夏嵐
「何か見える?」
明くる日は空前の曇天だった。
季節外れの空模様が引き連れてきた雨雲は途切れ途切れにやる気のない小雨を降らせ、不都合にも片付け途中だった校庭を尽く泥濘みに変えた。
「また乾くまで待たなくちゃね」
「寧ろずっとこのままでいいよ。永遠に仕事を休める」
真っ直ぐ立てた箒の柄に凭れ掛かり、だらしなく脚を開いたアルバは誰もいない廊下の窓に向かって独りごちる。
焦点のずれた眠そうな瞳は曇り空を見ているようで見ていない。数日前に行われた試合を思い出して、あの時の光景でも幻視しているのだろうか。
見つめられて思わず反らした視線の先にはこれと言って何も無いのだろう。言い訳するように手を動かしては時折外に目をやる。
「球技大会」
「……うん」
「やるらしいな、来年の春」
そんな催しまであるとは知らなかった。
でも何故、今言うのか。
「気になるの?」
返答はなかった。浮いた言葉を掻き消そうにも気の利いた科白が見当たらない。行き場をなくした後悔は宙ぶらりんのまま、音もなく大気に溶ける。
「いいよなあ」
やにわに言われて何の事か分からなかった。こういうとき空気を読む能力が欲しくなる。溜息を吐きながら彼女は一度乱暴に地面を掃いた。無論、塵など落ちていない。
「何だか、やってらんねえ」
「図書棟行こうか」
「ああ」
その場を後にするまでアルバは暫し窓越しに空を眺めた。
◇◇◇
授業中の図書棟は人気がなく、緑色の木漏れ日だけが窓を透過して淋しげに佇む書架の群れを照らし出していた。今日は例の彼女も居ないようで安心して本を探せる。
俺は子供向けの本、アルバは少し背伸びした小説を手に取って机の前に集まった。
「座れよ」
「いいの?」
好意に甘え椅子に腰を下ろす。
彼女は机の左端に腰掛けた。
「暇だな」
「うん」
「面白いか、それ」
「うん……」
雨脚が強まるにつれ、徐々に返事も御座形になる。パラパラと音を立て始めた外の様子に彼女は手元の小説から目を離した。
「なあ、あれ」
顎で示された方を見やる。彼女の背に遮られ側の窓の大半は視界に入らなかったが、頭上のはめ殺しの窓から僅かな光が差し込んでいるのが目に入った。
「ほら」
しかし立ち上がって目にした光景は想像と違っていた。黒雲を縫う銀糸の如き閃きに、防風林の合間から覗く山々の尾根が二度、三度と煌びやかに浮かび上がって見えたのは、耳に残る銃声のような雷鳴が轟く寸前の出来事だった。
「寮へ戻った方がいいかしら」
「そうだな」
渡り廊下へ出ると滝のような雨が横殴りに降っていた。二人とも濡れ鼠になるのを覚悟して飛び込む。遠くでまた雷光が閃いた。
◇◇◇
寮の自室に戻った俺達はまず靴を脱ぎ、次に衣服をよく絞って物干し用の紐に吊るした。そのまま下着姿で乾くのをじっと待つ。
「寒くないか」
「平気」
二段ベットの下の段に身を寄せ合い、一つの毛布に包まる。部屋の灯りは壁掛け燭台の頼りない光のみだったが、それでも話をするのには充分な明るさだった。
「蝋燭代、勿体なくないか」
「でもまだ眠くないの」
「分かってるよ」
雨が窓を打つ。俺達はポツリポツリと取るに足らない話をした。好きな本、音楽、趣味、子供の頃の話など、些末な話題であるほど良かった。
けれど普段通りのようでありながら、何処か余所余所しい会話はそう長く続かなかった。
「なあ、訳を知りたいか……いや」
ある時、アルバは口調を変えて切り出した。
「聞いてくれるか?」
ゆっくり瞬きしたのを肯定と受け取り、少し間を置いてから彼女は重い口を開く。
「父親の事業が失敗しちまってさ。海軍の造船所を持ってたんだけど、隣国と軍縮の協定を結んでからは仕事が来なくなって潰れた。祖母だけは喜んだよ。昔の戦争で兄弟をみんな亡くしたからな。家業への皺寄せなんて頭になかったんだろう」
お気楽な事だと彼女は皮肉って言った。
薄暗い空間に、鼻を啜る音が交互に響く。
「お兄さんはいた?」
「いいや」
「じゃあ、お父さん子だ」
「どうして?」
「喋り方よ」
「ああ……」
雨は依然として止まなかったが、笑うと少し雨音が弱まるような気がした。
「学費を稼ぐのに後一年かかる計算なんだ。生徒の何人かは親同士が知り合いだし、奴らの後輩になると考えると気が重いよ」
「その時は堂々として居ればいいと思う」
「だよな」
それからまた幾つか他愛のない話をした後、俺達はそれぞれのベッドで眠った。結局その日は明け方まで降り続いた。
◇◇◇
丸三日続いた雨も上がり、盛り返した暑さはいよいよ本領を発揮しつつある。
草いきれの籠もった風が襟元を擦り抜け、波打つ芝生の上を渡って行くのを見届ける。立ち上る湿気や虫の羽音にうんざりしつつ、やる仕事は今日も変わらない。
「そっち持って」
「おう」
パルムの残骸は雨に洗われた後に乾燥してぼろぼろになり、箒で掻き集めるのにはとうに限界が来ていた。掃除婦長は俺達に大きめの麻袋を持たせ、中に塵を溜めて運ぶよう言いつけた。
「いってぇな、早く終わらせようぜ」
目の粗い袋の繊維が手指の柔肌を傷つける。これを後で校庭の隅に運び、中身を燃やして処分する事を想像しただけで汗の滲み出る思いだ。
片付けの済んだコートの上では相変わらず生徒達が運動に興じていた。オリビアの姿こそ見当たらないものの、周囲は挙って試合の行方に夢中になっている。
アルバも心ここに有らずと言った様子で其方を食い入るように見つめている。作業の手は完全に滞っているが、先日の話を聞いた後では咎める気になれなかった。仕方なく一人で掃除に取り掛かる。
「いて」
不意の声に何事かと思い顔を上げると、アルバが額を押さえて蹲っている。その足元には見覚えのある球が転がっていた。どうやら流れ弾が当たったらしい。
無言のアルバは膝に着いた土を手で払いつつ立ち上がる。するとコートの方から嘲るような笑い声がはっきりと聞こえてきた。短い逡巡の後、彼女は何事も無かったかのように仕事に戻った。
ふつふつと頭に血が上る。
袋から成るべく原形を保っている実を選んで一つ取り出し、真っ直ぐ前を見据える。幸いまだ誰も此方に気付いていない。
身体の側に放った実を目掛け、八相に構えた箒を力一杯振りかぶった。芯を捉えた感覚に両腕がじぃんと痺れる。
会心の一打だ。
肩を落とし気味に放ったそれは大きく弧を描き、燦と輝く太陽の中に吸い込まれていく。朽ちかけの実は見事向こうの生徒達に悲鳴を上げさせることに成功した。
「何やってる」
驚いた顔でアルバが振り返った。
「球技大会の練習」
「は?」
「出るんでしょ」
目を逸らさず尋ねると、何かの意図を察してあちらもおずおずと頷く。背後では晴れ空の青が眩しい。
「……うん」
「一年なんてあっという間だもの。今のうちから沢山練習しておくべきよ」
そう言って素振りの構えをして見せると、彼女は小さな白い歯を剥き出しにし、入道雲を吹き飛ばさんとばかりに笑ってくれた。
「で、それは何ていう競技なんだ」
「さあ?」
◇◇◇
寮へ戻る途中、掃除婦長に呼び止められた。彼女は慌てた様子で「教頭が呼んでいる」と言った。不安がるアルバの背を叩いて大丈夫だからと先に戻るように仕向けると、俺は独り教頭の居る職員室まで向かった。