酒場の歌手とエルフ(後編)
「どうぞ」
「失礼」
勧められて彼女はベッドに腰を下ろした。細かな所作の端々に他の客とは一線を画する気品が窺える。
「ここはそういう場所だと思って良いの?」
「うん、ただの家だけど」
「へぇ意外だな」
脱いだ上着を窓際の椅子の背凭れに掛けてから彼女は言った。その動きに合わせてさらさらと髪が揺れる。
「客を家に招く人は珍しい。とち狂った輩が押しかけて来たら君も抵抗出来ないでしょ? 他人に素性を知られるのはその位危険だって事。だから世の中には娼館と言うものがあって、幾らかの稼ぎと引き換えに働き手の身の安全を保障している」
「つまりクロは変?」
「ううん。軽く興味が湧いただけ。気を悪くしないでくれると助かる」
彼女の長い耳が視界の端で時折ピクリと動く。心と連動しているらしいその動きが気になり、どうしても会話に集中出来ない。顔を見ていた筈が気付けば耳を凝視していた。
「気になる?」
「うん」
「触ってもみても良いよ」
「本当?」
背を伸ばしてベッドの端に行儀良く腰掛ける彼女の後ろに立ち膝で回り込み、そうっと両耳に触れた。感触は人間の耳より若干薄く冷んやりとしているくらいで他は大差ない。けれどピクピク動く様を見た後では何だか面白く感じられ、横に引っ張ったり兎のようにぴんと伸ばしたりしていたら流石に目で窘められたので慌てて手放す。
「可愛らしいね君は。一体幾つなのかな?」
答えが返ってくると思わなかったのか彼女は驚いた顔をした。また両耳が反応している。
「ごめん。予想外で。確かにそのくらいの年齢なら君のような仕事をする子もいるね」
「ふぅん」
俺が適当に返事をする間にも彼女はいろいろな事を考えているのか忙しなく両耳が動いている。部屋の隅々まで観察する眼差しは童話に出てくる魔法使いのように理知的だった。
「何もない部屋だね」
「ええ」
「灯りをつけても?」
「いいわよ」
壁掛けの燭台にマッチで火をつけると双方の容貌が明らかになる。彼女は前髪を長く伸ばし横に流して瞳に掛からないようにしていた。金髪はこの街ではよく見かけるが、翡翠色の瞳は初めて見た。やはりエルフは体の造りが違うのかもしれない。
「やっぱり明るくても子供に見えるね」
「がっかりした?」
「全く」
やはり彼女もそういう趣味なのだろうか。言い伝えの賢者のように感情の読みづらい目をしているのでよく分からない。
「趣味とかもないの?」
「そんなにお金ない」
「なるほど」
会話の緒を探しているようならこちらから話しかけた方が良いだろう。心なしか両耳も垂れ下がって元気が無い。
「お姉さんの方は?」
「趣味と呼べるか微妙だけど、小説家なんだ」
だからお話を考えるのが趣味みたいなものかな、と彼女は言った。
「すごいね」
「そんな、しがない稼業だよ」
「それでも会ったのは初めて」
作家って本当にいるんだ、と言ったら笑われた。けれど嫌な笑い方ではない。彼女の穏やかな気質のせいだろう。
「どんなお話?」
「それは読んでみて」
「無理。文章が分からないもの」
俺は簡単な単語くらいなら書けるが、れっきとした文となると意味が分からなくなる。街の人間の多くは日常的に読み書きする習慣がない。
「そうか、今どき小金持ちでもなきゃ字なんて習わないか。ごめん。馬鹿にしたかったわけじゃないんだ」
「馬鹿?」
「ううん。大人になっても字を書けない人なんて大勢いるよ」
徐に彼女は立ち上がり、椅子に掛かった上着の方へ何かを取りに行ってから隣に戻ってきた。
「この小さいのも本なの。昔は分厚い紙に手作業で書き写していたものが、今じゃ版画で大量に刷れる。おかげか小さくて持ち運び易くなったんだよ、ほら」
手渡された本を持ってみると、厚みがある割に軽い。この世界に来た頃は本など教会の人間しか持っておらず、それも板のように分厚くて重そうな装丁の凝った物ばかりだったが、あれから技術は進歩していたようだ。
「左から右へ書くんだよ」
彼女は羽ペンで本の表紙の裏に何か書き込んだ。肩に身を寄せて手元を覗き込む。
「リアン。私の名前」
「難しい」
「君はクロだね、綴りはこうだよ」
彼女は次々と新しい言葉を綴っていく。体の部位や家族の呼び方、天気、食べ物の名前など幾つかの簡単な単語を書いてみせた後、今度は俺に羽ペンを握らせて真似してみろと言った。
「ペンの持ち方は分かるでしょ?」
「うん」
「じゃあやって見せて」
リアンは期待の籠もった眼差しで俺を見つめ、両耳をゆらりと上下に揺らした。それでもペンを握る俺の手はなかなか滑り出さない。
「ねぇリアン」
「どうしたの?」
「今から絶対に笑わないと誓って」
「うん、分かった」
差し迫った俺の声に彼女も不意に真剣な表情になる。両耳がぴいんと真横に張った。
「右ってどっち?」
途端に身を捩って笑い転げた彼女の背中を俺はグーで殴った。
◇◇◇
「へんたい」
覚えたての言葉が狭い部屋に虚しく響く。教えた当人は気にも留めず足下で励んでいた。
「何か微妙にズレる」
何やら不満の声が上がったが、俺は臆する事なく抗議を続ける。
「ご主人様の変態」
「違うな」
「もうお嫁に行けない」
「割と惜しいか」
「末代まで呪ってやるぅ」
「逆に遠ざかった」
興が削がれたかのようにリアンは両腕を休めて蹲る。どうすることも出来ず俺は不安になって声をかけた。
「何が不味いのリアン?」
「あーもう」
がっくりと肩を落とした彼女に申し訳無さげな視線を送る。すると観念したらしくクスリと自嘲の笑みを浮かべ、低い天井を仰いだ。
「ごめん、流石に無理があった」
「失敗しちゃった?」
「気にしないで。こっちのせいなんだから」
諦観を孕んだ声に口調を元に戻す。やはり付け焼き刃で板につく物ではなかった。
「設定って難しい」
「慣れてないから余計にね」
「好きなの? 設定」
「まあそれなりに」
無表情で顔を背ける様子を見て確信する。
リアンは変態だ。
「へんたい」
「うわ、覚えたのか」
「変態っ」
「ちょっと」
「ど・へ・ん・た・い」
「……言ってくれたな」
拙い罵倒に興奮を覚えたらしく、リアンは勢いを取り戻した。首筋に顔を埋められ襟元を力一杯吸われると、いつもの癖で鼻から吐息が漏れる。
「凄く色っぽい。ほら、もっと」
「ひん」
今度は唇に。触れ合う耳同士がこそばゆい。耳の長い客は以前にもいたが、こんなに長いのは初めてだ。
「くすぐったいっ」
「もう。ムードの欠片も無いんだから」
「だって本当なんだもん!」
堪らず顔を背ける。すると手で押さえつけられ、無理やり前を向かされる。刺激に備え目蓋を固く閉ざしたままじっとしていると、やがてリアンが此方の耳にそっと触れてくるのが分かった。彼女の指はそのまま左右の耳を撫で、時には耳朶の縁をなぞり、悪戯っぽく塞ぎ、髪が垂れてくると滑らかに梳いた。安心して俺はされるがままになり、蕩けるまで彼女の指を味わった。
◇◇◇
「北の酒場にいたでしょう」
「うん」
「元々声をかけるつもりであの店に行った。けれど君、泣いてたでしょ。初めて見たのがそれだった」
そこで一息つくと、彼女は再び蛇口を捻ったように話し始めた。
「痺れたよ。何を恨むでもなく、仕方のない事みたいに受け入れていて。あんな風に涙を流す子はそう居ない。あのとき君を絶対に買うと決めた。何で泣いていたの?」
「ねえ」
質問を無視して尋ねる。
「結局、何の話なの」
「ん?」
字の練習を一旦中断して見やると、リアンは少し不服そうな顔をしていた。
「作家の事よ」
「ああ」
隣に寝転がる彼女の胸がゆっくり上下するのが見え、何となく落ち着いた気分になる。
「愛の話だよ」
「愛?」
何だか壮大な言葉に呆けたようになるも、リアンは真面目な表情を崩さなかった。
「ひとりの人間が愛を知り、愛したいが為に奮闘する。そんな話ばかり書いてる」
「難しそう」
「ありふれたテーマだよ」
彼女が話したそうだったので俺は黙り込んだ。暫しの沈黙の後、会話が復活する。
「誰かを愛するには強さが必要だ」
「何故?」
「弱さと優しさは区別がつかない」
何となく言いたい事は分かる。
要するに愛って難しい。
「クロは誰かを愛してる?」
「リアンとか」
「ふふ、嬉しい」
彼女は力なく笑った。
「でも哀しいかな、愛と恋は別々の感情だ」
「似た者同士じゃ無いの?」
「全然違う」
珍しく強い否定が入った。俺はリアンの目を見つめた。闇の中で微かな翡翠色が天井を向いたまま揺れる。
「相手に尽くすのが愛」
「なら恋は?」
「性欲だね」
リアンはきっぱり言い切った。
「美化したって無駄だよ。あくまで自分本位の欲望。満たされたように思えても単なる利害の一致に過ぎない」
「ふぅん」
段々難しくなってくる。彼女も然程返答には期待していないのかも知れない。
「長々とごめん。私も君のことは好き。でも今のままじゃとても愛とは呼べない」
「何で?」
「何でも、だよ」
言うなり彼女は燭台の灯りを消した。何も見えなくなった部屋で隣に横たわる彼女の気配を感じ取る。沈み込むベッドの上、俺は言葉の意味を考えた。それは心の柔らかな部分を抉り、眠りに着くまでなかなか胸を離れなかった。