夜明けの兆し
夢を見た。
真昼の街を歩く夢。
背を丸めて当て所なく彷徨う。
霞む視界のなか見慣れた通りが見えた。
何処へ向かっても誰とも出会わない。
話し声も聞こえない。
ああ、そうか。
ずっと一人だったんだ。
目が覚めると側に誰も居無かった。
◇◇◇
「ご注文は?」
ナタリアはぎょっとした顔で此方を見た。連れの姿は見当たらず、今日は一人で飲みに来たらしい。
「あんた……その顔は」
言葉を詰まらせた彼女の反応を無視し、しれっと身を翻す。
「無しですね、かしこまりました」
「待ちな」
片腕を掴まれ、テーブルに引き止められる。俺の肩に手を置いて屈ませると、ナタリアは此方の両頬を手で包んで自分の方へ向き直らせた。
「誰にやられた」
アッシュグレーの瞳に縫い留められる。
そこには彼女の真剣な目つきと裏腹に、どこか腑抜けた表情の少女が映り込んでいた。頬に痣を作っても平然と構え、まるで何事も無かったかのように振る舞う。
「ぶつけた」
「……は?」
「ぶつけたの、壁に」
嘘は言っていない。レスリーの立場を考えれば当然の配慮だった。真実を話せば彼女は友と同時に社会からの信用さえ失いかねない。
「ご注文は以上ですね」
「ちょっと」
ナタリアの手を振り払い厨房へと逃げ込む。顔を見た所で店主夫妻は何も尋ねて来ない。今はそれが何より幸いだった。
◇◇◇
知り合いに見つかればまた余計な詮索をされる。そんな考えが浮かばない程、北の酒場に通う事は俺の生活の一部に溶け込んでいた。
「何、その顔!」
挨拶するなりミランダは叫んだ。途端に衆目が集まる。先日の一件以来、彼女はちょっとした有名人になっているらしい。
「家の壁にぶつけただけ」
見え透いた好奇心に辟易しつつ、はっきりとそう答えると、彼女以外の人々は興味を失ったのかつまらなそうに元の会話に戻った。
「そんな訳ないでしょ」
食い下がるミランダに尚も答えずにいると、手強さを悟ったのか押し黙った。少し罪悪感が湧いて隣の彼女の顔を覗き見ると、そこには何も堪えた様子のない気の強そうな眼差しがあった。
「無理に聞こうとは思わないけど、私、結構仲良くなれたつもりで居たのよ。案外つれないのはアンタの方なんじゃない?」
思考を読まれている。
確かにそうかも知れない。だがやはり彼女に真実を話す訳にはいかない。
考えた所でふと思う。なら一体、誰なら話しても良いと言うのだろう。そもそもそんな相手が自分には居るのだろうか。
「話しても何も解決しない。その考えは尤もだけど、幾らかましになるものよ。秘密なんて得てしてそういうものでしょう。大した間柄じゃ無いと思っているのなら、壁が相手だと思って話してみなさい。さもないと」
彼女はグラスに口を付けずに言った。
「友達甲斐がないわ」
まだ一滴たりとも飲んでいない筈の彼女の頬がほんのり紅く染まった。最大限の歩み寄りに心が温かいもので満たされる。
「じゃあ壁さん」
「何かしら?」
「……壁が喋ってる」
「そりゃ偶にはね」
厚意に甘んじて事情を説明する。率直な表現は避け、しかし成るべく忠実に。
「……友達と喧嘩した?」
聞き終わった所で彼女は感想を述べた。
余りに平和な想像だった。
「そう聞こえた?」
「ちぇ、違ったか」
追求するのを諦めない彼女に有難さと同時に苦笑する。
「でもそんな所かも」
「どういう事よ?」
「私にとっては大事でも、周りから見たら些細だってこと」
「何それ」
彼女はむっとした様に言った。
「周りなんて関係ないじゃない。自分がどう思ったのかが全てよ。アンタの味わった痛みでしょう? 私には分からないんだから」
言葉がストンと腑に落ちる。
彼女の言う通りだ。
「……やっぱり大事かも」
「痛むの?」
「何か意識したら段々」
馬鹿ね、と彼女は俺の頬に触れた。
「結局アンタがどうしたいかよ」
「私?」
「そう。縁を切るとか、仲直りしたいとか」
自分の本心に問いかける。
一体何を欲しているのだろう。
「別に痛かったのはもう良いの」
「いや良くはないでしょ」
「思ったのは、私って一人だなって」
「当然。人はみんな一人だわ」
ミランダは馬鹿馬鹿しそうに吐き捨てる。
「だからこそ誰かと一緒に居たい」
「今だって居るじゃない」
「違う」
前を向いて首を横に振る。話しているうちに頭の中が整理されていくのが分かった。
「ずっと求められるままに行動してきたの。願ったのは私でも、自分の意思で生きてきた訳じゃ無い」
ただ一人になるのが怖かった。だから誰かにとって利用価値のある存在になりたいと願った。
「それじゃ駄目なの」
「分からないわ。だって人の考えを聞いて行動が変わるのなんて普通でしょう?」
「そうなんだけど」
側にいた店員も気付けばカウンターの奥に引っ込んでいた。雲を掴む様な曖昧な話に彼女は我慢強く付き合ってくれている。
「何かを愛したいと思ったの。けど手に入ったのは別のものだった。私はそれを勘違いしてた」
「別のものって?」
「それは聞いちゃだめ」
唇に指を当てて諭すと、何を想像したのかミランダは赤面した。
「……詳しくは聞かないけど。誰かを愛したいなら、まず自分を愛する事ね」
「自分?」
自分って何だろう。
それすらもよく分からない。
「自分を知りたいなら人と関わる事。誰かと出会って違う所を知って、始めて人は自分自身を見つめる事が出来るわ」
今まで俺は表面に薄い膜を張って人と接してきた。そうして理想的な関係を築いたつもりでいた。けれど自分を知る事が出来ないならまずその生き方を変えなければならない。
「ありがとう、分かった気がする」
「アンタが答えに辿り着いただけよ」
「それでもありがとう」
グラスに口をつける。
甘酸っぱい葡萄の芳香が漂う。
「私、この街を去るべきかも」
それは不意に湧いた感情だった。
人を見たい。人に会いたい。
この街ではなく何処か別の場所で。
「ここを出た事がないの。外へ出れば必ず新しい事が起こる。だから」
「良いんじゃない? アンタの勝手よ、好きに生きれば良いわ」
漸くミランダもグラスに口をつけた。見れば俺と同じ酒が入っている。初めて会った時とは違う。合わせたんだ。
「今夜は門出ね」
「まさか歌う?」
「いえ、今日は側で見させて貰うわ」
あれから彼女は一度も歌っていない。
呑んでいたせいもあってか、あの夜の記憶は殆ど残っていないらしい。誰に勧められても彼女は、女優になるのが私の夢、と頑なに登壇を拒んだ。
「こんばんはーっ!」
アンナが現れた途端、聴衆が沸き立つ。見慣れた光景を目にするのもこれが最後かもしれない。
「どなたか共演希望者ー?」
公演が一通り終わると、聴衆は奮って手を挙げる。抜けた床の事などきっと誰も念頭に置いていない。楽しい事が滅法好きな彼らの事が俺は好きだ。
「はぁい」
威勢良く手を挙げた彼女に周囲が湧く。
「私じゃ無くてこっちよ」
「え」
両肩に手を乗せられて前へ押しやられた。
すると聴衆が身を避け、壇上まで花道が出来た。あの夜の遣り取りを覚えていた人がこの場に大勢居るのかも知れない。
「歌えないよ」
「大丈夫、それだけ話せて歌えない人なんか居ない」
「でも下手だもん」
「関係ないわ」
行ってらっしゃい、と見送られる。
渋々壇上へ上がるとアンナは手を叩いて歓迎してくれた。
「……私で良いの?」
「ええ、勿論です」
今更後悔しても遅いと腹を括り、アンナよりも前へ出る。
拍手が起こった。
同時に曲の伴奏が始まる。
普段より遅めにアンナは弾いた。選曲は例の三曲目。リズミカルな手拍子に合わせ、満を持して俺は口を開く。
……あらら。
遠くでミランダが口を動かすのが見えた。
駄目だ、我ながら酷すぎる。
火照った顔で振り返ると、アンナは笑いながら首の動きで前を向くように指図した。
「達者でな!!」
「離れても元気で!!」
眼下に見えたのは手を叩く聴衆の姿だった。皆さっきの会話を聴いていたのだ。
「笑って!」
ミランダの声。霞む視界にはきっと優しい笑顔の彼女が居ることだろう。
俺は声が枯れるまで歌った。
◇◇◇
あれから幾つかの季節が過ぎた。短い冬を終えて街は色彩を取り戻しつつある。
「ナタリア」
すっかり常連になった彼女に声をかける。奇しくも連れの姿は見当たらない。
「手紙を渡せって、一体誰に?」
「レスリー」
はっとした顔でナタリアは此方を見た。頬に注がれる視線に肩を竦めて笑う。
「宜しくね」
それだけ言い残して踵を返す。レスリーなら意味が分かるはずだ。
◇◇◇
夜、俺は家で彼女を待った。
店主夫妻は既に寝ている。離れに寝泊まりする俺には関係無いが、これで尚更心置きなく話し合う事が出来る筈だ。
窓を叩く音。
「入って」
呼びかけても何故か直ぐに入ってこない。奇妙に思い、側に近寄って外を覗き込んだ。
「え」
驚いた俺はベッドの下に隠しておいた履物を手に取り、嵌め窓を開けると片足ずつ桟を跨いで外へ飛び出した。
「ナタリア!?」
平屋の前に立っていたのは呼び出した筈のレスリーではなくナタリアだった。彼女が腕を引っ張ると庭木の陰から一人の人影が右隣に躍り出る。
「コイツ、逃げるつもりだったのよ。何を怖がってるんだか知らないけど、ぶん殴って連れてきてやったわ」
目を凝らせば確かに頬が腫れていた。
「余計なことしやがって……」
珍しく乱暴な口調でレスリーは悪態をつく。ナタリアに外套の裾を掴まれ、叱られた子供のように不貞腐れて立っている。
「連れて来てくれてありがとう」
「礼には及ばない。じゃあ預けたからね」
「うん」
レスリーを俺に突き出すとナタリアは夜道を引き返して帰った。静寂に包まれるその場に無言の二人がぽつんと取り残される。
「全く」
ややあってレスリーが口を開いた。
「一体何だって言うのよ。あいつと来たら貴方からの手紙を届けに来るや否や、殴ったのは私かって喧嘩腰で問い詰めるのよ。あんまりな物言いで肯いてやったら、無言で頬を殴りつけて来て。絶対あいつは童女趣味よ」
軽口を叩くレスリーを真っ直ぐ見つめると、彼女も黙って俺を見据える。相対する彼此の間に冷たい春の夜風が吹き抜ける。
「取り敢えず中へ」
靴を履いたまま窓から家に上がった。後からベッドに腰掛けた彼女は落ち着かなさそうに床や壁に視線をやった。
「隣、いい?」
「貴方の家でしょ」
「そうだけど」
燭台に火を灯してベッドに腰を下ろすと、レスリーは吸い寄せられるかのように視線を炎の方へ向けた。何となくつられて同じ方向を見る。
「悪かったわ」
沈黙を恐れてか彼女はお姉さんぶった少女のように正しい台詞を吐いた。彼女も何を言うべきか迷っているのかも知れない。
「もう良いよ。お金も貰ったし」
「本当?」
「うん」
ひとまず安心したのか彼女は追求を辞め、此方に肩を寄せた。冷えた身体に温もりが心地良い。
「伝えたい事があるの」
「なぁに?」
「私、この街を去るわ」
隙間風に蝋燭の光がごうと揺らめく。
一瞬ぽかんとした表情を浮かべた彼女は澄んだ瞳で俺の事を見つめた。
「最近いろいろあって考えたの。私はもっと多くを経験したい、その為に違う場所へ行って新しい仕事をする。そう決めた」
「……私のせい?」
大きな瞳を瞬かせ、伏し目がちにレスリーは呟いた。
「違う。ずっと前からそうするべきだった事に今になって気付いただけ」
毛布を互いの膝の上まで手繰り寄せ、その下で彼女の左手を握った。
「レスリーは一番のお得意さまだったのよ」
「私が?」
「えぇ」
俺の様な子供との関係を望む連中は案外大勢いるものだが、実際に会ってみると妄想と現実の差を目の当たりにするのか、一度で飽きられる事も多々あった。
レスリーやリアンの様に繰り返し訪れる客は寧ろ珍しく、印象に残るのも必然だった。
「思い出深い一人よ」
「光栄、とでも言えと?」
呆れたようにレスリーは目を細める。
普段の調子が戻ってきて嬉しかった。
「言ってくれてもいいのよ」
「誰が」
擽られるかと思った矢先、レスリーの手が空中で静止する。あの夜の事を思い出しているのだろうか。
「レスリー」
間近で視線が交差する。互いの熱さえ肌で感じ取れるような距離。目蓋を閉じる暇さえ与えずに俺の方から唇を奪う。
彼女も拒みはしなかった。安心しきったように身を委ね、食べるように口を動かす。
次第に首が斜めに傾き、互い違いになった結合部は水飴のように溶け合う。やがて生き物のように蠢く舌が花の蕾をこじ開けるように此方の中へ入って来た時、俺は彼女の首に手を回して縋り付く様に懐へ潜り込んだ。
睫毛が顔に当たり、鼻から漏れる吐息に僅かな興奮を覚える。及び腰を彼女の右腕に押さえ込まれ、汗ばんだ胸同士が合わさって鼓動を伝える。
レスリーと今、一つになっている。言葉で伝えられない何かが伝わる気がした。
「……あつい」
離した唇の合間に架かった橋がプツンと途切れて胸の谷間に落ちる。冷やっこさに驚くと同じ事を思ったのかレスリーもその軌跡を目で追った。
「染みったれたお別れは私の趣味じゃない」
「そう」
「今日はとことん致すわよ。えいっ」
「ひやん」
下らない遣り取りの最中、コツコツと何かが窓を打つ音が聞こえた。雨でも降って来たのかと外を見たレスリーの顔が呆気に取られた表情のまま固まる。
「夜分遅くに済みません。さっき道でナタリアと言う人と擦れ違いまして」
頭を掻きながら部屋を覗き込んでいたのは、紛れも無くリアンその人だった。
「何でこんな所にエルフが……」
三者三様相見える。
誰もが悟った。
今夜は荒れそうだと。