどきしながら、わたしはじっと綾子さんを見つめていた。
読み終わったあと、綾子さんがとても晴れやかな表情をしていたので、わたしはほっと胸をなでおろした。
「ありがとう。大事にするわ」
綾子さんはわたしが書いた手紙を、胸に抱きしめて帰っていった。背筋がぴんと伸びた背中は、ちっともおばあさんに見えなかった。
「おつかれさま。あなたに頼んでよかったわ」
江莉さんがわたしのことをほめてくれた。仕事でほめられたのなんて初めてで、なんだかくすぐったかった。見ていた宮田くんが親指をたて、グーのサインを送ってくれていた。
二月十四日。江莉さんが車で事務所にやってきた。
「行くわよ」
号令がかかると、宮田くんがせっせと車に荷物を積んだ。依頼人からもらったチョコたちだ。恵さんのや、綾子さんのもある。どこへ持っていくのだろうと思っていたら、わたしも車に乗るよう言われた。わたしは江莉さんと並んで後部座席に座った。宮田くんの運転で、十五分ほどドライブする。
着いたのは、こども園だった。中庭に車を停めた宮田くんが、事情があって親と一緒に暮らせない子供たちが生活しているところだと教えてくれた。
「今年のぶんです」
車からチョコレートをおろし、出迎えてくれた園長先生に渡す。園庭に立ったわたしたちは、いつのまにか子供たちにかこまれていた。
「ハッピーバレンタイン!」
宮田くんが笑顔で手をふると、子供たちが「きゃあっ」と歓声をあげた。まるでアイドルだ。
「ぼくもここの出身なんだ」
宮田くんが言った。宮田くんのことを少しも知らないで、のん気なやつだとばかり思っていたわたしは恥ずかしくなった。
バッグにしのばせていたチョコを江莉さんと宮田くんに渡したら、ふたりともびっくりしていたけれど、喜んでくれた。
その時、事務所の扉が開いて、見覚えのある少女が入ってきた。愛美さんだった。
「愛美さんっ」
江莉さんが叫んで、そばにかけよった。
「ちゃんと渡せました」
すがすがしい顔をして、愛美さんが言った。
「ふられちゃったけど」
照れながら笑う。
「でも、自分でちゃんと渡して、少しだけ自信が持てました。今日はそれを言いに来たんです。ありがとうございました」
一皮むけたようなすっきりとした表情をしている。
「それじゃあ、今からみんなでバレンタインパーティーでもしない?」
江莉さんが言うと、
「いいですね。みんなでチョコ食べますか」
宮田くんが言った。
「わたし、飲み物淹れてきますね」
そう言って給湯室に向かった。どうしてだかわからないけれど、だんだん楽しくなってきた。チョコのお供に、わたしはあたたかいココアを選んだ。飲んだらきっと身体の芯からあたたまってみんな元気になる。江莉さん、宮田くん、そして愛美さん。それぞれの顔を思い浮かべ、ホットミルクで割ったココアをカップに注ぐ。やさしく甘い香りがして、わたしはとても満たされた気持ちになっていた。