ちょっとした違和感
グラスに水滴がつき始めたアイスコーヒーに、弧を描くようにガムシロップを注ぎ入れた。
紙ストローでゆっくり混ぜれば、トロリとした液体はゆらゆらと攪拌されていく。大きくゆったりとした動作でも、二つの液体は十分に混濁が為される。
この僅かな時間で、自分の心も幾ばくか落ち着きを取り戻していた。
俺は、ふぅと一息つくと重たい口を開いた。
「聞いて欲しいことがあるんだ」
「ああ、聞こう」
俺が言い終わる前に、天神は被せるように鷹揚に答える。腹立つほどに良い声で、ノータイムリプライ。
心の平静はすぐに乱された。
なんなんだ、この返答の早さは。口と脳が直列なのか。彼の思考回路に、抵抗やコンデンサーと言ったものは存在しないのか。
いくつもの疑問が頭を過ぎる。本当に、彼が噂の神なのだろうか。懸念と疑心暗鬼は消えない。
俺は敢えて、驚愕と困惑の表情を隠しもせず浮かべる。だが、テーブルの向こう側に座る男は、俺の戸惑いを気にすることはない。悠長に、かつて紅茶だった飲み物を優美に楽しんでいた。
こちらが口調と表情を変えても、天神は動揺も怒りも見せなければ、へつらって繕うことも無い。ただただ平然。
俺は、なんとも言えない気持ちで手元のアイスコーヒーをぐるぐると回した。小さな竜巻のように渦巻く螺旋。決して格好良いとは言えない自分の顔が、消えては現れる。
小さな竜巻に意識が吸い込まれそうになる頃、ゾクっとする視線を前から感じた。
話さないのかい?
思考が強引に絡め取られる。天神の口元は孤を描き、妖しく微笑んでいた。蠱惑的なヘーゼル色の瞳に誘導される不思議な感覚。気味が悪いのに、どうしてか嫌ではない。
もうどうにでもなれと、俺は高いアイスコーヒーをズズッと飲み干す。潤い滑らかになった喉を自分の意志で開き、出来るだけ簡潔に話し始めた。
*
それは昨日の夕刻のことだった。
バイト先のコンビニで品出しをしていた俺が、手に持っていたおにぎりの陳列を終え、新しいおにぎりをケースから取ろうとしたとき。
自分の腰くらいの背丈しかない小さな女の子と目が合った。よく祖母と思わしき老婦人の常連と、一緒に店に来る子だった。少女は、胸元でぴたりと指先だけをくっつけ、手のひらはまるで花の蕾のように膨らませている。
ちょっとした違和感を覚える、妙な光景だった。どうしたのだろうか。一人で来たのだろうか。
そう思って辺りを見回しても、いつも一緒にいる老婦人は見当たらない。不思議に思ったが、俺はその質問を投げるつもりはなかった。
小さい子は苦手だ。彼らは感情を丸出しにするだけで、会話が通じない。だから無視をして、そのまま作業を進めようと手を動かしたかけたときだった。
思いがけず、少女から声を掛けられた。
「ねえねえ」
一体何なのか。
声を掛けられたのに、無視をするのは店員としては許されない。そうだ、呼ばれたのは自分ではないかもしれない。
一抹の希望をかけて、声がした方向を振り向くと、彼女は俺の顔を見て尋ねていた。
やむを得ない。
俺は店員としての最低限の笑顔を貼り付ける。
「どうかしましたか?」
「しろいこな、うっていますか?」
張り付けた陳腐な笑顔のまま硬直したのが、自分でも分かった。そのまま、オイルの切れたロボットのように、ぎこちなく白い粉を考える。もちろん、一般常識の範囲内で。
一つ一つ案内するも、少女はことごとく首を振る。
そして、最後には悲しそうに、「ありがとうございました」と小さく言った。
終始変わらず、彼女はまるで何か大切な物でも入っているかのように、手を蕾の形にしたままで。ガックリと肩を落として、一人で店内を去って行った。
口に出せば、たったこれだけのこと。けれども、まるで喉に小骨が刺さったように、妙に気になる出来事だった。
*
「しろいこな!」
天神が面白そうに口に出す。
こちらとしては、面白くも何ともない。あんな小さな子供が麻薬と関係があるのか。とか、何か反社会的なものに関わってしまったのか。とか、ヒヤヒヤしたというのに。
彼の余裕そうに楽しむ態度が、無性に腹立たしかった。
「参考として知りたい。貴殿が、常識の範囲内として提示した物は、なんだったんだい?」
「砂糖、塩、小麦粉」
「素晴らしい。なんて一般的かつ凡庸で模範的な回答。さすがは、数奇な人だ」
男は目を見開き、拍手でもしかねない勢いで褒め称える。馬鹿にされているのだろうか。俺は少しばかりムッとした。
しかし、確かに上記に挙げたものではなかったのも事実だ。凡庸と言われても仕方がない。俺は感情を押し殺して、努めて冷静に尋ねる。
「天神くんなら、『しろいこな』の答えが分かるのかな?」
「どうだろう、正解かどうかは分からない。けれど、一つの仮説を証明することなら出来るね」
「仮説?」
はっきりとした口調の割には曖昧な言い方。俺は思わず眉を顰めた。てっきり答えをくれると思っていた身としては、拍子抜け、いやお預けでも食らった気持ちになる。
「それはともかく。貴殿は、その少女が住んでいる場所は知っているのかい?」
「住んでいる場所? いや、俺は知らないよ。ああ、でも店長なら知っているかもしれない」
「ふむ」
天神は白濁した液体を一息に飲むと、椅子から立ち上がった。
「では、行こうか」
長い腕がバッと差し出される。ここがステージ上だったら。あるいは俺がコンサートの観客ならば、その手を取るのが正解なのかもしれない。
だが生憎、ここはレトロな雰囲気が漂う喫茶店のなか。しかも、俺の見間違いで無ければ、彼の人差し指と中指に挟まれている紙は、ここの伝票だ。
俺は、「どこへ?」と聞くことはしない。代わりに、俺は向けられているその紙をグシャリと掴んだ。客が俺達しか居ないとは言え、これ以上はマスターの視線に耐えられなかった。
俺は席を立ち、帆布のベージュが薄汚れたリュックを背負う。ダークグリーンに何かの模様が描かれたカーペットは、普段であれば踏むことを躊躇うほど高貴な雰囲気を醸し出している。しかし、今の俺には余裕などない。一刻も早く退散したい。
隅でシルバーを磨いていたはずの店主は、いつの間にか会計の前で陣取っていた。アンティークな雰囲気を醸し出す、重厚なレジカウンター。そこに不似合いな、軽薄な色味のレジスターが目に付く。なんとなく、自分がそれに重なった。この店からすれば、俺たちも異質そのものだっただろう。
「お会計ですね」
店主の柔らかな顔に、年季とプロフェッショナル性を感じた。たとえ、どんな嫌な客であっても、彼がこの表情と穏やかな声色を崩すことはないのだろう。
「ご一緒ですか? それとも別々にされますか?」
「ご一緒で」
「別々でお願いします!」
やはり、この男は俺に支払いをさせようとしていたらしい。キョトンとした顔をする天神を忌々《いまいま》しく見上げる。「如何されますか?」と再度尋ねるマスターに、俺は「別々で」とはっきりと主張した。
「また、どうぞ」という声は、カランコロンと鐘を響かせて閉まる扉の奥から聞こえた。きっと分け隔てなく声を掛けるようにしているのだろう。個人経営の世知辛さを感じた。