しあわせのかたち
いかほど時が流れただろうか。鳥が鳴いて知らせるのを聞いて、ようやく朝を迎えたことに気づいた。
涙と、血と、汗と、精液と、臓腑の溶けた酸にまみれながら、山茱萸は汚れを知らぬ子どもの顔で静かに息を引き取っていた。
実際、これほど無垢な存在が他にあろうか。
どれほどの苦しみを受けたか想像すらできないのに、その顔には安らぎしか感じられない。薄く微笑んですらいるのだ。
「サン……」
覗きこんで、ゆっくり醜い己自身を抜き出した。突如、溢れ出す背徳の証し。この子に受け入れてもらう資格すらなかったのに。
「サン……」
山茱萸の姿を眺め、一刻が過ぎ、二刻が過ぎ、気がつけばすでに日は高く、眩しいほどの光が差し込んでくる。
御青は力なく山茱萸を抱き上げて浴室に向かった。
竜の姿で帰ってから、ここ東の屋に近づく者はいない。ほんとうにふたりだけになって、温かい湯の中で山茱萸から汚れをやさしく落とす。
桃色の唇、今にも開いて、「みさおさま」と優しく紡ぎだす気配すら感じる。御青は無言で優しく口づけた。触れるだけの口づけを。
服もいったいなにを着せればよいのかわからない。思わず己を呪い殺しそうになるのをぐっと堪えて、自分の清潔な上衣を着せて細腰に布を縛った。
庭に出ると、日が落ちかけていて、木々がうっすらと赤く染まっている。
木製の長椅子に座り、山茱萸を横抱きにしたところで女が現れた。
「陛下」
「……ああ」
「情けを、かけてくださったようですわね?」
「……」
「ふふ。幸せそうな顔。こんなに嬉しそうなこの子の顔は初めて見ましたわ」
「だが苦しんだ」
「ええ」
「ひどいありさまだった」
「ええ」
「無理やり抱いた」
「ええ」
「これは、サンは、それでも幸せか?」
御青の問いに、今度は郁金香が答える番だった。
「ええ。もちろん。この子が望んだことです」
「さて……」
びくり、と御青の肩が揺れる。
「連れて帰りますわ」
待て、許せ、今少し、明日にでも、ここに置いてはだめか、数々のことばが浮かんだものの、御青の口から出たものはなにもない、ただ、小さなうなずきだけだった。
女が後ろを向いて手を振ると、しゃんしゃんと鈴が鳴るように近づいてくるものがある。青い牛が引く牛車だった。
死者を弔うために、車は真っ白に塗られている。
涼やかな風が体を絡め、木々の葉が夕闇に擦れる音がする。
山茱萸を乗せるとき、御青は腕がもがれる心地がして、呻いた。
離れたくない。これほど強くなにかを願ったことはなかった。
離れたくない。
「あら?」
金香の声に、ふと目を上げる。
「これはなにかしら」
見れば、山茱萸の右手が石のように固く握られている。風呂に入れているときですら気がつかなかった。
もしかしたらまだ手の中に悪しき酸交じりの血がこびりついているかもしれない。せめてどこもかしこも奇麗にしてやりたかった。
硬直が始まっているのか、小さな手を開けさせるのは力が要った。指が折れないように、慎重に一本ずつ開けていくと、金の鎖が覗く。その先に、実る赤い宝石も。
見つけて、息を呑んだところ、横から細い指が伸びてきてその赤い実をそっと撫でた。
「首飾りですわね」
「我がやった」
「そうですか。宝物だったのですね」
御青は苦笑した。与えたと言っても、義務的に、なんの気なしに渡したに過ぎない。
「蘇芳に紅玉をやれと言われて、よくわからなかったからこれを与えたのだ」
それは告罪に似ていた。
山茱萸をこれほど愛した人に、嘘はつきたくなかったし、いっそ罵られてみたかったのかもしれない。
「紅玉、と思ってお渡しになられましたの……?」
「ああ。だが、これは紅玉ではないだろう」
「……ええ、紅玉とは主の血を固めたもので、環姫に舐めさせるんですわ」
「なるほどな」
体液で一番強いものは血だ。離れていても、それを舐めることによって蟲から出る酸を中和させるのだろう。
納得したように目を背ける国主に、女は言った。
「違います」
「え?」
「確かに、蟲の中和には主の体液が必須ですが、最も重要なものは物的なものではないのです」
「と、申すと?」
「例え身が離れていようとも、心を離れさせないように、と与える。これが真実の紅玉ですわ」
血だけ舐めていてもなんにもならない。
主の愛や想いがなければ、環姫は生きられない。
「ですから、陛下がそれを紅玉だと思って与えられたことに意味があるのです」
「なにが言いたい」
そのとき、牛が吼えた。思わず気を取られて向くと、潤んだ大きな獣の目がそこにはある。
「なぜ、それをお与えになられました」
郁金香は小さな手から金の鎖を取って、東の国主に渡した。
「蘇芳に、言われたから……」
「きっかけは、そうでしょう。ですがあなたさまは、わけがわからないながらも確かにこの子にこれを贈られた。なぜですか」
「それは……留守にするあいだ、寂しくないようにと」
ぎこちない手つきで、環姫の首に鎖をつける御青を見守る女に、もはや少しの激情もなかった。凪いだ海のように静かで、微かな波紋がゆらゆらと心を揺らすのが心地よい。
「戻るおつもりだったのでしょう?」
「……」
「この子の元に、帰るおつもりだったんですね?」
「ああ」
「この子を、愛していますか」
「……愛しているな」
「さようでございますか」
にっこり、郁金香は微笑んだ。
「よい環姫でしょう、この子は」
「他の環姫を知らぬ」
「ほほほ。では、いかがですか、もう一体」
瞬間、射殺す勢いで御青は店主を睨んだ。
「貴様、殺されたいか。……これ以外の環姫など要らぬ」
だが、そんな国主の怒りも郁金香の笑みの前に力を無くす。
「あなたさまにとって、この子は必要ですわね?」
御青は小さな声で、しかし間髪を入れる間もなく首肯する。
「ああ」
そのときだった。一陣の風が吹いて、名残の桜が一斉に振ってきたのは。
「お買い上げ、ありがとうございます」