解を知るも、そこは深き
昨日と変わらない古ぼけた橙色の壁。
地震が来たら真っ先に崩れるのではないかと、不安になるオンボロアパート。「一〇一号室 佐伯」と書かれたインターフォンを鳴らすのは天神に譲った。
リンゴーンと錆び付いた音とともに、無機質な女性の声が返ってきた。
「どちら様ですか?」
「突然申し訳ありません。僕は、天神一と申します。佐伯カコさんのお具合はいかがかと、お伺いに参りました」
「天神……?」
警戒した低い声。
それに重なるように、タタタッと部屋の中から可愛らしい足音が近付いてくる。「あっ、こら! ひな!」インターフォン越しにも女性が慌てたのが分かった。
ガチャっと小さくドアが開き、小さな女の子が隙間からひょっこりと顔を覗かせた。
「やっぱり神様のお兄ちゃん! あ! コンビニのお兄ちゃんも! ママ! 昨日の人!」
ひなはあどけない笑みを浮かべ、力一杯ドアを開く。こちらを戸惑うように見る女性と目が合った。四十代くらいだろうか。逆光で、表情はよく見えない。
俺と天神は、揃って会釈をした。
少しの気不味い静寂の後、ひなの母親らしき人物が口を開いたのが見えた。
「……どうぞ、お入りになって」
「お邪魔致します」
「お、お邪魔します」
後ろ手でドアを閉め、天神の真似をするように靴を揃えて廊下へ上がった。少女は駆け足で女性の腰に嬉しそうにしがみつく。
案内された部屋は、吐瀉物と佐伯カコが居ないことを除けば、昨日とさして変わっていなかった。
「ごめんなさい。母はまだ帰って来ていないの。今日退院のはずだったのだけど、急遽もう一日入院することになって」
化粧っ気のない肌は青白い。引き詰めた髪に艶はなく、白いものが交じっている。疲労の見える目には、黒ずんだ隈が浮かんでいた。
彼女は背丈ほどの冷蔵庫から二リットルのペットボトル麦茶を取り出して持ってくる。戸棚からレトロな花柄のグラスを二つ、ひなが取り出して俺たちの前に置いた。
「どうぞお構いなく」
「構わないわけには行かないわ。母の恩人なのに。お茶くらいしか出せませんが、どうぞ」
トプトプトプとグラス半分が透き通った茶色で満たされる。躊躇い気味に触れた麦茶は思いの外冷たい。遠慮がちに口に含んだはずが、気がつくと飲み干していた。思ったよりも喉が渇いていたらしい。
クスリと笑う声が聞こえて、気恥ずかしさで、耳が熱を持つ。ひなの母親は、空のグラスに並々と麦茶を注いでくれた。
トンっと、麦茶を床に置いた音がする。見れば、ひなの母親は正座をしていた。
「母を助けてくださり、ありがとうございました」
後頭部が見えるほど、深々と頭を下げる女性。小さな背中は微かに震えている。床についた手の爪は短く、指もボロボロだった。はるか歳下の自分たちに、ここまで頭を下げる人間を、俺は初めて見た。
声の掛け方もわからない。
何故、親子で離れて暮らしていたのか。何をしているのか。これから、どうするのか。
そんな下世話な質問が浮かぶも、すぐに飲み込んだ。無関係な自分が好奇心で尋ねていい質問ではない。
ただ、学生の自分には到底分かり得ない苦労をしてきた人なのだと感じた。
ひなが不思議そうに母親を見つめているなか、天神は、さらりと事も無げに告げる。
「顔を上げてください。僕たちは当然のことをしたまでですから」
「でも……」
「それに、お礼なら彼に。彼が気付いたのです」
「え?」
三人の視線が自分に集中する。ぼんやりと彼女の手元を見ていた俺は、内心酷く焦った。ひとまず空気を読んで、咄嗟に曖昧な笑みを浮かべてみせる。
「彼は、ここから十分ほど離れたコンビニで働いています。一昨日、ひなちゃんが一人で買い物に来たことを不思議に思ったようで、僕に相談してくれたのです」
「ひなが、一人であそこまで買い物を?」
「ええ、おしろいが欲しかったみたいで」
それまで、申し訳なさそうに眉を八の字に下げていた女性の目が、キッと吊り上がる。少女の細い肩をガッと掴んだ母親は、般若のような顔をしていた。
「ひな! どうしてそんな危ないことをしたの! おばあちゃんと一緒じゃないときに出掛けたらダメって言ったでしょう!」
少女の肩がビクリと跳ねた。みるみるうちに、目に涙が溜まっていく。「だって……」と話し掛けた言葉は、母親の剣幕によって霧散する。
「どうして、言うことを守らなかったの! ひな!」
ひなは何も言わない。否、言えない。ただ、嗚咽ともにボロボロと零れていく涙。
見るも痛々しいその姿に、俺は咄嗟かつ庇うように口を挟んでいた。
「ケ、ケサランパサラン!」
「え?」
「ひなちゃんは、ケサランパサランを育てようとしたみたいなんです」
「ケサランパサラン?」
いつの間にか立ち上がっていた天神が、本棚の一角に置かれた空のジャム瓶を持ち上げる。すぐそばには、見覚えのある小さな四角いケースが置かれていた。
そのまま、コンパスのような脚で、ひなに近づく。
「これだよね?」
「……!」
ひなは、小さな両手でそれを大事そうに受け取り、ぎゅっと抱きしめる。母親は、いまいち状況を理解出来ていないのだろう。
少女は涙を手のひらで拭うと、眉間に皺を寄せる母親に、ジャム瓶を女性の目と鼻の先に突き出した。
「ママ、見て。ひな、ケサランパサラン、捕まえたの。ケサランパサランを捕まえたら幸せになれるって、ママが教えてくれたでしょう? だから、ママにもいっぱい幸せになって欲しくて……」
母親は戸惑っているようだった。俺は女性と同じように、眉間に皺を寄せて、空に見えるジャム瓶に目を凝らす。
そこには、細い糸で出来たような、大きな白銀色の綿毛が収まっていた。
しげしげと訝しむように見ていた女性が、ハッと何かに気付いた表情へと変化する。
「……それで、おしろいを一人で買いに行ったの?」
「うん……。おばあちゃん、寝てたから……」
少女は目を真っ赤にして、ぐずぐずの鼻を啜る。声は震え気味で、頬には涙の跡が何本も付いていた。
「大きくなったら、ママにあげる」
ひなが懸命に、ひまわりのように笑う。
瞬間、ツーっと透明な水滴が一つ。母親の頬を流れると、彼女は優しくひなを抱きしめていた。
「ごめんね、ひな。ごめんなさい……」
「ママ? どうしたの?」
二人は涙を零しながら抱き合う。俺たちは、彼女たちが再び笑顔になるまで、ただ静かに見守っていた。