約束
さて、面倒なことよ、と苦笑する。その足取りが思いのほか軽くなっていることを本人は自覚していない。
「サン、いるか」
扉を開け、奥に進み、垂らされている布を何枚かくぐりぬけた先に、果たして環姫は眠っていた。静かに、身じろぎもしない。
死んでいるようでもあった。
ぎくり、と強張る足を叩き、御青は大股でそばに駆け寄ると、そっと頬を撫でてみた。温かい。
ほっと安心すると同時に、まだ起きようともしない山茱萸に苛立つ。
「サン、起きよ」
「う……あ、あっ、み、みさおさま」
「ん? ああ」
陛下、ではなく名で呼ばれたのは久しぶりだった。これを名と定義するのであれば、の話だが。しかし、山茱萸の放つ声の甘さに少し気分がよくなる。
「お前、昼なのに寝てばかりいてどうする。怠惰なことだ」
「ご、ごめんなさい……」
慌てて髪を整え、服の乱れを直そうとしているらしいが、その動作はあまりに緩慢で、まだ寝ぼけているのだろう、と御青は思った。
「急だが、これから出かける」
「えっ」
飛び跳ねるように顔が上がる。
「ど、どちらにっ」
「四方の儀があってな。なに、いつもの連中と顔を合わせるだけだが」
「そ、そうですか」
やけに悲しそうな山茱萸の顔に、一応言っておこうと御青はとどめを刺した。
「お前は連れてゆかぬ」
「……は、はいっ……」
「大人しくしておれよ」
これ以上どう大人しくできるのか疑問だったが、御青は顔を蒼白にして震える子どもに他になんとことばをかけてやればよいのかわからなかった。
小さくうなずく頭を下方に見下ろして、ふと蘇芳の進言を思い出す。
紅玉を渡せと言っていたな。
なんのことがわからなかったが、おざなりに返事をしてしまった。
そうだ、と首から細い鎖を外す。葉の形をした金細工が付いており、中央には赤い実を模した宝石が揺れている。
「これをやろう」
手に握らせると、初めはびっくりした顔になり、一瞬の後には大輪の花がほころぶように笑った。
「ありがとうございます」
大きな瞳には涙まで浮かんでいる。
適当にやったものなのに、これほど喜ばれるとは思いも寄らなかった。御青は少しだけ後悔した。もっとちゃんとしたものをあげればよかった。
「帰ったら、これより大きな石のついたものをやる。それまで待っておれ」
「はい。はい……」
「いってらっしゃいませ、みさおさま」
涙で頬を濡らしながらも、必死に笑顔をつくって、山茱萸はいつまでもいつまでも、腕を千切れんばかりに降りながら御青を見送った。
「みさおさま……」
それは御青の視界から山茱萸が見えなくなるまで続けられ、子どもはいつまでもいつまでも手を振って、石造りの庭にたたずんでいた。いつまでも。
そうして、御青は今まで、あの哀れな環姫にひとつたりとも贈り物をしたことがなかったことに気がついたのだった。
四方の儀は、東西南北の国主が一同に集まることで、争いごとのない昨今では、特に殺伐とした議題もなく、近況を報告しあったりするくらいで終わっていた。
「……なぜ、あやつがおる」
途端、御青の機嫌が一気に悪くなる。
視線の先で笑っているのは、郁金香。言わずと知れた延珠亭の女店主のひとりだ。
「しばらくでした、陛下」
聞くと、今までもいたようなのだが、御青には紹介されもしなかったし、名乗りもしなかったらしいのだ。今それとわかりながら見渡すと、同じような嫌な目をした女が三人固まっているのが見て取れる。あれがそれぞれ西、南、北の店主ということなのだろう。
「あの子は元気ですか? 隠されずに顔を見せてくださりませ」
やけに浮かれている女を見て、二月前に別れたとき抱いた印象を思い出して御青の胸がちくりと痛んだ。
子を求める母の顔が、変わらずそこにはあったからである。
「連れてきているわけがなかろう……。遊びに来たわけではない」
なぜ我が罪悪感などにさいなまれなければいかぬ。理不尽に思いながらも告げた、そのことばに、郁金香は目を向いた。
「な、……なんですって?」
「環姫をなんと思されます? 環姫とは、そばに居る者です。死さえもお供する存在なのですよ。あの子はなにも申し上げていないようですわね」
ふうっとため息をつくと、郁金香はちろりと赤い舌を覗かせて近くの椅子に御青を誘った。
東西南北、国主の荷は中立市宮にほぼ吸い込まれていき、辺りに人影もまばらになった。
黄色い土が占拠する広大な土地の中央に、中立市の宮が高くそびえ立つ。その横、添うように真四角の一枚岩が表面を奇麗に平にされた状態で土の中に埋まっていた。あの四角い台座の上は、最も神の気を受け取ることができる場所として古くから言い伝えられてきた。
その巨大な台座の麓で、ふたりは石でつくられた簡素な椅子に腰かける。
「環姫が蟲を飲むのをご存知ですね」
「それは……前に聞いたな」
「詳しくは申し上げませんでしたわね」
「…………うむ」
さてどこから話せばよいかしら、と逡巡したのち、金香はやや早口に語り出した。
「環姫に入れる蟲は、ある働きをします。体を丈夫にし、傷の治りも早いですし、病にかかって主人よりも先に死ぬことはございません。いちばん優れているところは寿命を制御できる点でしょうか。主と決めた人と添い遂げるよう、命を延ばすことが可能です。老いも主の希望どおりに進みます。ですから、王族に嫁いだ環姫は同じだけ千年もの時を生きられるのですわ」
「……」
「ただ、もちろん同じだけ危険も伴います。毒性が強いので、常に中和させる必要がございまして」
耳慣れないことばに、御青はつい身を乗り出す。
「中和……?」
ぽつりと口にする国主のようすに、金香は一瞥してすぐに忌々しげに目を閉じた。
抜かった。甘かった。
こんな基本のこと、山茱萸は説明できなくても、どこぞの家臣から聞き及んでいると妄信していた。
苛立ちは、彼女の口に油を注いだようだった。やや尚早に核心の話題へと進む。
「ええ。蟲の餌は環姫の精神、そうですわね、主とともにある喜びのような、受けた愛情を力にしたような、そういったものなのですけれど…………」
話が続けられるにつれて、御青は悪い予感が浮かんでくるのを止められなかった。
「毒は常に中和させなければなりません。直接的な表現で恐れ入りますが、主の体液……つまり、汗や涙、精液、唾液、血などが中和剤の働きをいたします。おそばに仕えて同じ空気を吸うだけでもいくぶんか効果があるとも言いますわね」
あまりにも衝撃的な内容に、気が遠くなる。
御青はふと思い返してみた。
あの日の、山茱萸らしからぬ痴態を。そうして、それから己が取った態度を。
いったい、御青が罰するほど、あの子どもはどれほどの罪を犯したというのか。
「あ、与えられないと、どうなるのだ」
泣きそうな掠れた声が砂埃に攫われる。東の国主は、いつしか石と同化してしまったかのごとく、瞬きもしなかった。




