表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【短編】耳ふさぐ君

作者: 照元章一

僕は本当に声を出したのだろうか?


疑ってしまうほどに男の反応はなかった。

声帯の振動を仲介する空気が一瞬のうちに世界から消えてしまったような、そんな感覚だ。


焦りと不安で冷汗が背中を伝い、緊張感が体を巡った。


聞こえていなければ言ってないのと同じだという、高校時代の担任の言葉を思い出す。


気付くと男の後ろにはもう二、三人ほど客が並んでいた。

一人の女性客が僕を見かねたのかあたりを見回し、他の従業員を探し始める。


彼女には悪いけどほかにレジに入れる人間はいない。

とにかく一刻も早くこの男を捌かなければいけなかった。


「あの……、温めますか?」

さっきより大きな声で言う。


すると男は夢中になっていたスマホの画面から視線を外しチラッとこちらを見上げた。


そして僕が手に持ったパスタを見て一度横に首を振る。


「袋は必要でしょうか?」


立て続けに聞くと、今度は嫌そうな顔をして耳のイヤホンを外した。


最近はBluetoothの無線イヤホンが主流だから、つけたままレジに来る人間は多い。


僕がもう一度袋が必要か聞くと、頼むわ、と言って男はまたイヤホンを耳に戻した。


まだフォークか箸か聞いてなかったが、面倒くさくなったのでどちらも入れずに袋に入ったパスタを男に渡した。


こんな奴、もう二度と来なくていい。



こういうことはよくあった。


元々大きな声を出して人と話せるタイプの人間ではない。たぶん人と関わる仕事には向いてないのだと思う。


学生時代はそのせいで部活の先輩によくいびられたし、友達と話すときもこのせいで会話が弾まないことだってあった。


基本的に人間関係全般が苦手なのだ。


声質が聞き取りずらいなんてこともよく言われるけど、それは僕にとってどうしようもない。


無理して声質を変えようものなら話すのが苦痛だし、そこまでして他人と話したいとも思わなかった。


そもそも相手が僕の話を聞く気がないことだってある。


人は色んな音の中から自分に必要な情報を聞き分けることができると高校のとき物理の授業で習った(カクテルなんちゃら効果だ)。


聞く人にとって必要のない情報だとしたら、僕の声が周囲の雑音に溶けて混ざり合っていたって不思議ではない。


「ごめん、ごめん。裏で荷崩れが起きちゃってさ。フォロー遅れたよ」

店長がレジに戻ってくる。

青いエプロンを身に着けた大きな体を揺らしながら息を切らしている。


「全然大丈夫ですよ」

「よかった、よかった。」

「もう、片付きましたか?」

「……」

また僕の声は届かない。


コンビニのバイトは妥協で続けている。


3年前、大学2年の時にここにやってきたが大学を卒業してからも辞めはしなかった。


もちろん就職活動はしたけれど当然のごとく全て不採用となり、ちゃんとした仕事が見つかるまでということで間に合わせ程度に続けている。


ただ未だに就活は再開してなかったし、ついこの前アルバイトだけで一年を過ごしきったから、もうこのままでもいいのかもしれないと思っていたりもした。


時給1000円。一日に7時間の労働を月に15回。


食事はコンビニの廃棄がメインだし金はかからない。これでも十分にやっていける。


ただし24歳、彼女なしだ。夢も希望もなく、刺激のない人生ではある。


なんの責任にも囚われない今の環境は、見方によっては幸せなのかもしれないが、同時に多くの劣等感と共存している。


◇◇◇


25時を回ったころ、店の自動ドアが軽快な音を立てて開いた。


入ってきたのは一人の女性、と言うには若すぎるぐらいの少女だった。


部屋着のような黒いパーカーに長い金髪が印象的で、なんとなく高校生ぐらいに見えた。


ミッドウエストのスキニーパンツから長く伸びた足は灰色のサンダルを履いていて、夏の夜とはいえ少し寒そうだと思った。


店に入った彼女はこちらを一度だけこちらを見る。

まるで威嚇するような攻撃的な視線だった。


僕の偏見だが、こういう見た目の子は早くに結婚して子供を産み世間からはおよそ受け入れられないキラキラネームをつけると相場は決まっている。


彼女は店に入ると少し雑誌コーナーあたりをうろつき、その後レジから一番遠い飲料の入ったリーチイン(コンビニの冷蔵庫)の扉を開けた。


そして持っていたかごの中へ大胆に酒を入れ始める。


正直勘弁してほしかった。

当然だがこの店では未成年に酒を売っていない。


最近は何がきっかけで酒を売ったのがばれるのか分からないから慎重だ。


カウンターの中にある年齢確認の手順が書かれたメモを見る。面倒なことにならなければいいと願いつつ、僕はそれを頭から読んだ。


◇年齢確認の手順

1.「年齢が確認できるものはございますでしょうか?」申し訳なさそうに、丁寧に聞く


2. 成人していた場合

「大変申し訳ございませんでした」

しっかり頭を下げる。

もし売れ残っていたホットスナックがあれば無償で提供する

  成人してなかった場合、又は提示がなかった場合

「申し訳ございません、当店では未成年の可能性がある方に酒類の販売はしておりません」

※あくまでも確認が取れないことを理由にする。

未成年だと決めつけた言い方はしない。


彼女はつまみを何個かカゴに入れた後こちらに向かって歩いてきた。


メモを見ていた僕は彼女の方に体を向きなおし表情を硬くする。

少しでも隙を見せれば押し切られるかもしれないと思った。


すると彼女は僕と目も合わさずドン、と音を立ててカゴを台の上に置いた。


そして音にひるんだ僕に構いもしないでポケットの中から財布を取り出す。


「あの……、何か年齢確認ができるものはございますでしょうか?」

「……」

「あの……!?」

「……」


重たい沈黙だった。本当に僕は音を立てたのだろうか。


状況はさっきのパスタ男の時と同じだが、今回は力を込めて言ったぶん音の存在の方が心配になった。


そうしてしばらく黙っていると、全く動かない僕に気づいたのか、彼女は財布を持っている方とは反対の手を耳元までもっていきその長い金髪を片方の耳にかけた。


耳に着いた黒いイヤホンが露わになる。

(……またか、レジの時くらい外せよ……)


彼女はそのイヤホンを少し触ると、何か言った?と言う風にこちらを見た。


「何か年齢確認できるものはございますでしょうか?」


頑なにイヤホンを外さない様子になんとなく言葉尻が強くなる。


すると彼女はすぐに財布の中を探す、という演技を始めた。


未成年が酒類を買うときには大体この方法を使う。


こうやって財布を探すふりをしては「家に忘れた、面倒だから売ってくれ」と言うのだ。


しかし彼女は違った。財布の中から免許証を取りだし見せつけたのだ。


その目はまっすぐこちらを見ている。


焦った僕はさっきのメモの内容を思い出す。

成人だった場合は……と思ったが、よく見るとそれは目の前の彼女とは全く違う男の免許だった。

写真には髭面でガタイのよさそうなガテン系の男。歳は40近くだ。


これもよくある。大学生などが成人した先輩の免許を後輩が持ってきて買い出しするパターンだ。


しかし今回は似ても似つかないどころか性別の垣根まで超えてしまっているから、変な話こちらも見落としようがない。


けれど、それでも自信ありげに彼女はそれを突き出すから、提示されたこちらも狼狽えてしまう。


「……あの、ご本人さまのものを提示していただかなければいけないのですが」


僕がそう言うと、彼女はとても不機嫌な顔になってそれを財布に戻す。


「……」


そしてしばらくその場で黙って固まっていたが、最後には

商品の入ったカゴをそのままレジに残して店から出て行った。


レジの前を立ち去るとき、彼女はキリっとした大きく丸い目でこちらを見つめてきた。


何か言いたそうな目で強い意志を感じた。


表情だけですべてを完結させてしまうような彼女のコミュニケーション。

気づけば話しているのは僕だけで、彼女は何一つ言葉を発していなかった。


彼女が店を出たあと、記憶に残った音のない彼女の残像に僕はその声を想像する。

荒々しくも芯のありそうな口調をしている気がした。


これが彼女との最初の出会いだった。


◇◇◇


それからというもの、彼女は毎日同じような時間帯に店に来るようになった。


僕がシフトに入る曜日は決まってないけれど、どの出勤日にも必ず来るからきっと日課なのだろう。


彼女は店に来るたびアイスクリームを一つと500mlの水を一本買っていく。もうお酒は買わない。


そして相変わらず、店に入ったときにはこちらを一度見つめてくる。


「あの子、また来てるな」


同僚の金田が話しかけてきた。


「そうですね。最近引っ越してきたんでしょうか」

「そうかもねー。いつも店に入ってきたときコッチを見てくるから怖くてさ」

「金田さんもですか?」


どうやら店に入って一度レジの人間を見るのも日課のようだ。


「でもあの子可愛いよな」

「そうですかね!? 僕には分かりませんが……」

「まぁ、お前には分からないかもなー」


同じバイトで歳も変わらないくせに何を言っているのだろうと思う。金田は遠くにいる彼女の方を眺めている。


「ああいう子が、案外付き合うのには良かったりするんだぜ。いつも酒買っていくから、あれはきっと酒飲みだ」


金田の発言に驚く。


「えっ!?金田さん、彼女にお酒売ってるんですか?」

「お前いきなり大きな声出すなよ。いつも小さい声のくせにさー」


僕の言葉に驚いた金田は顔をしかめて見下すように言う。


「どう見たってもう成人してるだろあれ。身長は低いけど、雰囲気はもう大人だ」

「年齢確認してないんですか?」

「してねぇーよ。毎日来てくれるのに、そんなことしたらお得意さんが逃げていくだろ」


本当に驚いた。


僕がレジにいるとき、彼女は水しか買わない。


それなのに僕のいない時は堂々と酒を買っていたのだ。


これで辻褄が合った。彼女は店に来たとき、誰が店員かを確認していたのだ。


そしてそれこそ、彼女が未成年である何よりの証拠ではないか。


僕の中で形容しがたい気持ちが膨張した。


そしてこの日、幸か不幸か彼女のレジを担当したのは僕だった。


案の定、彼女が持ってきたのは水とアイスクリーム。金髪の間からはいつもの黒いイヤホンが見えていた。


「袋は必要でしょうか?」

「……」


彼女は無言で縦に首を振る。


「ポイントカードはございますか」

「……」


今度は横に首を振った。


もちろん、いつもこの店に来るのでポイントカードを持っていないことぐらい分かる。普段は聞きもしない。


けれど、今日は彼女の嘘を暴く時間が欲しかった。その時間稼ぎのために無意味な質問をした。


今思えば、彼女に一泡吹かせたいという自分のエゴを正義感という名のもと彼女にぶつけたかったのだと思う。


気付けば僕の口から出たのはこんな言葉だった。


「今日は水なのですね……」


小さな声で言った。

いつも届かない僕の声。こんな声がイヤホンをしている彼女に届くはずがなかった。


しかし彼女は僕のその言葉にビクッと反応する。


そして声に反応した彼女に驚き、僕もまたビクッと反応してしまう。


迂闊だった。いくらイヤホンをしていると言っても音楽が流れていなければ聞こえるかもしれなかった。


「……」

無言のまま彼女はこちらを睨む。


そしてしばらくすると500円玉をドンとレジにたたきつけた。


レジに一番近いサラダのコーナーで品出ししていた金田はその音に振り向き、僕と目を合わせる。


大丈夫だというように、頷いて見せるとまた作業に戻った。


相変わらず彼女はこちらを睨む。


しかし僕だって自分の言ったことに後ろめたい気持ちがあるわけではない。


そうして数秒間、僕は彼女と睨みあった。


大きな目をしている。

瞳孔が開いているのか黒い部分が大きかった。

少し潤んでもいる。


よく見るとそこに映る僕の姿は水晶に映ったときのように歪んで見えた。


とっさに視線をそらしてしまう。


結局これ以上追及することもできず、お釣りをレシートと一緒に渡すと彼女はそそくさと店を出て行った。


彼女はもう二度とうちの店には来ない気がした。


◇◇◇


あれから店のドアが開くたびに客の顔を確認してしまう。おかげで随分と人の顔を見るようになった。


人との関わりが苦手な僕はいつも人を輪郭でとらえていたから、これは大きな変化だ。


これまでは髪の長さ、肌の色、手の動き、歩き方、そういう情報をもとに雰囲気だけで人を認識していた。でも今はしっかりとその人の顔が頭に浮かぶ。


金田も店長も、常連の客だってみんな顔が浮かぶ。もちろん初めてしっかりと見た彼女の顔もだ。


まっすぐにこちらを見つめる大きくて黒い目がまだ脳裏に焼き付いている。


ドアが開くたびに客の顔を確認してしまうのは、彼女がまた来るのではないかと心のどこかで期待しているからだと思う。


けれど、なぜ期待しているのかは分からなかった。


別に男として女性の彼女に惹かれているわけではない。


それより何かもっと曖昧なもの。


まるであと1つで完成するパズルのピースを無くしているような、そんな物足りなさが彼女に対してはあった。


罪悪感? それとも正義感だろうか。いや、結局どれも違うと思う。


きっと原因は彼女の拒絶だ。


耳につけられたイヤホンによる彼女の拒絶を僕は受け入れられないのだ。


これまで他人と深くかかわることもなければその反対もなかった。


それが初めて彼女と感情の起伏を含んだ関わりを持ち、そして拒絶された。


だからきっと落ち着かず気になってしまうのだ。


たかがコンビニ店員と一人の客なのに、正直少し自分でも気持ち悪いと思ってしまう。


この日品出しをしていると店のドアが開いた。

いつもの癖で客の顔を見る。するとそこには見たことのある顔があった。


実際に会ったことがあるわけではない。でも記憶にしっかりと残っていた。


なぜなら彼女の次にまともに見た顔だからだ。免許に写っていた男だ。


男は真っ先に酒の並んだリーチイン方へ歩くと、乱暴に扉を開け持っていたかごに酒を次々と入れ始めた。


そしてつまみの並んだ棚のあたりを二三度行き来すると、商品を鷲掴みにしてかごへ投げ入れた。


ふと最初に彼女が店に来た時のことを思い出す。


男はそれからこちらに歩いてきた。


ゆっくりと肩で風を切るように歩く男の体は近くで見ると思っていたよりゴツい。


シャツの上からでも分かる厚い胸板は、殴られればひとたまりもない自分の姿を想像させた。


レジの前まで男が来ると自然と目が合う。鋭い視線はどこか彼女に似ている気もした。


「いらっしゃいませ。商品をお預かりします」

心なしか自分の声も小さくなっている気がする。


「袋は必要でしょうか」

「あ? うん、頼むわ」

「年齢確認のボタンを押していただけますでしょうか?」

「ちっ、めんどくせーな」

「ご協力ありがとうございます」


早く終わらせたかった。男からは無言の圧力を感じる。自分でも少し手が震えているのが分かった。


「お会計1,067円になります」


恐る恐る金額を伝えると、聞こえにくかったのか男が耳をこちらに向けて顔を近づけてくる。


「お前、もっと大きな声で喋れや。なんて言ってるか分かんねーよ」

「……すみません」

「あ? なんて?」


男は僕をからかうように少し大きな声を出す。僕の声はたちまちその声にかき消された。

こんな時によって、金田も店長も他の店員はここにいない。


「さてはお前、例の店員だな?」


店内を見渡しながら男は言う。


「お前、金髪の女の客知ってるだろ?毎日この店に来てた奴だ。あれ、俺の連れなんだけどよ、あいつがお前のこと言ってたぞ」

「……!!」


動揺する僕の様子を見て男は続ける。


「お前、あいつに年齢確認しただろ? そのせいで酒が買えなかったって愚痴ってたぜ。まぁ他の店で買って来いって言って、結局少し遠くの店まで行かせてたけどよ。酒売らないのはお前だけだったみたいだな」

「規則ですので……」

「まぁ、いいけどよ。てかあいつ、昨日から急に帰ってこなくてよ、だから今日は仕方なく俺が来たわけ。家のこと放っておくとはいい度胸だよな」

「そうですか……」


そういう理由があったとは思わなかった。


どうやら彼女は自分のためにお酒を買っていたわけではないようだ。もしかしたらこの男に無理やり従わされていたのかもしれない。


「ほら、今日は年齢確認しなくていいのかよ?」


ニヤニヤしながら男は言う。


「はい……大丈夫です。もう精算は済んでおりますので」

「ちっ、つまらねー野郎だな」


そう吐き捨てて、男は商品を手に取った。


「ところでよ、お前あいつの声聞いたか? 」

「いえ……。聞いてませんが」

「やっぱりそうか。まぁ聞かなくて正解だ。あいつの声は変だからな」

「はぁ……」


僕が曖昧な受け答えをすると男はつまらなさそうに店を出て行った。


声が変というのはどういうことだろうか。

男の言い方には何か含みがあった。


見た目によらず可愛らしい声でもしているのだろうか。それとも男の人のように低い声なのだろうか。


漫画の主人公の声を想像するときのように色々な声を彼女に当ててみた。


結局そのせいでこの日の仕事はあまり集中できずに終わった。


勤務時間が終わったのは朝の5時を回ったころだった。


この時間に外を歩くのは好きだ。


高いビルがひしめくこの街、昼間には大量の人が行き交うがこの時間人は少ない。


東の空に低く光る太陽は確かに赤みを帯びた光を放つのに、目に映る景色はどこか青みがかっていた。綺麗なペールブルーだ。


僕の生活にもこんな色があったらいいのにと思う。


薄暗い部屋でコンビニの廃棄を食べて眠るだけの生活。

そこにこの街のような綺麗な色はない。

ただのモノクロだ。そう思うと途端に虚しくなった。


下を向いて歩いていると、近くから何やら賑やかな声が聞こえてくる。


「ねぇーちゃん、何してるの?」

「今から俺たちと一緒にどっか行かない?」


こんな漫画みたいなことがあるのかと思った。


声のする方を見ると、いかにもな男二人が道の端でナンパをしていた。


こういう時は関わらないのが一番だ。すぐに視線を下に戻すと僕は歩く速度を上げる。


仮に女の人が困っていて助けなければいけないドラマ的な展開だったとしても、そんな度量僕にはない。

だから見てないことにしようとした。


けれど人生とは分からないもので、予期せずともこういう場面で巻き込まれてしまうのが僕と言う人間のようだ。


「おい、そこの兄ちゃん」


男の一人に呼び止められてしまう。

こうなっては仕方ないのでひとまず立ち止まる。


そして声のする方へ振り返った。すると囲んでいる男と男の隙間から、ナンパされている女の人がこちらを指さしていた。


そこからのことは正直よく覚えていない。


ただはっきりしているのは、ナンパされていた女の人が実はあの金髪の彼女だったということで、気づけば僕は彼女に手を引かれて走っていた。


手を引いて前を走る彼女は初めて会ったときと同じ黒いパーカーを着ている。


こうして近くで見ると意外と体は小さくて、少し子供っぽさもある。小さな体で必死に息をして走っている。


しばらく走るとさっきの男たちはもう後ろにいなかった。


走る必要もないと感じた僕は速度を緩め、彼女の腕を逆に引っ張る。すると彼女も気づいたのか後ろを一度振り返ったあとに立ち止まった。


久しぶりに走ったからか、もう息が上がってしまっている。


「はぁ、はぁ、はあ。急にどうしたんだよ?」

「はぁ、はぁ、はぁ……」


どうやら彼女もだいぶ疲れているようだ。肩で息をしている。


「あいつらになんかちょっかい出されたのか?」

「……」


彼女は無言のまま首を横に振る。


「そっかぁ……。ならいいんだけど」


さびれた商店街の一本道に僕らはいた。


あたりは静寂に包まれ二人の荒い呼吸音だけがする。


相変わらず話すのは僕だけで、遠くのカラスの鳴き声と一緒に自分の言葉が虚しく空間に響く。


「はぁ、はぁ……、そういえば家出たんだってな? 昨日店にさ、君のこと連れだっていう男が来てさ、すごい迷惑だったよ」

「……!!」


驚いて彼女は目を見開いてこっちを見る。


「はぁ……、僕のせいで酒が買えなかったって男に言ったんでしょ?」


僕がそう言うと、彼女は思い切り首を横に振る。絶対にそうではないと言いたげだ。


しかし、彼女に対する不満がピークに達していたのか言葉は次々に口から溢れる。


「大体さ、なんでいつも喋らないんだよ? だいぶ感じ悪いから。今だって、男撒くのに僕のこと利用したのに、お礼の一つもないの?」

「…………」


彼女は困っているのか目を丸くしてあちこちと視線をやっている。

よく見ると長い金髪の間からまたいつもの黒いイヤホンが見えた。

さらに僕の気持ちは高ぶる。


「ねぇ、聞いてる!? 人と話すときくらいイヤホン外しなよ!!」

「……!!」


まるで耳元で風船が爆発したときのように彼女は耳を抑えて顔をしかめる。


その態度をみてさらに頭に来た。


これ以上話していると手を出してしまいそうだ。


「もういい! 二度と僕に関わらないでくれ!」


しびれを切らした僕は彼女を置いて歩き出す。少し前にいる彼女をあっという間に追いぬき、彼女が視界から消えた。


その時だった。


「ごぉ……みぇ……んっ……なざいぃ」


全く聞きなじみのない音。


ひどく震えた音で一つ一つは独立して聞こえる。


けれど、なんとなくその意味は分かった。


ごめんなさい。


謝罪だった。そしてその音、いや声の主は一人しかいない。


僕は驚いて振り向いた。するとそこには下を向いてどこか恥ずかしそうにする彼女がいた。


しばらく眺めていると彼女も顔を上げて僕の顔を見る。


なんと言っていいか分からずに立ち尽くす。すると彼女は近寄ってきて僕の目を見ながら言った。


「あ……りぃ……がっ……と」


ありがとう……。


彼女の言った言葉は伝わった。

そしてようやく理解する。


こういう声は以前に何度か聞いたことがあった。大学のとき福祉の授業で教わった。


これは聴覚に障害を持つ人の話し方だ。


「もしかして……」


そう言って僕は自分の耳を指さす。それを見ると彼女は一度だけ首を縦に振った。


その瞬間、今までのことが頭の中でフラッシュバックする。激しい後悔に襲われた。


僕は決めつけていた。

彼女の耳についているそれがただのイヤホンだと。


外の世界と自分を一切に遮断し拒絶して、自分の世界に一人で浸っているのが彼女だと。

そう決めつけていた。


でも違った。反対だった。


彼女の耳についている黒いそれは、彼女と外の世界をつなぐ唯一の架け橋だった。


彼女は僕のことを拒絶してなんていなかった。


むしろ外の世界と必死に繋がろうとしていた。


彼女を受け入れようとしなかったのは僕の方だった。


「そうだったんだね……」


いつもの届かない声の大きさで僕は言った。

本心を言えば、こんな僕の言葉など届いて欲しくなかった。


ただ謝るだけで済む話ではない。

知らなかったからで許される話ではない。


けれど、どこか許されたい我儘な自分もいて、だから声にならない声で僕は謝った。


「い……い……よ」


それなのに彼女は、また睨みあったあの時のように僕の声に反応する。


驚いて僕は目を丸くした。

すると彼女は笑った。そして僕を指さして言う。


「ごぉ…え……きき…やす……い?」


どうやら自分でもしっかり言えているか不安なようだった。大丈夫しっかり言えている。


「(僕の)声、聴きやすい?」


僕は自分を指さして彼女に聞き返す。

すると彼女は笑顔で笑って頷いた。


◇◇◇


これは後から彼女に聞いて分かったことなのだけれど、いつも人に届かない僕の声は補聴器を通して聞くと他の音より目立って聞き取れるらしい。


どうやら声の周波数が関係しているらしいんだけど、そこら辺のことは正直よくわからない。


けれどいつも悩みの種だった僕の声がそんな性質を持っていたなんて思いもしなかった。


誰にも届かなかった僕の声は彼女にはしっかり届く。


僕の声にしかできないことがある。そう思えた瞬間だった。


あれからまた彼女は店に来るようになった。


いつもと同じ25時を回ったころに。


今ではあの男の家から出て、一人で暮らしているらしい。


この前は、免許を取ったらしく会計の時、自慢するように年齢確認のできる免許を堂々と見せてきた。


まだ19だからお酒は売れないんだけどね。


「540円になります」


僕の声に彼女は笑顔で大きく縦に首を振る。


初めて会った時に見せてきた表情とは正反対だ。

今なら金田の言っていたことも少し分かる気がする。


お釣りとレシート、最後に商品を渡すと、僕は自分の左手の甲から右手を垂直に立ててそのまま上げる。


これは最近覚えた。


(……ありがとう……)


僕の動作に驚く彼女。それを見て僕は笑った。


今はバイトの時間を増やして月に20回入るようにしている。


これは自分の目標のため。手話通訳士になるのだ。



彼女との出会いは僕の人生を変えた。


そして僕の声に行き先を与えてくれた。


僕に人と関わる勇気を与えてくれた。


今日も仕事終わり、朝方の静かな街を歩く。


相変わらずこの時間の街は綺麗な色をしている。

淡いペールブルー。


最近はその色が僕の生活にもしみ込んできた。モノクロの人生が少し色づいた。


耳ふさぐ君。

実は僕の知っている誰よりも外の世界とつながりを求める人だった。


涼しい風が頬を撫でる。

近くの木々が揺らされて鳴った。


君にはこれがどう聞こえるのだろうか?


どうかこの世界が素晴らしいと思える音であればいいと思う。


(完)

最後まで読んでいただきありがとうございました。

評価していただけるとありがたいです。

コメントなどいただけるともっと嬉しいです。

よろしくお願いします。

最近はYouTubeとかもやっているので、よければそちらも見てくださいね!

小説に関する動画を色々上げています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ