空論の答え合わせ
天神おすすめのかき氷を断り、昨日と同じアイスコーヒーを待っている間。彼は、徐にテーブルの上に常備されていたコーヒー用ミルクを掴んだ。
ペキッとプラスチックの折れる音がするどうするのかと俺は黙って見守るなか、あろうことか、男はかき氷に掛け始めた。
それも二つ。
シアン色の山肌に、突如、乳白色の道ができる。
天神の所業は、これだけで終わらなかった。ザクザクと氷の山を崩しては、シロップの海に沈めていく。少し前まで氷だった液体が、綻んだ男の口元に運ばれていく。俺は、今度こそ天神の前に置かれる飲食物に、同情の念を禁じえなかった。
スッと洒落たマークが押されたコースターが俺の左前に置かれる。マスターは音もなくアイスコーヒーの入ったグラスを乗せた。「ごゆっくり」と言う優しい声色に、俺の心が少しばかり癒される。
「貴殿の飲み物も来たことだ。さあ、始めようじゃないか」
背中にどっしりとした支柱でも入っているのか。背筋を美しく伸ばした天神は、両腕を大袈裟に開く。彼の満面の笑みで、答え合わせは始まった。
彼に倣い背筋を伸ばそうとして、止めた。背骨ではなくワイヤーと友人達には揶揄される俺の背中。話している間、ピンと張ったままでいることは恐らく出来ない。それなら、普段通りにしよう。
コクリ、と一口だけアイスコーヒーを飲む。唇が湿って、暑さでカラカラになった喉は潤う。けれども、出てくる言葉は滑らかにはいかなかった。
「佐伯カコさんは、熱射病だったらしい。一日入院するって。昨晩、美羽さんに電話して聞いた。……なあ、いつから気が付いていた?」
一瞬だけ過ぎる、不気味な間。だが、当然の如く、それは破られる。
「やはり貴殿は稀有な人間だ!」
感動するように出された声。
早速会話が成り立たない。
天神の口角がゆるりと持ち上がり、切れ長の目を見開く。長い両腕は、大袈裟なほど斜め上に伸ばされていた。
俺には、何が稀有なのかさっぱりわからない。聞いたところできっと無意味だ。無駄なエネルギーを使いたくもない。故に、続きを促すように無言で視線を返した。
「どうして僕が気付いていたと思ったんだい?」
「佐伯さんに会う前。お前はコンビニで、氷とポカリと水、それに冷えピタを買っていた。熱射病になっていると思ったから、わざわざ買って行ったんだろう?」
「ご明察。でも、僕は気が付いていたわけではないよ。あくまで最悪の可能性を想定していたに過ぎない。昨日の貴殿の語り。それなりに簡潔ながら、とても情報に満ちていた。それらが全て正しいのだとしたら、老婦人の身に何か起きていると考えるのが、至って普通の推論だった」
「普通?」
「糸口は三つ。一つ、貴殿の腰くらいまでの少女。一つ、夕刻。一つ、今の季節」
シャクシャクという音すらしなくなったかき氷を、彼は口に含めて満ち足りた顔をしている。パッと顔を上げた天神と目が合う。彼は、俺に向けて手を伸ばした。
「貴殿の身長は?」
「……一メートル七十センチ」
本当は数ミリ足りないが、五パーセント未満なんて、誤差の内だ。
「身長約一メートル七十センチの日本人男性の腰の高さは、平均一メートル前後。身長一メートル前後の日本人女児の年齢は、ざっと三歳から四歳。それくらいの子どもが、一人で夕方にコンビニ来るのは、有り体ではない。実際に、よく老婦人と訪れていたと貴殿も話していた。これを逆に考えよう」
「逆?」
「そうさ。つまり、老婦人に何らかの事情があり、少女は一人で来るしかなかったと」
俺は不本意ながら感心した。非常に理に適った発想だ。俺は、白く曇るグラスを見つめて呟く。
「なるほどな」
「今は残暑も厳しい八月。
自宅であっても気が付かずに、熱中症や熱射病になりやすい季節。特に、ご高齢になると、自身の体温を調整することに疎くなってしまうものだからね。
ここまで推論したら、導き出される最悪の状況とは簡単だ。
老婦人が家で倒れていることさ。
一般的な三、四歳の子供が救急車を呼べる可能性は低い。だから、僕は急いで向かったというわけさ」
「間違っているとは思わなかったのか?」
「往々《おうおう》にして、人命よりも優先されることはない。それに、お節介をするのは、好きなんでね。もっとも、間違う可能性も考えて、保険は掛けておいたよ」
「保険?」
「フェイスパウダーさ」
「フェイスパウダー?」
俺はオウムのように繰り返す。
締まりのない口をポカンとさせた顔が、ヘーゼルの瞳に映っている。俺は慌てて、自分の唇をキュッと閉じた。
「フェイスパウダー。昔の言葉で言えば、おしろい。それが、彼女が求めていた『しろいこな』の正体さ」
「じゃあ、別れるときに渡していたのは……」
「そう、フェイスパウダーだよ」
「なんで、そんなものを欲しがったんだ?」
「鍵は、少女がしていた手の形と晩夏さ」
「蕾の形?」
天神は、にこりと笑った。
スッとスリーピースから手首を伸ばし、パンッと良い音をさせて両手を合わせる。そのまま、俺に見せるように、彼の筋張った手がふっくらと蕾を作った。
「この形にする理由はなんだと思う?」
俺も彼と同じように、両手で不恰好なチューリップのような形を作る。この形に何の意味があるというのか。
骨張った自分の両手を上下左右から注意深く観察していく。開けて閉じて。それを繰り返していると、小さな風と共にパカパカと音が鳴った。
風が起きて音が発生する。即ち、そこにある程度の密閉空間が出来ていることを示した。節くれだった蕾を口元に当て、眠るように目を瞑る。
薄れ始めた記憶の中。一昨日の夕方。少女の蕾は終始、閉じたままだった。
「そうか、ひなちゃんは飛行する物体を手の中に持っていた。それも非常に軽い、潰すことのできないものを」
「良いね。想像以上の解答だ」
眼前の男は恍惚とした表情を浮かべる。白い肌は紅潮し、拍手でもしそうな勢いで身を乗り出す。だが、まだ答えには至っていない。
飛来するもの。それも非常に軽いもの。
羽か? いや、虫か? それとも、花か?
そうだとしても、何故そんなものを?
いくら考えても、これ以上は出てこなかった。俺はクーラーで乾燥し始めた唇を噛んだ。
「ケサランパサラン」
底の見え始めた青い液体飲みながら、ポツリと天神が溢す。いつの間にか、かき氷が入っていた器には紙ストローが刺さっていた。
「ケサランパサラン?」
「江戸時代以降に民間伝承により知られる生物さ。綿毛のように白く、ふわふわと空中を飛来する。おしろいで育てることができ、持ち主に幸運を与えると知られている」
「はあ……」
それがどうしたと言うのか。取り繕うことを止めた俺は、逡巡を巡らすこともない。天神が、そんな俺を見て、フッと小さく笑った。
「ケサランパサランには諸説あってね。残暑から初秋にかけて飛ぶ、アザミの種がついた綿毛が正体だと言う人もいる。ここまで言えば、もう分かっただろう?」
無邪気を装う口調。挑戦的な目。弧を描く薄唇。突然の沈黙。
俺は平静を装い、氷で薄まったアイスコーヒーにガムシロップを入れた。備え付けの紙ストローで、ゆっくりと渦にならないよう回す。液体が緩やかな円を描いていく。
「つまり、ひなちゃんは捕まえたアザミの種をケサランパサランだと思ったわけか。そして、育てるために『しろいこな』を買いにコンビニに来たと」
「妥当な空論だね」
「馬鹿にしているのか?」
「まさか。でも、僕たちが出来る答え合わせはここまでだ。だから、正解を聞きに行こうじゃないか」
「正解を聞きにいく? どこへ?」
「勿論、あのアパートさ」
共に行かんとばかりに、バッと空の手が差し出される。
愉快活発。破顔一笑。
俺は、ぬるくなった水っぽいアイスコーヒーを一息で飲み干す。ニコニコと満面の笑みを浮かべる天神の手を取る代わりに、俺は伝票を握り締めて、会計へと歩いて行った。