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大人になるな

西の空に雲が走っている。最近日が長くなり時間感覚が曖昧になってきた。山間(やまあい)に沈み込む巨大な夕陽に何もかも染め上げられ、空気は俄かに蜜柑色の色彩を帯び始める。


「さっきから聞いているのですか?」


ゆっくりと視線を移すと、半分斜陽に照らされた教頭の顔が浮かび上がって目に入った。もう何時間も続けている不毛な遣り取りを今尚続ける現実に意識が急激に引き戻される。


「目を逸らしたって無駄です。貴方は生徒達に悪戯をした。その事実を今更覆す事は出来ないのです。己の立場を弁えない者には然るべき罰を与えなくては道理が通りません。貴方には彼女等への謝罪と減給を命じます」


ほんの一時口を閉ざしただけで怖気付いたと思ったのだろうか。我が意を得たりと熱っぽく捲し立て、したり顔で此方の反応を窺っている。


表情は然程変わらなくとも、口許の歪んだ皺と僅かに膨らんだ鼻の穴が何より雄弁にそのことを物語っていた。化粧気の少ない顔に瓶底眼鏡。面白味のない服装に後ろで束ねただけの無造作な髪型。実に分かりやすい人物だ。


「質問の答えがまだです」


あくまで平静を装い真っ直ぐに目を見据えて言うと、腕組みしつつ椅子に腰掛けた先方は鼻白んだのか毛が疎らな眉を潜め、がさついた唇を台形の形に開いて不機嫌さをより露わにした。


「アルバは複数の生徒達から執拗な嫌がらせを受けていたと聞きました。其方にも反省の余地があるのでは」

「お黙りっ!」


耳を(つんざ)く黄色い声に周囲の席では他の教師達が疎まし気に此方を見ている。俺も大概だが彼女の外聞もまた然り、お世辞にも良いとは言えなそうだ。


「彼女等と貴方とでは明確な線引きが存在します。それは生徒と使用人という立場の差。踏み越えてはならない一線を愚かにも貴方は跨いだの。あの子にしてもそう。きっと至らない態度が生徒達の癇に障ったのでしょう。しかしそれはあの子の落ち度であって貴方のしゃしゃり出る幕はないのよ。自分が余計な事をしでかしたのをまだ分からなくって?」

「不当な扱い自体はあったと」

「黙れと言っているでしょう!」


太い鼻頭に玉の汗を浮かべ、目尻に皺の寄った細い眼を目一杯見開いて声を荒げる姿はどう見ても人の上に立つ事に不向きな人間のそれだ。彼女が教頭の職に就くまでにどのような経緯があったのかを想像する。大方ろくなものでは無いのだろう。


「私のことはいいんです。けれど使用人だからと言って生徒からそんな仕打ちを受けるなら我慢なりません。私達は奴隷でもなければ生徒達の日々の鬱憤を晴らす為の道具でもない。それこそ道理の通らない話の筈です」

「口答えを許した覚えはありませんっ!」


遣り取りは終始こんな調子だった。端から此方の言い分に耳を傾ける気などさらさら無いのだろう。元より議論の体を成していない。


「そもそも貴女は使用人でしょうが。生徒と関わること自体が(はばか)られる身の上でよくもそんな生意気な口が利けるものね。何か勘違いなさっているんじゃ無いかしら。私との立場だって同等では無いのよ。それで態々時間を割かせているって現状を理解しているのかも怪しい所だわ。本当、図々しいったらありゃしない。経歴も知れたもんじゃ無いわね」


云々、滔々と続く。最早説教でもなく単なる人格否定の域に達している。聞く価値のない言葉は受け流すのみだがこのような理不尽な物言いは物心ついた頃から幾度となく耳にしてきたので懐かしいとすら錯覚する。蔑みや罵倒の声に慣れすぎて久しく聞かなかったそれに安堵さえ覚えるのは異常な事だろうか。


「聞いているの!?」


俺は特技を持っている。人に怒られている間に意識を飛ばせるのだ。相手の目を直視せずあくまでモノとして認識するよう心の中で暗示を掛けると次第に顔だけが浮かび上がって見えてきて、言葉が遠く自分とは無関係のように耳を素通りするようになる。後は時間が経つのをただ待てばいい。


そうしていると視界に映る風景も何処か他人事のようで、部屋に差し込む夕陽も窓際に置かれた花瓶の影も誰かから向けられる迷惑そうな奇異の視線もまるで静物画に描かれた背景のようにのっぺりと現実離れして見えた。


それは深い海の底から海面の光を見上げたり分厚いガラス越しに外の景色を眺めたりするのに似ている。ちょうど金魚鉢の中の金魚の気分と言えばぴたりと当てはまるだろう。


「今後は付き合う相手も考えて頂戴。でないと影で何を言われても知りませんよ。生徒達も面白がっているだけで誰も貴女に興味なんて無いんだから」

「それは心外ですね」


ふと。

陰影のない歪んだ世界に一石が投じられる。既視感を伴った声は意識を思考の水底から一気に地表まで引っ張り上げた。


「個人的に交流がありますが、彼女には友愛の情を抱いています。生徒達の中には面白半分で関わっている者も居るでしょうが、同じように友人として接している場合もあるのが実際だと私には(・・・)思われます」


畏った口調のオリビアはすらすらと澱みなく見解を述べると背後に立って此方を擁護するかのように教頭と相対した。見れば向こうの顔は茹で蛸の如く上気し、夕陽に勝るとも劣らない相貌を顕にしている。その他も何ら変わりなく、何なら職員室に居る五人の教師のうち一人が女で四人が男、眼鏡は教頭を含め三人であることなど子細な情報が目に飛び込んできた。


「何故この子の肩を持つの。これは被害に遭った生徒達の沽券に関わる事態なのよ?」

「先生は何か勘違いしてらっしゃる。当の生徒達は事務員に悪戯をしてやり返されたと言うだけで、沽券などと考えている者は一人も居ません。それに彼女は一介の掃除婦であって生徒ではない。彼女にお説教する事が出来るのはただ一人、掃除婦長さんだけです」


暗に貴女の出る幕ではない、とオリビアは戯けた声音で漫才師のように締め括った。周りの席では何人かの教師達がにやつきながら此方の様子を伺っている。迷惑半分面白半分と言った塩梅か。


くすくすという忍び笑いに職員室の雰囲気が和やかに様変わりする。さっきまで断罪の場だったそこは見世物小屋の前に集まった野次馬の列の様に神妙な空気に似つかわしくない場所へと変化していた。


教頭が真面目くさって聞き返すのを彼女が冗談で返すのでまともな言い合いにならない。会話の主導権を握ったオリビアは教師陣を前にパフォーマンスを繰り広げ、ひと笑い取ったところで不意に観衆の一人に話しかけた。


「所で先生。先日の宿題の件ですが、私の提出した作文の出来栄えは如何ですか」

「そうさねえ、言葉遣いや書き方に問題は無いが内容がちと。『幼少期の思い出』とは言え海へ遊びに行った折にクラーケンが出てきたり、空に辰が踊っているのを見かけたり、そんなに都合良く行くものかね?」

「はは、先生も作文を沢山お読みになるので飽きてくるかなと思いまして。中にはそういう物もあった方が楽しめるでしょう」

「そりゃあお気遣いどうも」


途端に笑いの渦に包まれる教師達を尻目に、それでは、と俺の肩を掴んでオリビアは職員室を退出して行く。振り返ると呆気に取られた教頭だけがぽかんと間抜けな表情を晒して未だ椅子に座っており、これは後で怒られそうだと先が思いやられた。

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[良い点] 面白いです。続きを待ってます。
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