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月夜に恋の歌

あれ以来、俺は北の酒場へ足繁く通った。


アンナが気に入ったこともあるが、常連のミランダに愛着が湧いたことも理由の一つだ。


「こんばんは」


声をかけても返事はない。

つれないが、彼女のそう言う所が可愛い。


「よくもまあ懲りずに来るわね」


彼女は手元のグラスを見つめながら言った。やはりボブが似合う。サイドに寄せた前髪も決まっている。こう言う事を考えるのも珍しいが、この世界の基準から見ても結構な美人なんじゃないかと思う時がある。


「今日も嫌なことがあったの?」

「ええ、まあね」


回数を重ねるごとに彼女は少しずつ自分のことを話してくれるようになった。聞けば何かの仕事をしており、そこでの扱いが不満だと言うことらしい。


「どの界隈にも肩書きってもんがあって、歌劇にしても同じなのは分かってる。けど私が言いたいのはせめて、素晴らしい劇を演りたいなら女優に合った役を割り振るべきだって事よ」


一息ついてミランダはぐいっと酒を煽った。

憎まれ口が飛んで来ると分かっているが、お酒には気をつけてと酒場の給仕ではなく友人としての言葉を伝え、話に耳を傾ける。


「役の割り当てが不満なの?」

「そうよ。有名な劇場があるって言うから来てみれば、連中と来たら上の連中に媚びる方法しか教えてくれないんだから。この辺の奴らってエルフとか人間とかそう言う物差しでしか人を測れないのかしら。本、当に器が小さくて嫌になるっ」


またしても一気飲み。次々と運ばれてくる酒とツマミに店員も苦笑いを隠しきれていない。東の酒場でも酔っ払いの対処には日頃から手を焼かされているので、彼の懸念は痛いほど良く分かった。


「もうその辺にしときなよ」

「ふん、今日はノリが悪いじゃない。最近ちょっとお喋りになったんじゃないの?」


それは間違いなくリアンのせいだ。彼女の作品を読むために最近はみっちり読み書きの練習をさせられている。近頃は客としてではなく字を教えるために家を訪れるくらいだ。


「嫌だった?」

「別に。自分の事なんか好きにすれば良いじゃない。ただその言葉遣いが一体何処の野郎の仕業なのか、少し気になったってだけよ」


ミランダは蕩けた目で此方を見た。

どうも随分酔いが回っている。


「知り合いのがうつっただけ」


話す訳にも行かず素気無くお茶を濁す。彼女は流されると思っていなかったのか肩を竦め、不満そうに眉をしかめた。それが矢張り可愛くて笑ってしまう。


「凄い役になれると良いね」


この街には有名な劇場がある。そこには夢を追う役者たちが各地から集まってきて、舞台俳優や女優を目指し日々研鑽を積んでいるのだと言う。彼女の名前もこの国では余り馴染みの無いものなので、きっと外地から修練にやって来た若人の一人なのだろう。


「当然よ、必ず有名になってやるんだから」

「あっ」


もう直ぐアンナのステージが始まる。

埋まる前に前列へ行かなければ。


「ごめん、ちょっと行ってくる」


開演の気配を見計らい、テーブルから集まってくる客達を掻き分けて中心へ向かう。常連となって人気が増したのか、ここ何週間かで聴衆の数は確実に増えつつあった。


「皆さんありがとう。今日は三曲歌います!」


呼び掛けに呼応する歓声に彼女の機嫌も絶好調だ。人気者になってからの声は以前にも増して良く通る。


「最初はこの曲からでしょう!」


今や代表曲となった初めて聞いたあの曲は、テンポが速く随所随所で盛り上がるため客からも定評がある。毎回のように足を踏み鳴らして踊り狂う聴衆に店員だけは今日も困り顔だ。


「次はこの曲」


これも初めて聴いた時と同じ組み合わせだ。演歌を思わせる落ち着いた雰囲気に先程の盛り上がりは沈静化するも、何かを噛みしめるように俯いたり目を瞑ったりしながら皆聞き入っている。俺はこの曲を聞くと何故か毎回涙が溢れてしまう。


「最後は初めて歌う曲です。聞いて下さい」


奇しくも初めての公演と同じ構成で感慨深さを覚えていたが、三つ目は聞いたことのない曲だった。持ち歌もそれ程多く無いので新曲だろう。


「おっ?」


中程に入ったところで誰とも無しに呟きが聞こえた。されど曲自体は大して盛り上がるようなものではない。フォークソングのようにルーズな進行は耳障りは良いものの、敢えて悪く言えば使い古されていて面白味がなく、聴いている側の眠気を誘う。


「おいおい」


惹きつけられるのは歌詞だ。主人公は報われぬ恋に身を(やつ)し、不実な関係に囚われている。恨み節を吐いても自ら手放そうとはせず、燃え盛る感情を胸に抱き合えど満たされはしない。相手にとって自分は単なる遊び。


でもそれで良い。心はただ邪魔なだけ。願はくは背中に爪痕だけを残したい。きっとそれは恋の模様を描いている。


誰もが口を(つぐ)んだ。この国は男女の別が明確だ。男は度胸、女は愛嬌。それが美徳とされている。だがアンナは真逆を行く歌で聴衆の心を掴んで見せた。そのずっしりとした重みが皆の頭上に降り積もる。


「もう一度だ」


その時、時計の針が無情にも閉店を告げた。今日が終わり明日が始まる。しかし余韻に浸りたい一人が呟くと、皆が賛同し次々と要望の声が上がった。だがアンコールのような慣習はこの国には存在しない。面食らったアンナはどうしようかと迷う素振りを見せ、店主のいる厨房の方を見やった。


「煩いわね」


そこへ突然遮る声が響いた。聞き覚えのある声に振り向くと、想像通りミランダが席を立ち聴衆の輪の外側まで来ていた。


「帰るわよクロ」


赤ら顔のまま冷静な声で腕を引かれる。それは平生より幾分か大人びた声に聞こえた。


「あとちょっと」

「もう、キリがないわよ。アンタ」


適当に言い包めて連れ帰る気だ。不意に初めて出会った日のアンナに対する隔意を宿した表情が脳裏を過ぎった。


「歌なんて後で幾らでも歌ってあげるから」

「待って」

「……ちっ」


邪魔が入ると思わなかったのか、それとも声の主が彼女だった事に苛立ちを覚えたのか。ミランダはアンナを見据えて不機嫌さを露わにした。


「もう一曲演奏します。せっかくなのでその子にも聞かせてあげて下さい」


俺を見てそう言うと、アンナは弦楽器を担ぎ直してステージから手を振った。拍手喝采を身に浴びながら彼女は周囲に呼びかける。


「今日も有志を募ります。一緒に歌ってくれる人ー?」


普段なら喜んで手を挙げる聴衆も今夜は雰囲気に呑まれ誰も名乗り出ようとしない。


ふと彼女が俺の方を見て片目を瞑った。不意打ちに胸がざわつく。そんな筈はない。頻繁に通っていたとは言え、俺はその他大勢の一人に過ぎなかった。けれど弾む心臓は期待に応えろと(しき)りに念を押す。周りを見渡せば未だ誰も手を挙げていない。チャンスだ、度胸を見せろ。


「私」


次の瞬間、静寂を打ち破る宣言と共に一本の腕が高らかに掲げられた。


「どうぞ」


気づいた時には側にミランダの姿はなく、脇を擦り抜けてステージの上に登っていた。先ほどの二人の遣り取りを見ていた聴衆の一部からは非難の声が上がったが、彼女は欠片も物怖じする様子を見せることなく目の前のアンナに向かって言った。


「演って」


壇上で二人の視線が交錯する。固唾を飲んで見守る聴衆を尻目にカウンターの店員は厨房へと駆け込んだ。


「では」


示し合わせたようにアンナはいきなり弾き始めた。例の三曲目だ。


気合の入った弾き語りに感嘆の声が上がった。これほどまでに周囲を味方につけた彼女を遮ってしまってミランダは大丈夫だろうかと少し心配になる。


「店仕舞いがまだとは何事だ!」


厨房から怒鳴り込んできた店主の事を最早誰も気に留めていない。壇上では演奏が続けられている。周囲の視線を(ほしいまま)にしたのは、ただ一人。


「何て」


思わず漏らした店主でさえ、暫くはその事に気付かず呆然としていた。冴え渡る月光のように澄んだ歌声は酒場中に響き渡り、人々の衝撃はどよめきに変わって天井まで昇っていった。


「もぅ、あなたったら!」


何処かのテーブルで黄色い声が上がった。見れば丁度、異性と飲み交わしていた女がステージに釘付けになった連れを見兼ね、掌で頬を強かに打ちつける場面だった。


周囲からは顔を腫らした彼に同情の眼差しが向けられる。何故ならどのテーブルを探しても他の女に目をくれている男など、酷い事にこの場において誰一人見受けられなかったからだ。


前髪を払い退けながら目を瞑って歌う彼女の姿は誰しもの記憶に深く刻み込まれた事だろう。そうと知らず、さっきまで愚痴の相手をしていたことを思うと無意識に足が震えた。


「誰か、誰か知り合いは居ないのか」

「何者なんだ彼女は」


ステージが遙か遠くに見える。熱狂する聴衆を他所に、俺は咄嗟に彼女の名前を呼んだ。


「ミランダ!」


この日、遂に酒場の床が抜けた。

今夜の事は皆の語り草になるだろう。


◇◇◇


「そんなことがあったのね」


隣で寝転ぶレスリーが曖昧に相槌を打つ。その胸がゆっくりと上下するのを見ていると、安らかな気分になれた。


「最近お喋りになった?」


ミランダと同じ事を言う。紛れもなくリアンのせいだが客の前で他の客の名前を出すのも角が立つ。俺は予め考えていた言い訳を使った。


「本を読むようになったの」

「ふぅん」


レスリーは頷くのと同時に俺の片耳に触れた。リアンが弄るせいで過敏になってしまった感覚が目覚めかけ、堪らず首を捻る。


「逃げないで」

「ひん」


レスリーは何かを確かめるかの如く、執拗に耳を攻めた。思惑を読めずに冷や汗をかく。


「嘘が下手ね」

「え」


興味を失ったようにレスリーは耳を離した。行き場をなくした指は暫し空中を彷徨い、やがて俺の腹の上に落ち着く。


「いつからお腹まで真っ黒クロちゃんになったのかなぁ?」

「うっ」


臍を押されると苦しげな声が勝手に漏れた。それを玩具のように弄んだ後、その手は徐々に上を目指し始める。


「あまり反応が無いわね」

「慣れちゃったかも」

「はぁ、つまんないの」


いじける様にそっぽを向いたレスリーの前に回り込み、今度は俺から仕掛ける事にする。


「交代しました」

「何の真似?」

「いや、何となくだけど」


両腕に挟まれた彼女の胸を見つめる。上手い言葉で喩えられたら褒めて貰えるだろうか。


「うーん」

「何、まじまじと」

「この胸はねぇ」


当て嵌まる言葉がなかなか出て来ずに悩む。しかし何とかリアンと同じように彼女にも近頃の成長を認めさせたい。


「目玉焼き……?」


言ってから絶対に間違えたと思った。レスリーの目が見開かれたまま据わっている。諦めて素直に謝ろうとしたが既に遅く、仰向けにひっくり返された挙句に馬乗りにされた。


「ごめんなさぁい」

「謝れば済むと思ってるんでしょ?」

「ごめんなさい、ごめんなさい」


ドツボに嵌っていく俺を見てレスリーは愉悦の笑みを浮かべた。彼女の指の動きを見て意図を察した俺は素早く両手で守りを固め、彼女の目を下から()め付ける。


「お願いがあります」

「言ってごらん」

「後でそっちも食べさせてくれる?」

「それは今後の態度次第かしらね」


喜ぶ暇もなく彼女の指が侵攻してきた。最初の擽ったさに身をくねらせて悶える。


「目玉焼きを攻撃します」

「いやん」

「まず外側から焼いていきます」


レスリーの指は縁をなぞる様に外周から攻めてきた。時間をかけてじっくり焼かれると次第に周辺が熱を持ち始める。


「焼けてきたら少しずつ中へ」


螺旋を描くように中心を目指しつつ気まぐれに腹や首、脚の付け根に触れ、びくりとさせてくる。


「指、あついよ」

「あんたの方が熱いのよ」


締めに近づくと彼女はラストスパートをかけた。爪の先で引っ掻くように擦られた後、蟹の挟みのように親指と人差し指をかち合わせて頂点を摘まれる。


「カリカリに焼けましたね」

「ん……ん……」

「カリカリ、に」

「ぐぅ!」


リズミカルに力を込められ、痛みで腰が持ち上がる。充血したそれを見て俺は涙ぐみ、レスリーは嬉しそうににやけた。


「痛かったよぉ」

「よしよし」


彼女は泣きついた俺を引き剥がすことなく、抱き上げて両腕に抱えた。


「はぁい赤ちゃん」


胡座をかいた膝の上に乗せられ、乱暴に頭を撫でられる。調子に乗った俺は彼女の冗談に遠慮なく乗っかった。


「やだ、ちょっと」

「目玉焼きおいしい」

「馬鹿みたい」


我に帰って恐る恐る顔を上げると、レスリーは予想に反して切なげな目をしていた。


「大っきな赤ちゃん」

「赤ちゃんです」

「お腹一杯になった?」

「まだなりません」


悪戯っ子のように返答していると、徐々に眠気が襲ってきた。レスリーには申し訳ないが今日はここまでにして貰おう。


「眠い」

「もうねんねする?」

「うん」


胸に顔を埋め、体重を預ける。


「お母さん」


いきなりドンと肩を押された。弾みで壁にぶつかった頬が俄かに熱を持つ。何が起こったのか分からず、驚いてレスリーを見上げる。


「どうしたの」


彼女は険しい形相で此方を見下ろしていた。明らかに普段と異なる相貌に不安で言葉が胸に詰まる。


「レスリー?」

「勘違いしないで」


彼女は何処か動揺した様子で仰向けに寝る俺の上にのしかかり、両手を此方の身体の脇に置いた。その目に蒼い光が映り込んでいるのに気付き、今夜は月が出ているんだったな、と他人事のように思う。


「その手は何」


敢えて言葉をかけずに説得を試みた。手首を優しくさすっていると、彼女の眼差しが時と共に理性を帯び始める。これなら話が通じるかもしれない。


「レスリー」

「何かしら」

「言っておくけれど、痛いのが御所望なら別料金を取るわよ」

「馬鹿にして」

「違うならこの手を退けて」


刹那、時が止まった。一瞬間が空いた後、彼女は此方の身体の上から退いてベッドの端に腰を下ろす。


「気は済んだの?」

「今話しかけないで」

「ごめんなさい」


彼女の背を見つめる。

窓から差し込んだ光が部屋を照らし、床の上に彼女の影を形作っていた。それは濃く、触れるのが憚られるほど暗い色をしている。


「クロ」

「何」


ややあって彼女は俺の名前を呼んだ。

視界の端の背中に返事をする。


「怖くなったの。あんたと来たら警戒心もなしに擦り寄って来るんだもの。こっちはお金で買ってるって言うのに」

「そんなの分かってる」


当然これは愛なんかではない。

単なる恋だと言わせたいのだろう。


「本当に?」

「えぇ」

「なら安心した」


何かに怯えていた彼女も(ようや)く振り返って笑顔を見せた。和やかな雰囲気が戻ってくる。


「ねえクロ」

「うん?」

「けじめをつけさせて欲しいの」

「どうやって」


彼女は前触れもなく両手で俺の首を絞めた。


「ぐっ」

「ふふ、顔が真っ赤ね」


程なくして力を緩めると、彼女は愛おしげに此方の首筋を撫でた。茶目っ気を察して口角が上がる。


「別料金」

「ええ払いますとも。だからやらせなさい。今宵は痛がる顔が御所望よ」

「ん」


これは性欲なんだ。やっと理解した俺は目を閉じて衝撃に備えた。黒い視界に星が散る。それからはもう滅茶苦茶だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても読みやすく、飽きない小説です。 18禁?の要素は、あまり気になりませんでした。アクセントになって、とても良いと思います。 情景描写も丁寧で、イメージがしやすいです。 とても面白い…
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