口溶け
「ふぁ」
可愛らしいあくびと共に舞い降りてきたのは雪だった。この街へ越してきてからこっち、初めて目にする降雪だ。
「……名残雪、かぁ」
「今夜辺り積もるかしら?」
「うーんどうかな。去年と一昨年はそれほどでもなかったけど」
ため息も凍るような週末の朝、同居人は窓辺で生まれたての子猫の様に空を眺める。年甲斐のなさに呆れたのも初めのうちで、今ではすっかり見慣れてしまった。
「霜焼けになるわよ」
「平気。そんな直ぐにならないから」
だが吐く息は白く、窓硝子に触れる指先にも仄かに赤みが差している。早く離せばいいのに、とやきもきさせられた。
改めて三寒四温、とはよく言ったものだ。
漸く暖かくなってきたかと思えば今度は雪。日当たりは悪いし洗濯は諦めるほかない。差し当たって必要なものは何かあったかと頭の中で予定を組み立てる。
「ねえ、何か要るものある?」
「何で?」
「買い物よ。店が閉まっちゃうでしょ」
「ええっ、今から!?」
アンナは咄嗟に振り返って二の腕を掻き抱いた。妙に使い古された仕草にやはりこいつは何処か抜けている節があると残念に思う。
「明日にしなよ、食べ物だってまだあるし」
引き留められ思案する。積もる前に行こうと思ったが、入用な物もない。今度でいいか。最近この考えに毒されている気がする。
「にしてもさ」
再びベッドへ腰を落ち着けた私にアンナが呼びかけた。
「以前なら信じられないよね。まさか一緒に暮らすことになるなんて」
「本当」
人間分からないものだ。初めて見た時からずっと気に入らない相手だと思っていたのに。私よりも下手な癖して、一端を気取って。
「最初は何こいつ、って思ったよ。訳もなく睨まれるわ、威嚇されるわ、仕舞いには持ち歌まで横取りされちゃって。曲を書いたのは私だっていうのに」
私達は互いに嫉妬していた。けれどそれは尊敬の裏返しと違わなかった。反発し合う気持ちがひょんなことで通じ合って今に至る。
「やっぱりあの子のお蔭かな」
不意にアンナはこちらを見てきた。目元が微かな笑みを湛えている。敢えて言わないが好みの仕草だ。
「きっとそうね」
私は今、素直に笑えているだろうか。
ここへ来て間もない頃、酒場で出来た束の間の友人がいた。彼女の門出を祝う折、ふと私はむきになりがちな自分の存在に気付いた。もしかすると好きになれなかった原因は狭量な自分自身にあるのかも知れない、と。
「そろそろ布団に入りなよ。ココア淹れてくるから」
「お、優しい」
後の行動は早かった。好きな相手と繋がっていられる方法は切りたくない縁を切らない事。そういう時に物怖じしない性格は後悔することが少なくて結構気に入っている。
「飲んで」
「ありがとう」
コップを両手で受け取った赤鼻のトナカイは林檎のような頬を軽く膨らませ、湯気の立つそれを吹いて冷まし始める。間抜け面が然程気にならなくなったのも彼女を好きになった証拠なんだろうか。
「次の仕事決まった?」
「ええ。それも今度のは大役よ」
「うそっ、凄いじゃない!」
こんな場面で自分のことのように喜べる屈託のなさが彼女の美点だ。
「リアムって居るでしょう。奴が素性を公開したのよ。何でかみんなやりたがらないから舞台化の主役を買って出てやったわ」
「それでその本読んでるのね」
児童文学を書いていただけあって文章がとっつき易い。流行るのも分かる気がする。ちょくちょく登場人物の貴族が少女に惚れたり、文通相手の女冒険者への愚痴に頁が割かれていたりするのはご愛嬌だ。本心では結構彼女のこと好きなんじゃ、なんて邪推も楽しい。
「……その人さ」
「うん?」
「来てたことあるよ。例の酒場に」
それは驚いた。
思いの外、身近な人物だったとは。
「何度か話したこともあるよ」
「もしかして友達だったり?」
「そこまでじゃないけど。貴方の本を題材に曲を書いても良いですか、って聞いたら許してくれた」
「ふぅん」
不思議な縁もあったものだ。染み染みと手元の本に目を落とす。
「…………ん?」
おかしい。何処か既視感を覚える。
よもやこの場所はあそこか。
ではあれはこれで、これはあの子?
いやまた、ご冗談を。
「どうかした?」
「ううん、別に」
どうやら知らないことが沢山あるようだ。狼狽えてうっかり零さないようココアを両手で包み込む。ほどよい温度になったか確かめる為、もう一度息を吹きかけると、立ち消えた湯気の先には未だ困惑気味の私が薄っすらと見え隠れしていた。これじゃ訝しがられても無理はない。
「ねぇ、ミランダ」
一思いに飲み下してしまえ。苦味の中にほんのりと甘さの混じったそれは喉元を過ぎてみれば案外悪くなく、説得力も相まって寧ろ心地の良いものだった。
「いつまで、ここにいる?」
「さあ」
態とらしく外でも見てみる。
「ま、何れにせよ当面の間はね」
雪よ降れ、私の上に。