情熱の季節
乾坤一擲、枠線際に打球が放たれる。しかし相手は物ともせず、機敏な対応で容易く敵陣に送り返した。その間、両脚は殆ど動いていない。
「またか」
〇対四。危なげなく第一セットを先取した当人は手の内でラケットを回しつつグリップを再度握りしめる。緩やかな風が足元の芝を揺らした。
ここまで来ると第二セットの戦果は火を見るより明らかだ。実際、次の回も終始彼女が主導権を握ったまま試合は幕を閉じ、余りに一方的な展開に対戦相手は最早悔しがる素振りも見せず閉口してコートを後にした。
「今のは最上級生だぜ。流石だな」
からっと晴れた昼下がり、俺は校庭の掃除の続きをしていた。その遙か前方では先に片付けの済んだ反面の上で昼休みを迎えた生徒達が運動に興じている。
「コートなんてあったんだね」
「ああ」
白線に囲まれた陣地の内側で楕円の枠に格子状に紐を張り巡らせたラケットを使って球を打ち合うそれは、俺の知る庭球に酷似した競技だった。ルールもよく似ており、同じものと考えて問題なさそうだ。
「やあ君たち」
突如として始まった一般棟・別棟入り乱れての交流戦。学年の枠も度外視して圧倒的な強さを見せつけたのは矢張り彼女だった。
此方に手を挙げたオリビアの背後には羨望の眼差しを向けて佇む下級生の集団が屯している。彼女達は周囲の存在には目もくれず、眼前の上級生の一挙手一投足に関心を寄せては事ある毎に黄色い声で囃し立てた。けれど本人は意に介さず、挑戦者が名乗り出て来るのを待つばかりだ。
「それにしても凄い人気ね」
「前からそうさ。入学して直ぐの頃から今の状態だったよ」
良く生え揃った芝のコートに三、四度球を弾ませてから肩慣らしにサーブの構えを取る。一連の動作が実に様になっている。北の酒場で歌を歌うアンナの姿が脳裏に浮かんだ。あれとはまた別のカリスマという奴だろうか。
「お次は君かい?」
「ええ」
前へ出て来たのは当然サラだった。
これまでに目立った戦績を残したのは一般棟の生徒に偏っている。もしかすると他国では然程有名な競技では無いのかもしれない。そんな流れで留学生の中にも健闘を見せる生徒がいて欲しいという別棟の大衆心理には納得の行く部分があり、彼女が推されるのは必然と言えた。
「言っておくがどんな結果でも恥じる事はない。僕に勝てた人は一人も居ないんだから」
「余計な気遣いです。始めて下さい」
やれやれとオリビアが首を竦めると、取り巻きは一斉にサラのことを睨みつけた。一年生の身空で彼女に楯突くとは肝が座っている。
「また敵を増やしたぞ、あいつ」
「意外と負けず嫌いなのね」
「何で逐一突っかかるんだか」
アルバの声に僅かな隔意を感じ取る。留学生と交流のある人と無い人とでは印象が異なるのだろう。
「責任感が強いのよ」
俺が肩を持つとアルバは意外そうな目で此方を見てきた。
「挑戦者の特権だ」
オリビアは最初のサーブをサラに譲った。対角線上に立つ二人の姿に衆目が集まる。
「行きます」
サラは半身になると上体を反らしながら思い切りよくトスを上げ、周囲が目を見張るほど高く跳んだ。同時に後ろに引いて反動をつけた右腕を回転させるように頭上で振り抜く。
小気味良い音と共に打ち出されたサーブは見事敵陣の左中央に突き刺さった。ふわり舞う制服のスカートからサラの白い肢体が覗く。
「おっと」
反応の遅れたオリビアが腕を伸ばして辛くも返すとサラは素早くネット際に駆け寄り、甘く弾んだ打球を難なく討ち取った。一対〇。下馬評を覆す滑り出しにどよめきが起こる。
「驚いたな、経験があるのかい?」
「いえ。今日が初めてです」
「そいつは筋が良い」
オリビアはそう言うと体勢を整えた。腰を落として重心を低くし、真剣な目でサラの動きを注視しているのが端から見て取れる。
二度目のサーブも上手く前と同じ所に落ちた。けれど今度は反応の追いついたオリビアに打ち返される。理想的な動作で放たれた打球は敵陣深くに撃ち込まれ、捕り損ねたサラの苦し紛れの返球は明後日の方向に消えた。俄かに下級生達が湧き立つ。
「逆手がなってない。基本は両手で返せ」
あっという間に同点に追いついたオリビアは助言する余裕を見せた。悔しそうに唇を固く引き結んだサラは獣耳を頭上でピンと張り、再度渾身のサーブを放つ。
三度目は脇の線上を掠めた。観衆が思わず息を呑むなかオリビアは冷静な判断で軌道上に飛び込み、コート外で球を打ち返した。
自陣の左端に跳んできた球をサラが逆手で送り返す。まだ少しぎこちなかったが、それでも打球は相手の居場所とは真逆の敵陣の右端に向かって跳んで行った。
ピンチにも関わらず涼しい顔で走って追い縋ると、オリビアは長い腕を伸ばしただけでラケットを球に届かせて見せた。両者の体格差は残酷なまでに歴然としている。
「くっ……!」
打ち合いが長引くごとにサラの方が追い詰められていく。
リーチの差からオリビアが大股の一歩で移動する距離をサラは二歩、三歩と余分に歩かなければならず、結果的に走り回っていたのが仇となった。
芝生に足を取られたサラは途中でつんのめるように転倒し、跪いたまま動かなくなった。
「見せてみろ」
誰一人声を上げないなかオリビアが足早に歩み寄る。遠目でそれを見たサラは立ち上がろうと努めたが、向こうから手で制されて止む無く座り込んだ。
「捻挫か、兎に角冷やさないと」
左足首を両手で押さえ込んだサラは血の気の引いた顔で首を横に振った。目には薄っすら涙が溜まっている。
「大人しく言うことを聞け」
ぞんざいにサラの肩を叩き、子供にするように宥め賺すとオリビアは取り巻きの一人を捕まえて別棟の教員に連絡を告げに行かせた。
「おいで」
屈んだオリビアはサラに背中を向けて呼び掛けたが何時まで経っても彼女はそれに乗ろうとせず、最後には疲れたのか困ったように頭を掻いた。
「頑固だなぁ」
するとオリビアは言うが早いか、顔を背けたサラの膝の裏に手を潜らせて逆の手で背中を支え、軽やかに彼女を両腕で抱え上げた。
「これで満足かいお嬢さん?」
「やめて、恥ずかしいから!」
暫くは大声で喚いていたサラもオリビアの意志の固さを知ると、やがて諦めたように大人しくなった。か細い四肢が抵抗を辞め、最後まで反発を続けていた耳がぺたりと頭に被さるのを見届けると、オリビアは悠然と別棟の方へ向かって歩いて行く。
斯くして、彼女の武勇伝はまた一つ増えた。
◇◇◇
「写生大会?」
別棟の掃除中、ある子がそんな言葉を話題に登らせた。
「そう。来月から再来月の頭にかけて描いた絵を提出して一番上手な人が表彰されるの」
「そうすると何か良い事があるの?」
「うーん、賞品が出たりするらしいけど」
何やら趣旨の不明瞭な催し物だが、娯楽の少ない学校では楽しみの一つに数えられるのかも知れない。
「何を描くかは決めてるの?」
「まだよ。けど皆は寧ろ誰が誰を描くのかを気にしてるわ」
「誰が誰を?」
尋ねると生徒達は皆にやりと笑い、そのうちの一人がこっそり耳打ちしてきた。
「告白って意味らしいわよ。好きな人に貴方の絵を描かせて下さい、ってお願いするの」
なるほど。ありがちな話だ。
「サラはやはりオリビアさんかしら」
「いいえ、オリビアさんはクロって線もあり得るわ」
「何でクロ?」
「あら、噂になってるじゃない。最近オリビアさんがクロにご執心だって」
全く初耳だが以前にもアルバから似たような事を言われた気がする。ここのような狭い社会では話に尾鰭がついて広まるのも早いのだろう。
「それで実際の所どうなの、彼女との間に何かそのような関係が?」
興味津々と言った様子で生徒達に詰め寄られる。面倒なことになる前に否定しようと口を開きかけた所で誰かが教室の扉を開けた。
「クロ、いるかい?」
間の悪いことにオリビアは最も不味いときに姿を現した。教室は忽ち嬌声に包まれる。
「おや、取り込み中にすまない。実は写生大会の件で相談があるんだが」
益々勢いづく周囲の様子に違和感を覚えないのか、それとも眼中に無いだけなのか。何れにせよオリビアは外聞を全く気に留めない質のようだ。
「まあ良いのだけれどね」
「うん?」
歯切れの悪い俺に対しオリビアは素直に首を傾げる。考えてみれば噂になった所で生徒ではない俺に実害は無い。ならまあいいか、と返答しようとした時だった。
「待って下さい」
丁度オリビアが入ってきたのと同じ扉からサラが姿を現した。まるで追いかけて来たかのような登場の仕方に他の生徒達が騒つく。
「やあ、僕に何か用かな?」
「貴方ではありません」
オリビアに尋ねられるとサラは直ぐ様それを否定した。例の件も関係がありそうだ。
「なら後にしてくれないか? 悪いが話の途中なもんでね」
オリビアの興味が他の事に移るとサラは暗い表情をした。良心が痛んだが、自らの意思では仕方ない。
「クロ」
不意の決意を秘めた声音に驚く。まさかそこで自分の名前が出てくるとは思わなかった。
「お願いがあるんです、貴方の絵を私に描かせて下さい」
あわや騒然となった場の雰囲気にオリビアは漸く興味の対象を挿げ替えた。彼女が愉快そうにサラを見やると、あちらは挑む様にオリビアを見つめ返す。
何だか妙な事になって行く。