デート(前編)
海だ、と彼女は言った。
◇◇◇
月の末、勇気を振り絞ったサラがオリビアに声をかけたのは一般棟の三階の廊下でのことだった。
偶然見かけたアルバによるとサラは声をかけるまでに三回咳払いをし、四回手鏡を覗き込み、五回前髪を整えて決戦に臨んだという。
果たして教室から出てきたオリビアに出待ちしていたサラが駆け寄る。側では無理やり連れて来られたテスが何だかんだと義理堅く見守っていた。
「オリビア先輩っ」
先輩、などとサラが畏まって言うものだからオリビアは面食らって切長の目を瞬かせていたらしい。
級友の子らも何事かと様子を窺う中、サラは脈絡なく切り出した。
「今度写生大会があるでしょう。私と勝負して勝った方の言うことを聞くというのはどうですか?」
出し抜けな提案にも関わらず、彼女が何かに付けてオリビアと張り合いたがるのは周知の事実だったので、皆すんなりと受け入れてしまった。
「良いよ。君が負けた時は、そうだな……逆立ちで校内一周なんて詰まらないし、いっそ生きた虫でも捕まえて教頭の机に入れてきて貰おうか。おったまげるぞ、あいつ」
オリビアが愉快そうに言うと皆一斉に笑った。サラは挑むように頷き、かくして口約束が結ばれた。
「もっと呼び出すとか、そういう方法はなかったの?」
「だって上手く捕まらないんだもん」
ベッドで簀巻きになっているサラはお世辞にも絵が上手いとは言えない。俺も素晴らしい題材かと問われれば多くが首を傾げるだろうし、何より提出期限が間近に迫っている。
「何でよりにもよって写生大会なの? アンタぶきっちょでしょうに」
「思いつかなかったの!」
「どうすんのよ」
「取り敢えず、協力者を募ってみた」
その時ぞろぞろと見知らぬ生徒達が部屋に入ってきた。皆何処かしら似通った風貌をしている。
「どちら様?」
「別棟で一番絵の上手いルイーズと、二番目に上手いルブランと、三番目に上手いエリザベートよ」
サラが頼むと三人はあくせく働いて見事に絵を仕上げた。平凡な俺の外見があれよあれよと言う間に絶世の美少女に仕立て上げられていく。
「そこは少しこう、写実的に。そこはもう少し幻想的にふわっと、そう!」
「あー知らない」
結果的にサラが描いた部分は針の穴ほども見受けられなかったが、肝心の作品は実に素晴らしい出来栄えだった。モデルと似ていないただ一点を除けば優勝間違いなしである。
そうして迎えた運命の結果発表の日、サラの作品は見事一位を勝ち取った。二位はオリビア。絵にも覚えがあった彼女は初めて悔しげな表情を俺たちの前に晒した。得意げに胸を張るサラの隣で事実を知る俺とテス、そして何かを悟ったアルバだけが冷や汗を隠し切れずにいたのだった。
◇◇◇
サラの望みは週末に漸く明かされた。緑葉光る校門の並木道で朝早くから俺とアルバは皆の支度が済むのを待っていた。服装は普段と異なり他所行きのそれだ。
アルバの服は自前だが、俺のはサラのお下がりである。まともな服を一着も持っていない事でサラにもアルバにも大層驚かれた。
「やっぱり怒られないかしら?」
「大丈夫だって。ねだった時は大して気にしてなかっただろう。先輩と出かけられさえすれば後は何でも良いんじゃないか?」
本来着いて来るはずのない俺達が同行する事になったのはアルバの企みによるものだ。
先日の真相を目敏く見抜いた彼女は黙っているのと引き換えにサラ達に条件を突きつけ、今回の件を認めさせた。デートの邪魔をしない代わりに外出の許可を得ようという魂胆である。
「こんな機会でもなけりゃ遊べることも無いんだ。少しくらい羽を伸ばしてもバチは当たらないさ」
「またそんなこと言って……」
事実、使用人はみだりに出歩くことを禁じられている。条件は生徒も同じだが、格式張った学院での生活を一層窮屈に感じている者も中にはいるかも知れない。現にアルバなどは出かけると聞いただけで晴れやかな様子だ。
「あ、来た来た」
思案している間にサラとテスがやってきた。サラがおめかしして来るのは分かっていたが、テスは目の下の隈を一層深いものにし、いつにも増して疲れた表情をしている。サラに支度を手伝わされたと言った所か。
「みんな早いな」
オリビアだけは見慣れた格好だった。もしやサラは不満に思うかと勘繰ったが、嬉しそうな表情を見るに案外そうでもないようだ。これが彼女らしさなのかも知れない。