情けをください
「では、契約の儀を始めてもよろしいでしょうか」
激昂したのが嘘だったのか、ただ単に立ち直りが早いのか、延珠亭店主は晴れやかな顔で国主の座る長椅子の敷き布に手を伸ばし、皺を直した。次いで優雅に式礼をおこなう。
「どうぞ、陛下」
「……ご苦労」
女の変貌の激しさに内心恐れを抱きつつ、東の国主は環姫を抱いたまま静かに腰かけた。
「我は帝王学の授業より、わざと環姫の項目を外させた。周りの者から聞きかじったこともほとんどない。見たところ、この国でいちばん物を知らぬのは我らしいな。契約の儀とはなにをするものか」
腹をくくったのか、真摯に向けてくる眼差しはさすが王者らしく気品と風格に溢れている。郁金香が彼に対する好感度をかなり上昇させたのは秘密だ。
「なにか、必要なものなどあれば言うがいい」
「特にございませんわ」
茶はもう冷めてしまったが、落ち着いた香りが更に匂いたち、これはこれで味わい深いものとなっている。
「情けを与えてくださりませ」
腕の中の環姫が身じろぐ。が、起きる気配はないようだ。
「情け、とは?」
「契ってくださればよろしいのです。この子は環姫なのですよ。永遠に陛下にお仕えするのですから」
情けをかける。
契る。
一瞬放心した主だったが、すぐにさあっと青ざめる。
「ば、ばかな。子どもではないか」
「ご心配には及びません。すでに精通も初潮も終えておりますわ」
「は……?」
力が抜け、思わず幼子を取り落としそうになった。
そうだ。ただの子どもだ。美しいが、子ども、それだけのはずだったのに。
「まさか」
「はい、陛下」
「両性、だと言うのか。これが」
「さようでございます」
あっさりと肯定する女をこれほど厭わしく思ったことはなかった。
彼の人生において、ここまで主導権を握られた一日はない。すべてが後手後手に回り、気がつけば鎖で絡めとられている。
「もともと、環姫とは両性を指す語のひとつに過ぎません。近年のように男女入り乱れるのはここ数千年になってからのことですわ」
数千年、という時間の括りを簡単に言ってのける女は、何者か。
延珠亭の、店主?
国主の額にじわりと汗が浮かぶ。
そもそも、延珠亭とはなんだ、身売りを斡旋する中立市の悪しき店に過ぎないのではなかったか。
「同義だと言うのか。両性と環姫が」
「そう申し上げてなんら不都合はないかと存じます」
「ばかな……両性は国の宝ぞ」
呆然とつぶやいた国主を、女はそれこそ幼子を見るように柔らかい視線で眺めやった。
「ですから、陛下は環姫を理解されていないと申し上げたのです」
すやすやと寝息を立てて眠る姿は、天女が産み落としたばかりのような清純な空気をまとっている。
会議の机よりも大きいかと思われる寝台に横たわっていると、海に放り投げられて所在無く浮かぶ小船を連想してしまう。ゆらゆらと波にさらわれてしまいそうで、国主はつい艶やかな黒髪と柔らかな頬を撫で上げた。すると、
「ん……」
ぱちり、と大きな黒い瞳が現れる。
「起きたか」
「はい」
やはり長い道程で疲れていたのだろう。すでに日は暮れている。まるまる半日眠っていたのだ。
環姫はしばらくぱちぱちと睫毛を震わせていたが、ゆっくりと背を起こした。
半分はぼやけた視界の先に、微笑む女の影が捉えられる。
「金香さま」
「山茱萸、いい子ね」
郁金香はいつもどおり微笑む。が、その表情は思いがけなく固い。
音もなく近づくと、国主に倣いその桃色に上気した頬に指を滑らせようとして、手を止めた。
「わたくしはもう帰ります」
「はい」
「幸せに、なるのですよ?」
「……はい」
「また会いに来るから。いい子で」
「はい」
「わたくしの教えたことを、決して忘れてはいけませんよ」
「……」
「約束してくれるわね?」
はい、と泣きそうな声が響いた。
郁金香はずいぶん名残惜しそうにしていたが、やがて決意したのかまた手首の鈴を鳴らす。
外套を持って現れた男たちに導かれ、宮の中まで招き入れた馬車に乗って帰っていった。
環姫がどうしても見送ると言って騒いだので、主も仕方なく腕に抱え、宮の果ての門が閉ざされて見えなくなるまで外に突っ立っていた。
視線を落とすと、小さな手に持たせた灯りのせいでやや赤くなった目が確認できる。
「入るか。風邪をひく」
「はい」
国主が動くと、そばに控えた女たちもするすると後に従う。
その衣擦れの音を聞きながら、彼は思った。
もしかすると。
そう、もしかすると。
延珠亭とは己が抱いているものとは違うのかもしれない、と、母親のような女の眼差しを思い返していた。