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東方に座す  作者: 延珠
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ただあなたのそばに

 朝方、じわじわと迫り来るような熱気に目が覚めた。もうすぐ夏がやってくる。苦手な季節だった。己が春を冠する者だというわけではないが、暑い夏はかつて春を通過して安堵した人が次々と旅立っていった時期だ。よい思い出などない。


 酒の残る重い頭がだんだんと覚醒してくると、体の上に違和感を覚えた。


 重い……なにか、乗っている?


 しかも、腹のあたりに妙に温かいものを感じた。


 ゆっくりと瞼を押し上げて、御青みさおは凍りついた。




 サ、サン…………!




 山茱萸さんしゅゆが、細い肢体を夜の闇に溶かすようにして、一心不乱に御青の腹を舐めているのだ。その顔が恍惚に輝いているのを認めると、頭のどこかでぶちりとなにかが切れた音がした。


「……なにをやっている」


 ぴくり、と身じろいだ山茱萸が顔を上げ、国主の目が小さな環姫の姿を確かめる。その瞳は虚ろで、男を誘うかのように口元がだらしなく開いている。


 昼間の無垢な子どもは、そこにはすでに存在していない。


 ますます苛々が増して、


「なにをやっている、と聞いている」


 もう一度、底から響くような低い声が部屋中に広がると、山茱萸はようやく我に返ったようだった。


「あっ」


 自分のしたことが信じられない、とでも言うように、顔を真っ赤にさせて見るも哀れに震えだした。


 しかし、怒りに支配された御青は、そのようすに心を動かされることはない。無情にも両性の薄い肩をつかんで力いっぱい己から引き剥がした。


 哀れ、叫び声も出せないまま床に転がっていく。なにかがぶつかり、壊れる嫌な音がしばらく続いた。


 静かになったとき、もう御青の姿は消えていた。


 山茱萸は泣いた。静かに、静かに。


「ご……ごめんなさ……。ご、ごめんなさい」


 そうして、硝子の破片を浴びながら、ずっとその場に横たわっていた。




 朝餉の間、現れた子に一瞬ながら周囲がざわめいた。


 泣きはらしたのか、瞼も頬も真っ赤に腫れ上がっていて、見ているこちらのほうが心を痛めるようなありさまだった。


 髪も梳いてもらっていないし、夜着から着替えてもいない。小さな子どもがよたよたと歩み寄ってくるさまを、一同が息を飲んで見守っていた。


「み、みさおさま」


 ここで無視しようものなら、御青自身が屋敷から追い出されそうな雰囲気ではある。もちろん有り得べくもないが。


「ご、ごめんなさい。お、おそばに、いさせてください。お願いします」


 東は青竜の国、御青は竜の化身である。元来、竜とは情の深い生き物だ。


 ふと、女が残したことばを頭のなかで反芻する。


 よくわからないが、環姫とは主と離れることなどできないようだし、そばにいなければ死んでしまうということも今では知っている。


「……勝手にしろ」


 吐き捨てるように言っても、山茱萸はぱあっと顔を輝かせて泣いた。


「ありが、ありがとう……ございます。ありがとうございます」




 それから、山茱萸の希望により、東の環姫は召し使いのようなことを始めた。


 御青の床の敷き布を取り替えたり、食器を片づけたり、そういうことを。


 いつか食事を終えて去るときに、


「もう御青と呼ぶな」


 と言ったとき、山茱萸は「はい」と片づけをする手を一瞬止めて小さくつぶやいた。


 これではまるで、虐めているようではないか。


 気づいても、後には引けない。御青は自分から求めたことなどない。去る者を追ったことすらない。


 この環姫は思いがけなく琴の名手だったために、それ以外の時間はぼんやりしているかひたすら弦を弾いていた。


 御青も山茱萸の琴の音を聞いていると心が落ち着き、目を閉じて聞き惚れる僅かな時間を、忙しい中からあえて持つようになった。




 ふたりに会話はなく、食事を共に取ることすら稀になる。


 だから御青は気づかない。山茱萸の食欲がだんだん落ちていき、今ではほとんど口にできないことを。


 きらきらした黒い瞳が、切なげに細められて常に己を追っていることを。


 気づかない。


 否、気づこうとしなかったのかもしれない。




 すっかり身支度を終え、明日からの予定と、準備させた荷や兵の確認をしていたころ、蘇芳すおうがつと寄って来た。


 ようやく青年の枠を超えたようながっしりとした体つきだが、目尻が下がっているためにお人よしそうな優しい印象が与えられる。


 東の国の第八市長で、今現在では全十四市を率いる長であり、御青の腹心でもある。


 そんな彼が目線を泳がせながら、国主に近づいた。


「陛下、環姫さまのお姿が見当たりませんが」


「ん? そうだな、もちろん黙って出立などせぬぞ。あとで顔を見にいってやる」


 言いながら、脇を通り過ぎた荷に注意が逸れた。屋敷のなかは常にない活気で満たされており、人々があちらへこちらへと流れていくたびに空気が揺れる。


「……お連れにならないのですか」


 蘇芳はさっと顔を翳らせた。


「はっ、お前までなにを申しておる? 連れていくわけがなかろう。どこの国主が政治の場に妾を侍らせるものか」


 妾……そのことばを聞いて、蘇芳は、やはりまだ国主が環姫の存在を理解していないことを知った。


「お連れにならないと、後悔なさいますよ。あの姫も……お可哀想だ」


「ばかを言うな。少しくらい留守にするだけで大げさな。……寂しがるかもしれぬが、あれもそんなに子どもではない」


 では抱いてやればいい。そんなせりふが蘇芳の中で生まれ、そして消えていく。


 軽く睨みつけても、市総長はまだなにか言いたげに暗い顔をしている。


 ちっ。


 御青は胸の内で小さく舌打ちをした。おおかた、蘇芳も隠れて環姫を持っている派で、一緒に連れようとした目論見が外れてしまったのだろう、と思ったのだ。


「この話はもう終わりだ。よいな」


「……承知しました。……ただ、紅玉こうぎょくは必ずお渡しになってくださりますよう」


「ん? わかったわかった。では、声をかけてくるから引き続き準備を進めておけ。一刻後には出発だ」


「御意にございます」


 蘇芳は深く項垂れるように礼を取った。

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