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東方に座す  作者: 延珠
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その舌の先に愛はなかった

 ただ、失望したのだ。


 娼婦のような真似をした、神の子に。




 御青みさおはあくまでも身代わりにすぎない。山茱萸さんしゅゆの真の主は別にいる。そうしてそやつを斬ったのも己。


 これは、罪だろうか。


 人の命を奪った、報いなのか。


 あの環姫は、なぜあんなふうに笑いかけられる。その瞳に映る自分と対峙するときほど、情けないものはなかった。


 サン、お前は、きっと相手が我でなくても、そんなふうに笑うのだろう。




 逃げた東の国主、ただ運命を呪って嘆くだけならばよかった。しかし、御青は罪を重ねてしまう。


 我が身可愛さに、己しか守らなかった。真実、庇護すべきはあの愚かな環姫だったというのに。




 すでに御青の顔は色を無くしていた。郁金香いくきんこうはなんとか話を簡潔にしようと必死なのか気づかない。


「もちろん主から愛されない者など存在価値もございません。環姫自身が生きていたくないでしょうし。蟲の酸が環姫の内臓を溶かし、喰らい尽くしてしまう。主自らが手を下さなくてもいいように、ほら、うまくできていますでしょう?」


「さ、酸が」


「ええ、その苦しみは、大の大人でも発狂するほどすさまじいものですわ。私も過去に何人か可哀想な子を見取りましたが、正直、二度と御免ですわね」


  思い出したのか、唇に歯を立ててぞっとするような暗い顔をする。


 しかし、すぐに視線を感じてまたいつもどおりの笑顔を浮かべた。


「とりあえず簡単なご説明は終わりです。さあ、らさないでくださりませ。あの子はどちらです? 他の方々に見せたくないのはわかりますが……」


「…………てない」


「は? なんと仰いました」


「連れてきていない」


「……」


「……」


「ほ、ほほほ。わたくしとしたことが。騙されませんよ。まさか堅物で知られる東の国主さまが冗談をおっしゃるなんて驚きですわ」


「……」


 なおも黙る御青に、まさか、と今度こそ顔を真っ青にする。女の目を、御青はもう見たくはなかった。


「……あの、子は。山茱萸は、今どちらです」


「今は、屋敷に、ひとりで……」


「な、なぜ! あの子はすばらしくよい子でしょう? あの白い肌を知れば一時も離れ難いに……」


 ふと、郁金香はことばを切った。わなわなと唇が震えている。


「ま、まさか、まだ抱いていらっしゃらないなどとは、仰いませんわね!?」


 ぐっと押し黙る御青に、もはや力はない。東の国主を誅すなら今をおいて他に好機はないことだろう。


「いや……」


 過去に、死にたいと思ったことはなかった。少なくても今までは。それが、このときほど儚くなりたいと願ったことはない。しかし御青は逃げるわけにはいけないのだ。すべては己が導いたことである。


「抱いていない」


 延珠亭の店主は完全に我を失った。


「お、鬼!!」




「なぜもっと強く注進しないのです!」


 狂った女の敵は、今はふたりに増え、蘇芳すおうが大量の汗をかきながら表情を失っていた。


「も、申し訳ない。で、ですが、紅玉、を! 紅玉を置いていかれるように申し上げたので、まずは問題ないかと思うのですが」


 こうぎょく。


 御青は思わず呻いた。


 その単語が、これほど頭を打つとはかつては想像もし得なかった。


 叫びだしそうだった。身の内にかつてないほどの激情が荒れ狂っている。


 紅玉。そう、渡せと言われた。


 なぜ、もっと考えてやれなかった。なぜ、あれほど簡単に聞き流した。


 縋るように目線を上げると、女の訝しげな声が耳を突く。御青はもはや震える瞼を閉じないようにするだけに力を使い果たしてしまいそうだった。


「紅玉ですって?」


「え、ええ。陛下、紅玉は環姫さまにお渡しになられましたでしょう」


 慌てたのは郁金香だ。


「ちょっと待って。紅玉なんてつくってないわよ」


「な、なんと」


 今度は蘇芳が目を剥く番だった。


 どれほどの情報が頭を巡ったのか、やがて臣はものすごい勢いで傍らの王に向き直った。


 御青はその視線を受け取ることができない。


「紅玉とは……」


 いったい、なんだったのか。


「あんなもの、要するに離れても大丈夫なようにあるものでしょう。私の倫理に反します」


 不思議と、延珠亭店主が見るからに落ち着きを取り戻していく。


 面食らいながら、蘇芳はつかえることばに苦労しつつ口を開いた。


「で、では。陛下はなにを差し上げられたのですか」


「紅玉が……特別なものだと言うなら、否、だ。渡しておらぬ」


「わ、我らをお見送りになるとき、環姫さまはあれほど幸せそうに笑ってらしたではありませんか。なぜ……」


「死を覚悟したのでしょう」


 ふ、ふふ……と微笑む姿は、巨大な苦しみから逃れようと、少し気が触れているようにも見えた。環姫は、彼女にとって商品などではない。へたをすると親よりも深い愛情で包んでいるのやも知れなかった。


「へ、陛下……」


 蘇芳が東の国主を呼ぶ。名を許されたのは、環姫だけだ。臣にはどんな状況下でも、無機質な尊称で情を表すより方法がなかった。


 その目に、非難の色はない。


 ただ、深い労わりとでもいうような愛情が浮かんでいるだけ。結局、蘇芳の順列はまず国主ありき、よって今彼は純粋に主の悲しみを少しでも負担できればと願っていた。小さな姫に関しては、蘇芳の中ではすでに諦めている。


 それがわかって、御青は想像で己を何度も殺した。何度も何度も刃を突き刺す。だが、そんなことをしても時は戻らない。


「あの子は、いつもなにをして過ごしておりましたか」


 穏やかすぎる店主の声が、御青の傷をえぐった。息が熱い。


「琴を、弾いたり、いつからか下働きのようなことを始めたな……。なにかやらせてください、と言って。膳を下げたり、寝所を整えたり……」


「ふ、ふふ」


「なにがおかしい」


「いえ。それはどれほどの苦しみかと思いまして。一滴の情けもいただけず、地獄だったでしょう。はらわたを焼かれ、骨を砕かれる心地がしたことでしょう」


「……」


「そんな中で、あの子はきっと……へいかの……陛下の箸を舐め、汗を吸い込んだ布に舌を這わせて生きようとしたのでしょう。少しでも、……そばに、いようと」


 驚くべきことに、郁金香は泣いていた。


 今まで、数多くの子どもたちの幸せと苦しみを見守ってきた。しかし、これほど純粋で美しく健気な子を彼女は知らない。


 しかし、山茱萸の苦しみは終わりだ。それだけが救いだった。


「陛下、館を発たれたのは幾時か」


「昨夕だ」


「そう、では、ほぼ一昼夜を過ぎたことになりますわね。……陛下が少しでもあの子に愛しさをお感じになったのであれば、どうか安らぎをお祈りください」


「……死ぬのか」


「……」


「サ、サンは死ぬのか」

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