空の青、海の青
空が藍に染まる頃、俺は裏庭へ出て彼女との待ち合わせ場所を目指した。辺りには虫も見当たらず、背の低い木々に囲まれた庭に自分の足音がやたら鮮明に響く。
真ん中にポツンとある東屋は開校時に誰かが寄贈した物だと聞くが、既に庭師の手を離れて久しい。
長年雨風に晒され、全身を蔦に侵されたそこは、暗がりで見れば朽ちた木の化物のように見えなくもない。
普段は誰も近寄りたがらないそんな場所に今宵は一人、生徒が古ぼけた木の椅子に座って寛いでいた。
「やっと来たね。待ち草臥れたよ」
足を組んで宣う彼女の元へ駆け寄る。今日も話が長くなりそうな予感がした。
◇◇◇
例の出来事の翌日、俺は一人でオリビアの部屋を訪ねた。
「君か。掃除を頼んだ覚えはないが」
木目の美しい作業台に初夏の日差しがよく当たっている。ベッドは二つあったが同居人の姿はなく、彼女はその片方に腰掛けて暇そうに本を眺めていた。
「礼を言いに来たのかい?」
俺は首を縦に振る。
「つまらないことをするな」
開いたままの本を裏返しにベッドの上に置くと、彼女は失望したように頭を掻いた。
「同じ学校の生徒だったから見ていられなくなっただけさ。人道主義者のように思われるのは御免だ」
「何故優しくない振りをするの?」
「隙を作りたくないだけだよ。付け込まれ易くなるからね」
下から青い目に射竦められる。普段なら単なる掃除婦の振りをすれば良かったものの、箒を持って来なかったのでどうしようもなかった。
「……まあいいか。おいで」
どんな葛藤があったのかは分からないが、とにかく彼女は手招きした俺の靴を脱がせてベッドの上へ登らせた。
「汚す奴が居るもんでね。ここへ来る奴は皆靴を脱がせる事にしてる」
「良い考えね。お掃除も楽だし」
「へえ、そう言われるのは初めてだ」
彼女は上機嫌な声を出した。けれど相変わらず左右の手は太腿の上で固く組まれたまま、両膝も隙間なく閉じられている。
「君は差別をどう思う?」
「さあ。考えた事もないわ」
「僕は自分は差別なんかしないと言う奴にはこう尋ねることにしている。なら君は獣人と結婚できるかい、とね」
喋りながら彼女は立ち上がり、机から箱入りのビスケットを取ってきて俺との間に置いた。それを一枚手に取って頬張りつつ、さり気なく彼女は会話を続ける。
「そうすると大抵は言葉を濁らせる。差別をしないと言うのは相手を自分と同等の存在、同胞として見ると言う事だ。上っ面では取り繕えない」
「そうね」
「君はどうだ。結婚できるかい?」
「多分、可愛いければ」
「……ふぅん」
オリビアは慎重に会話を打ち切った。そのまま暫く無言が続いたが、俄かに彼女は尋ねてきた。
「君は女が好きかい?」
「うん」
「まいったな」
彼女はまた頭を掻いた。
癖なのだろう。
「僕が言いたかったのは、須らく人は人を差別するってことさ。僕等の髪の色だって好まない人は居るだろうし、何かにつけて区別したがるのは生まれ持った人間の性だ」
「うん」
「そんな事を聞き出すつもりは無かった。何故僕に打ち明ける?」
「別に貴方じゃなくても言うわ」
「そう言う事じゃないよ」
これ以上は綺麗な毛が全部抜け落ちてしまいかねないと、悩ましげに髪を掻き毟る姿を見かね声をかける。
「心配しなくてもいいわ。広まる時は広まるでしょうし」
「そうしたら君はどうする?」
「仕事を変える」
「簡単に言うね。噂が立ったら逃げ場も失うだろうに」
「少なくとも貴方は喋らないわ」
「何処にそんな保証がある?」
「そのくらい見れば分かる」
次の台詞を発するまでに彼女は二枚、三枚と立て続けにビスケットを食べた。或いはそれは彼女が言葉を噛み砕くのに要した時間だったのかも知れない。
「蛮勇だな」
「かもね」
「君はとても変わってる」
「そういうのは嫌い?」
「いいや、寧ろ好きだ」
オリビアは伸びをして後ろに倒れ、ベットに寝転んだ。その間に俺は一枚目のビスケットに手をつける。塩気の効いた甘さが実に美味かった。
その後、同室の生徒が戻って来て俺が居るのを嫌がったので、続きは別の場所でする事になった。そして誰にも見つからない場所を考えた結果、待ち合わせは裏庭に決まった。
◇◇◇
「明かりは上に吊るすんだ。そうすれば虫が寄って行く」
零れた言葉を拾い上げもせず軒下から星を眺める。背後でランタンの灯が翳り、また元に戻った。
「そろそろ座ったら?」
催促するように彼女は俺の隣に並んだ。後ろを振り返れば新品だった蝋燭の背が随分と縮んでいる。
「ごめんなさい。あまり綺麗だったから」
それでも視線を下ろす気になれない。こんな風に星空を見上げるのは何時ぶりだろうか。
「星が珍しいのかい?」
「うん」
「へぇ、やっぱり変わってる」
月のない夜空は銀砂を塗した天球儀の如し。ひょっとすると夏の入り口は案外直ぐそこまで来ているのかもしれない。
「これあげる」
「何?」
「パルムだよ。校庭から一つ拝借してきた」
二人して漸く東屋に入り、まずオリビアが寄越してきたのは瓢箪型の見慣れない果実だった。桃色に黄色の斑があって如何にも果物らしい。
「甘酸っぱい味だよ」
彼女は自分の分を取り出して大口で齧り付いた。一体いくつ食べ物を隠し持っているんだろう。
俺も見習って齧り付くと、忽ち口内に渋味と酸味が広がった。不快さに思わず咽せ返る。その様を見て彼女は愉快そうにけたけたと笑った。
「庭のなんか食える筈ないだろう。あれは食用じゃない」
「ひどいっ」
「ごめんごめん」
こっちが本物、とオリビアは背に隠し持っていた実を俺に渡し、反対の手で受け取った食べ掛けを遠くの茂みに向かって投げ捨てた。
「うん?」
「別に」
その行動に敏感に反応した俺をオリビアは見逃さなかった。抵抗を抱くのは元居た環境の弊害だ。
「食べ掛けが気になる?」
「ううん。ただ塵を捨てるのはどうかと悩んでしまって」
「問題ありゃしない。直に土に帰るだろう」
「そうね」
「君は偶に不思議だな。まるで別の世界から来たみたいだ」
的を射た指摘にトクンと胸が高鳴る。やはり彼女は察しが良い。
「そんな所よ」
「おいおい。君の世界じゃ星を見る事も碌に出来なけりゃ、こうして塵を捨てる事も許されないのか?」
少し考えて頷く。それを見た彼女は頭上の灯りを睨んで染み染みと言った。
「嫌な所だ」
そうでも無い。
自分としては余り馴染めなかっただけだ。
「でも、通りでね」
「何」
「君の事さ。僕が興味を持ったのはいつからだと思う?」
返答を待たずオリビアは続けた。
「最初に出会った時からだ。自覚が無いかも知れないが君はとても目立つ。子供にしては大人びていて、女にしては男っぽい。基本的な所作の問題だ」
ついと目を背け、パルムの実を齧る。
溢れ出た汁が顎から喉を伝った。
「ここの掃除婦にしても素性が曖昧。知ってるか。あのアルバも出は貧乏貴族だ。奴らの多くが学校の伝手を辿ってここへ働きに来る。けれど教員含め誰も君の事を知らない」
それは、一番恐れていた言葉だった。
「こっちを見ろ。君は異端だ」
やけくそでパルムの実を全て頬張る。飲み込む前に喉の奥が熱くなり、目から勝手に涙が溢れた。小刻みに鼻を啜る音を耳で聴きながら咀嚼を続ける。
「べそかくなよ。苛めてるみたいじゃないか。本当に言いたいのはそんな事じゃない、要するに君はとても魅力的だって事さ」
「……?」
「私の話を聞いてくれるかい」
オリビアは居住まいを正してから約一分程間を取った。その間に彼女はパルムの実をすっかり食べ終え、ハンカチを出して俺の顔のあちこちを拭い、綺麗に整えてから自分の口許を拭った。そして最後に懐から緑色の薄い瓶を取り出すと中身をぐいと煽り、眉を顰めながら嚥下すると、軽くなった瓶を無造作に両手で膝の上に添えた。
「学校が嫌いなんだ」
「人気者なのに?」
「皆が僕に興味を持つのは矛盾した人格を持つからだ。中性的とか粗暴とか箱入り娘には似つかわしくない特徴だからこそ良いんだろう。人は自分の想像の域を超えない人物を取るに足らない相手と見なす」
一口で酔えるものだろうか。それほどオリビアの舌はよく回った。
「それに引き換え他の連中は弱い奴ほど特徴の無さを演出している。世間では協調性がものを言う。ここはその縮図で、個性の否定の場だ。薄暗くて窮屈で、まるでこの庭さ」
彼女は思い出したようにパルムの蔕をぽいと地面に捨てる。しかしあまり遠くへ飛ばず、足元の草に引っかかって視界の隅に残った。
「一般生の別棟への仕打ちを見ただろう。ああでもしなきゃ僕達は共存出来ない。留学生が居なくなれば今度は人間同士で貶し合いが始まる」
「そうでしょうね」
「今はこうでも、僕だって何れは流れに逆らえず変わって行くんだ。結婚し子供を産み、耄碌した老婆になって死ぬ。それまでに幾つの信条を捻じ曲げる事になるだろう」
虚空を見つめる両眼は尚も澄んだ青を湛えている。しかしそれは何処か脆さを感じさせる美しさだった。
◇◇◇
取り留めのない会話は夜明けまで続いた。場の雰囲気に当てられ俺も彼女も一体どれだけ秘密を共有したのか定かでは無い。
「分かってるよ、贅沢な悩みだって。僕は君達よりよっぽど恵まれている」
回し飲みした酒瓶は空になって地面に転がされた。けれどこの世界に俺たちを咎める者は居ない。
「月がないから星が見えたのよ」
西の空にまだ少し夜が残っている。そこにはきっと俺の知らない星座が無数に浮かんでいることだろう。
「君は天才だな」
オリビアは笑いながら頭を押さえた。
「白状しよう。酒を飲むのは今回が初めてだ。君の前で格好つけたかった」
「あなたって意地っ張りね」
「違いない。……なあ」
彼女は急に凪いだ海のような眼差しを向けて言った。
「キスを教えてくれないか。毎日退屈で死にそうなんだ」
「女同士の?」
「うん」
「普通のとそう変わらないよ」
「いいから」
余りオリビアが強請るので言う通りにしてやった。実際それは数秒程度の事だったが、当人は満足したようだった。
「うん、大した事ないな。相変わらず見かけより柔らかくない人間の唇があるだけだ」
「以前にも誰かと?」
「くふふ」
彼女は悪戯っ子のように笑った。東雲と共に俺達は東屋を去る。
「あれ?」
そのとき何か白いものが遠くに見えたような気がした。朝陽と見間違えたのだろうか。
「兎か何かだろう」
彼女は言った。