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東方に座す  作者: 延珠
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東方に座す者

「もう、とっくに身罷みまかっていてもおかしくなかった……」


 延珠亭の女店主は暮れゆく日になにか短くつぶやいた。鎮魂の祈りなど、きっとあの子は要らないと笑うのだろうけれど、と思いながら。


「陛下のために、ここまで生き延びたのですよ。もう楽にしてやってもよろしいでしょう」


 誰かを恨み続けるのも、悲しみを抱き続けるのも、辛いだけだ。救われることはない。


 慈愛すら感じさせる眼差しで、女は東の国主を見やった。


 無知は罪だ、けれど、そんなことを今さら言ってどうなると言うのか。




 優しげな声を聞きながら、御青みさおは想像してみた。


 かちゃりかちゃりと椀を片づけながら、そっと震える舌を伸ばす子どもを。


 近くに寄ることもできないで、目を合わせないように主の姿を盗み見する環姫を。


 琴を爪弾き、臓腑の痛みを紛らわす山茱萸さんしゅゆを。


「……許さぬ」


 横顔が赤く染まっている。


「……」


 郁金香いくきんこうはそのことばに、つと顔を上げた。


 国主の鮮やかな青い瞳がどこか彼方を見つめている。


「我を置いて逝くのは、許さぬぞ」


 苦しげに吐き出される息は、きっと山茱萸なら天にも昇る気持ちで受け止めたのだろうけれど、延珠亭の女はもはや目の前の男に興味がない。嘆息を隠しながら、子どもを宥めるように口を開いたが、


「なんと仰せです。もう間に合いませぬ。今から戻っても遅……」


「あやつは、環姫なのだろう! 主を置いて去ってもよいのか!」


 思いがけなく怒号が辺りを響かせる。


 すっかり諦めている自分が、ふと嫌になった。


 こんなに自責で心をずたずたにして、男はそれを認めながらもどこかで道を見出そうとしている。


 名も持たぬ国主のくせに……。


 死ぬ理由がなかった、ただの生き人形だったはずなのに。


 御青の行動にはなんの知性も感じられない。駄々をこねる我儘な子どもに等しい。けれど今、それは郁金香の瞳にどれほど眩しく感じられることだろう。


「逆にお聞きいたしますが、あなたさまは一度でも主としてあの子に愛情をかけたことがおありか」


 恨みなどひと欠片もない、と言えば嘘になる。


「……だめなのか。もう、やり直しはきかぬのか」


 ただ、今、顔を歪ませて泣きそうに訴える国主を、金香は嫌いではなかった。


「陛下。わたくしは東の国の民ではございませぬ。一介の商人にございます。……が、東の国を愛する心は誰にも負けませぬぞ」


 腹の底から、忘れていた感情が生まれてくる。捨てたのではなかった。何度裏切っても、多くのものはいつも己を許していた。


 郁金香は立ち上がり、叫んだ。


「問う! そは何者ぞ!」


 問いに、全身の細胞が蠢き、巨大な力が肌の上を走っていく。


「……痴れ者っ! 我は東方に座す者ぞ!」


 主のいらえ、この世の春、残されるはただ焼かれた砂とひとりの女。


 轟音が鳴り渡り、眩い光の槍が天より降ってくる。


 永の間かと思うと、そうでもない。


 赤い雲が微かに残る地平線の更に先、一匹の竜が空の向こうに消えていくのを見送った。


 その顔に浮かんだ笑みは、すぐに訪れた闇に溶けて誰に知られることもなく。女はざらついた長い髪をそっと指で梳いた。




「サン! サン! サーン!」


 寝台の上は血の海だった。鼻を歪ませるほどの異臭が充満している。


 背を丸めて、口から溢れる血を手のひらで受けようとしているようだがまったく意味をなしていなかった。


「み、みさお、さまぁ……」


 なぜ今ここに御青がいるのかもわかっていない。もしかすると本人はもう死んだ気でいるのかもしれない。


 生きていた。喜びが満ちる。


 しかし、この惨状からは決してただ喜んでばかりもいられない。


「ご、ごめ……なさ……汚して……」


うつけっ」


 今さらながら、血で寝所を汚したことを謝罪する。なぜ気づかなかったのだろう。この小さな哀れな存在は、いつだって己に愛を示していたのに。


 御青は山茱萸に何万倍も謝ることがあったが、今はそんな時間はない。


 刀を手にとって、躊躇わずに腕に沿わせて引いた。


 パッと花びらが強風で散るように、鮮血が吹き出てくる。


「飲め、我の血だ。苦しくとも飲め」


 口を塞いでいる手をどかすと、御青の深紅の血と同じものとは思えないようなどす黒い液体がごぼごぼと流れ出てくる。嚥下する気力など、残っているようにはとても見えなかった。


 御青はここに来る前に決めたことがある。


 何事にも驚かず、騒がず、危惧せず、躊躇わない。


「こんなふうに、奪う我を許せよ」


 言って、山茱萸の血まみれの衣を剥ぎ取った。


 微かにゆるやかな曲線を描いてはいるが、生きているのが不思議なほどの骨と皮だけの体。腹が絶えず上下しているのは、蟲が贓物を喰らっているせいだろうか。


 両性の神秘、完全なる性の共存に、今は感銘を受けている暇もない。


 この小さな体が、今、たまらなく愛しくなって、御青は猛々しい己を聖なる器に差し入れた。


「ぐっ」


「……はっ」


 小さな環姫からは、もうことばは生まれない。乾いた音が喉を震わせるだけで、瞳をこれ以上ないくらい見開いて、震える手をぎこちなく御青の頬まで持ち上げる。


 御青は泣いていた。涙が、山茱萸の瞳に入り、それが合図だったかのように環姫の目からも同じく熱いものが滴り出す。


「サン……」


 激しく腰を揺らしながら、夢中で環姫に口づけた。肉を溶かす毒が口内を冒すのも気にならない。


「サン。愛している」


 山茱萸が二度ほど軽く瞬きをした。


 そうして、子どもが待ち続けていたものがようやく与えられたのだった。御青は己の生命をすべて注ぎ込むかのように精を放った。


 だが……もう、遅すぎる。


「み、さお……さま」


 山茱萸の瞳に少しだけ理性の光が戻り、力なくにこりと微笑んだ。


「サン、すまぬ。我は、今まで」


「いいえ。い……いえ。みさおさま。ぼくは、しあわせです。さいごに、こんなに、うれしいことが、あるなんて」


「サン、我を置いていくな。命令ぞ。主の命令ぞ」


「ありがとぅ、ございます。ぼくは、しあわせでした。み……さお……さま」


 ついっ、と目尻に溜まっていた涙が潔く頬の上を滑っていった。


 瞼が落ちていく刹那刹那が、御青には永遠の拷問のように永く続いた。


「サン……」

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